0-4
アノマリーの五個体がデパートの全階層へと散らばり、フロアを無慈悲に徘徊し始めた、まさにその時間帯。
デパートの最上階近くにある静かな管理事務所の内部では、外の地獄絵図から完全に隔離された「最悪の対話」が行われようとしていた。ドタドタと、廊下を激しく駆け抜ける足音が響き、事務所の重い扉が勢いよく蹴破られるようにして開いた。
「店長……ッ! 大変です、大変なことになりました!」肩を激しく上下させ、息も絶え絶えに滑り込んできたのは、若手社員の柿谷修だった。
「どうしたのかね、柿谷くん。そんなに血相を変えて、慌てふためいて」デスクの椅子に深く腰掛け、書類に目を通していた店長の川端博司は、眼鏡の奥の目を怪訝そうに細めて尋ねる。高級な応接室の空気は、いつもと変わらず穏やかだった。
「化け物が……化け物が出たんですッ!!」柿谷は必死に事態の異常性を訴えようとしたが、極限の混乱に陥った脳から出たのは、あまりにも非現実的なその一言だけだった。それを聞いた店長――川端は、眉の間に深い不快感の皺を刻み、要領を得ないとばかりにピシャリと言い放った。
「よく分からないんだがね。化け物とは一体何のことかね? 君のその取り乱し方からして、ただ事ではないトラブルがあったのだろうということくらいは察するが、社会人ならもう少し論理的に、詳しく話を整理して話しなさい」上司の冷徹な一喝を受け、肺に冷たい空気を無理やり吸い込んだ柿谷は、恐怖でガタガタと震える膝を抑え、ようやくポツポツと事の経緯を話し始めた。
「いや……っ、自分も直接、そこで何が起こったかという決定的な瞬間までは見ていないのです。ちょうど、婦人服フロアの売り場に用事があったので、エレベーターを使って下へ移動していたのですが……フロアに到着した瞬間、大量のお客様が、叫び声を上げながら階段や出口に向かって津波のように殺到していて……っ!」柿谷は思い出すだけでも鳥肌が立つ恐怖に、顔を引きつらせる。
「どう見ても、通常の火災や避難訓練とは違う、尋常ではないパニック状態でした。慌てて逃げていくお客様の一人を捕まえて、『一体何があったのですか!』と聞いたのですが、その方はただ狂ったように『化け物が出た、みんな殺される』とだけ叫んで、そのまま走り去ってしまって……!」柿谷の説明をまとめると、以下の2点に尽きた。
2階の婦人服売り場で、正体不明の『化け物』が出現したという情報がある。ただし、そこで実際に何人の被害が出て、どんな殺戮が行われているかまでは、一切不明。結局のところ、柿谷自身も何が起きているのか全貌を掴めないまま、恐怖の直感に突き動かされてここへ逃げ込んできたに過ぎなかったのだ。「――で、君はなぜ、そんな曖昧な噂話の段階で、職務を放棄してここにいるのかね?」川端は手元のペンを机にコツンと叩きつけ、イライラとした感情を隠そうともせずに冷たく言い放った。
「お客様がパニックを起こしているなら、我々商業のプロが真っ先に状況を確認し、適切なアナウンスを流して避難誘導を行うのが先決だろう? こんな最上階の事務所で、化け物がどうのなどとオカルトじみた報告をされては困るよ」「あっ……は、はい。そう、ですね……。申し訳ありません、確認してきます」
デパートの最高責任者である店長の、あまりにも現実を無視した冷酷な態度に、柿谷の胸の内には恐怖を通り越した激しい怒りがふつふつと湧き上がった。(何が状況確認だ。何が避難誘導だ。あの階段の人の波を見れば、これがどれほどヤバい事態か分かりそうなものなのに……!)だが、この男に何を言っても無駄だ。
柿谷は「これ以上ここにいたら自分まで正気を失う」という本能的な危機感を抱き、挨拶もそこそこに、慌てて今来たばかりの静まり返った廊下へと、踵を返して戻っていくのだった。――背後の事務所で、店長がため息をつきながら書類へ視線を落とした、まさにその瞬間。
4階のフードコートから上がってきた「5体目の黒い質量」が、3階の町田恵美を吸い尽くし、すぐそこまで足音もなく肉薄していることに、二人はまだ気づいていなかった。




