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0-3

現場に臨場した警官の一人、羽田直人(はねだ なおと)は、アノマリーの突発的な落下襲撃から運よく直撃を免れた、数少ない一人だった。しかし、激しい風圧と爆風のなかで、つい数秒前まで並んで盾を構えていた同僚の何人かが、あの黒い質量の下敷きになって一瞬で圧殺されたという最悪の事実だけは、脳裏にハッキリと焼き付いていた。


「おい、しっかりしろ! 大丈夫か!?」これが高度なテロリストによる未知の爆発攻撃なのか、それとも別の何かなのか、羽田の知識では判断がつかなかった。だが、彼は警察官としての本分を全うすべく、右手に特殊警棒を鋭く構え、視界を塞ぐ土煙のなかで事態の把握と犯人の制圧に努めようとした。


対人間であれば、それはまさしく模範的で正解と呼べる迅速な防衛行動であった。――しかし、アノマリーという絶対的な異形に対しては、何の意味も持たない虚しい足掻きに過ぎなかった。立ち込める土煙の奥から、歪な黒い人影のようなものが、猛烈な速度で羽田めがけて襲い掛かってくる。


「止まれ! 動くな!」羽田は条件反射で肉体を駆動させ、犯人の脳天を叩き割るつもりで、握りしめた警棒を渾身の力で振り下ろした。カツン、と肉物質に何かがめり込む奇妙な手応え。


だが、叩き込んだその瞬間、羽田は自身の右手に冷たい、異様な違和感を覚えた。(……動かない?)次の打撃へ移行しようと右腕を引こうとするが、筋肉がピクリとも反応しない。それどころか、右手の感覚そのものが、根元から急速に消失していく。


脳がその異常事態を恐怖として認識するよりも早く、犯人らしき黒い影は両腕を広げ、羽田の肉体を正面から強引に抱き込んできた。全身を鉄の万力で抑え込まれ、骨ごと内側からメリメリと叩き潰されるような凄まじい圧迫感。それが、若き警官がこの世界で最後に感じた、あまりにも理不尽な死の感触だった。


「羽田――っ!!! 何をしてる、逃げろっ!!」羽田直人とバディを組んでいた先輩警官、長野真司(ながの しんじ)は、相棒が怪物に襲われたその決定的な瞬間を、至近距離から生々しく目撃していた。長野の動態視力は、羽田が犯人らしき黒い肉塊の肩口へ、正確に警棒を叩き込む瞬間までは確かに捉え、理解していた。しかし、次の瞬間が狂っていた。


叩きつけられた鋼鉄の警棒は、怪物の肉体を破壊するどころか、まるでドロドロの泥に沈み込むようにして、その黒い体躯の中へと一瞬で「吸い込まれて」いったのだ。そのまま警棒を融解・捕食し、さらにはそれを握っていた羽田の右腕をも、黒い肉壁が生き物のように這い上がりながら飲み込んでいく。


怪物は羽田を愛おしそうに抱きかかえる姿勢のまま、その全身を分子レベルで分解し、己の血肉へと引きずり込んでいく。羽田直人という人間の輪郭は、長野の目の前で、音もなく怪物の体内へと完全に吸い込まれて消えていった。


「嘘だろ……。おい、何なんだよこれは……っ!!」意味が分からない。目の前の大理石の床には、血の一滴すら落ちていないのだ。脳が必死に状況を論理的に理解しようと暴走するが、考えれば考えるほど、視覚情報と現実の矛盾に精神が狂いそうになる。だが、ただ一つ、野生の直感が告げていた。


――次は、自分の番だ。それは思考による選択ではなく、完全な無意識の生存維持本能だったのだろう。長野真司はガタガタと震える手で、とっさに腰のホルスターからニューナンブ拳銃を引き抜き、親指で安全装置を叩き解除した。


「くるなァァァァァァァッ!!!」無我夢中で、引き金を何度も激しく引き絞る。ドン! ドン! ドン! と至近距離で爆音が連続して響き渡った。放たれた。38口径の鉛弾は、一寸の狂いもなく黒い怪物の胸部へと次々に入り込んで着弾する。


人間の肉体なら一瞬で肉片を撒き散らして消し飛ぶはずの銃撃。アノマリーはその激しい衝撃を浴びるたびに、確かに物理的なノックバックで一歩、また一歩と後ずさりをした。――だが、それだけだった。


弾丸は怪物の表面の黒い物質に吸い込まれ、血を流すことも、皮膚が裂けることもない。5発の弾丸をすべて撃ち尽くし、カチカチと虚しい撃針の音だけが響く中、長野真司の口からは「ははは……」と、完全に狂気に彩られた乾いた笑いしか出てこなかった。銃撃による物理破壊が全く通じないわけではない。しかし、拳銃程度の単発の火力では、奴らの異常な結合能力を削り切るにはあまりにも豆鉄砲が過ぎたのだ。そして、その銃声が最悪の決定打となった。


発砲された爆音のエネルギーを、耳のない奴らがどう感知したのかは不明である。だが、周囲に落下していた他のアノマリーたちは、今まで貪り喰っていた一般の野次馬たちの捕食をピタリと中断すると、一斉に首のない頭部を長野の方向へと向けた。殺意のネットワークが、一瞬で共有される。


「ひっ――」五体のアノマリーが、凄まじい質量を伴って、地響きを立てながら長野真司の細い身体めがけて四方から一斉に殺到した。一瞬にして漆黒の肉壁の津波に群がられ、押し潰された長野。


彼だったものは、次の瞬間には一音の悲鳴すら残せず完全に捕食され尽くし、そこには衣服の破片一つ、拳銃一丁すら残されず、ただ冷たい風だけが吹き抜けていた。

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