5-1 ブラックボックスの罠:白川ゆりの原点
5-1 ブラックボックスの罠:白川ゆりの原点
白川ゆり――。今やナノマシン工学の世界的権威として、その名を知らぬ者はいない天才科学者である。彼女の歩んできた道は、孤独と執念に彩られていた。
まだ幼い頃、不慮の交通事故で最愛の母が急逝。以来、父と娘の二人三脚の生活が始まった。しかし、心の支えであった父もまた、ゆりが大学を卒業する前に病でこの世を去ってしまう。
父・白川博もまた、当時の医療ナノマシン工学分野において、世界にその名を轟かせた高名な研究者であった。偉大な父の背中を見つめて育ったゆりが、同じ科学の道を志すようになったのは、必然の成り行きだったと言える。
「ナノマシンはね、ゆり。人間の身体の悪いところを、全部治してくれるんだ。将来、それはそれはすごいことができるようになるんだよ」それが父の口癖だった。それを聞くたび、幼いゆりは元気よく声を弾ませた。「わたしも、パパと一緒にナノマシンつくる!」
「そうか。じゃあ、父さんと一緒につくろうね」博は嬉しそうに目を細め、愛おしそうにゆりの頭を何度も撫でるのだった。しかし、その約束が果たされる日は来なかった。
「医者の不養生」とは、まさに父のことだった。博は寝食を忘れて研究に没頭していた。ゆりとの生活を決して疎かにはせず、娘の前では常に優しい笑顔を絶やさなかったが、その肉体はとうに限界を超えていたのだ。
「病院に行く暇があるなら研究を進める。検査なんて後回しでいい」そんな研究者特有の悪癖が災いし、父は志半ばで病魔に倒れた。
遺されたゆりは、まるで何かに取り憑かれたように、それまで以上に研究へ没頭していった。最愛の父を失った底知れない孤独と悲しみを、科学の計算式で埋めて紛らわせたかったのが、彼女の本音だったのかもしれない。やがて、圧倒的な研究実績と解析データを伴う彼女の論文は、瞬く間に学会を席巻していく。
しかし、輝かしい功績を積み上げる彼女の名誉を、妬む愚者たちが現れた。彼らは甘言を弄してゆりに近づき、彼女の血と汗の結晶である手柄を横取りして、自らの功績として発表しようと画策したのである。だが、彼らは決定的なことを見くびっていた。
彼女の研究コードには、凡人には決して解析できない独自の理論――完璧な「ブラックボックス」が組み込まれていたのだ。
そこには巧妙な罠が仕掛けられていた。彼女の理論の表面だけを模倣して再現しようとすると、システムが致命的に自己破綻するように設計されていたのである。
何も知らずに盗作を発表した者たちに対し、ゆりは学会の壇上から、冷徹にその致命的な矛盾を突きつけた。盗用した者たちは、それが「自ら開発したものではなく、盗んだものである」という弁解すらできず、文字通り社会的に破滅していくのだった。




