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デパートの3階。凄惨な初捕食が行われた2階の婦人服売り場から、ちょうど一つ上に位置する紳士服売り場のフロア。二手に分かれたアノマリーのうちの1体は、静かにこの階へと侵入していた。


お昼時という時間帯もあって、この時の紳士服売り場にはほとんど人影がなかった。たまに訪れる客の目的も、ネクタイやハンカチといった日常雑貨の小物を買い求める程度である。そのため、このフロアにいる数少ない客たちも、売り場を守る店員たちも、すぐ足元の階下で繰り広げられている凄惨な地獄絵図を、未だ誰一人として知る由はなかった。


もし、地下の防災センターにある非常警報装置が正常に作動してさえいれば、彼らにも逃げるチャンスはあったのだろう。だが、現実はどこまでも非情であり、残酷だった。


静寂に包まれたフロアには、おだやかなBGMだけが虚しく流れ続けている。エスカレーター付近のカウンターに立っていた女性店員、町田恵美(まちだ えみ)は、階段の方から上がってきた「客らしきもの」の存在にいち早く気がついた。


挿絵(By みてみん)


「いらっしゃいませ……?」営業スマイルを浮かべ、その招かざる客へと丁寧に応対しようとした町田だったが、その言葉の語尾は自然と疑問符に変わっていた。そのシルエットは、見る者に生理的な嫌悪と強烈な違和感を抱かせる、あまりにも奇怪な異形だったからだ。


挿絵(By みてみん)


――一見すると、確かに「人の形」をしているように見える。だが、その輪郭は泥のように歪んでおり、顔があるべき場所には目も鼻も口も存在しない。衣服を身に纏っているわけでもなく、だらりと伸びた両腕の先には、指の一本すら形成されていなかった。全身が、光を吸い込むような不気味な黒い肉物質で満たされている。


(……何かのサプライズアトラクションかしら? でも、今日のシフトでそんなイベントの話なんて聞いていないけれど)町田の脳裏に、そんな困惑がよぎる。しかし、彼女の思考が追いつくよりも早く、その異形は一歩、また一歩と距離を詰めてきた。


「あの、失礼ですが……何かのイベントの演出でしょうか?」自分の勘違いや、悪質な悪戯の可能性も考慮したのだろう、町田は努めて冷静さを保ちながら質問を投げかけた。


しかし、その黒い怪物は何も答えることなく、ただ無言で町田恵美へと近づいてくる。さすがに背筋に冷たいものを覚え、強い不審感を抱いた彼女は、もう一度だけ毅然とした態度で問いかけようとした。「あの、何か御用でしょうか……っ」あまりの不気味さに思わず後ずさりながら尋ねるが、その問答に返答が返ってくることはなかった。距離にして、あと数メートル。次の瞬間、それまで粘つく泥のようだった黒い怪物の挙動が一変した。


アノマリーは巨大な両腕を左右に大きく広げると、今までの緩慢な動作からは到底想像もつかないほどの恐るべき爆発的なスピードで急接近し、町田恵美の身体を正面から力任せに「抱きしめた」のだ。「――死の抱擁(デス・ハグ)」。後に天野財閥のレポートでそう命名されることになるその拘束は、触れた瞬間に生体を分子レベルで分解し、己の血肉へと吸収するアノマリーの必殺の捕食形態だった。


「いやっ……」町田が悲鳴を上げようとした瞬間には、すでに彼女の視界のすべてがどす黒い肉壁によって完全に覆い尽くされていた。全身の肉が、骨が、悲鳴を上げる間もなくドロドロに融解し、怪物の体内へと吸い上げられていく。


激痛を感じる暇すらなく、彼女の意識は深い闇の底へと一瞬で消え去った。おだやかなお昼の静寂のなかで、一人の若い女性の命が、まるで最初から存在しなかったかのように、音もなく綺麗に消滅したのだった。

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