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13B-24 『静かなるマグマ』

13B-24 『静かなるマグマ』



縫合の練習を終え、紫苑は手袋を静かに外す。

その所作は丁寧で少しの乱れもなかったが、その指先には微かな震えが残っていた。


机の端には、山のように積まれた資料の束。

厚生労働省からの医療予算案、国際医療連盟の会議記録、天野財閥医療部門からの報告書――。

紫苑はそれらを冷ややかな目で見つめた。


「……こんな紙切れで、救える命があると思っているのかしら」


低く、静かな声。決して大声で怒鳴り散らしているわけではない。

しかしそこには、天野宗次郎の血を引く者だけが持つ、頑ななまでの“芯の強さ”が滲んでいた。

紫苑は資料を手に取り、無感情にページをめくっていく。

そこに並んでいるのは、泥臭い政治的駆け引きと、冷酷な予算の数字ばかりだ。


「患者さんの顔も知らない人たちが、医療の未来を決めているなんて……滑稽だわ」


バサリ、とページを閉じる音が静まり返った研究室に響く。

それは、溢れ出しそうな怒りを必死に押し殺した音だった。

紫苑は一人の医師として、これまで何度も“救えなかった命”と向き合ってきた。そのたびに――


「もっと早く治療できていれば」


「もっと高度な設備があれば」


「もっと現場に人手があれば」


と、歯かみするような思いを重ねてきたのだ。


しかし、突きつけられる現実はあまりにも不条理だった。

会議で決まる予算が滞ることで治療が遅れ、政治的な都合で最新設備が止められ、行政の壁によって救えるはずの命が零れ落ちていく。


紫苑はその構造の醜さを誰よりも熟知している。

だからこそ、彼女の胸の内に燃える怒りはどこまでも静かで、そして深かった。


「私は……患者さんを救うために医師になった。なのに、今の私は……数字を救っているだけ」


その呟きは、不甲斐ない自分自身に向けられた鋭い刃でもあった。

紫苑は宗次郎の娘だ。

家族を守るためなら行政や権力者相手にも容赦なく怒鳴り込む、激情家の武人。紫苑も確実にその“怒りの血”を受け継いでいる。


ただ彼女の場合、父のように感情を外へ向けて爆発させるのではなく、内側でマグマのように燃やし続ける質(たち)だった。

その抑え込まれた怒りこそが、彼女の冷静な判断力の裏側にある圧倒的な“熱量”となっている。


「……父さんみたいに大声で怒鳴り込めたら、どれだけ楽かしらね」


紫苑は小さく自嘲気味に笑う。しかし、その笑みにはどこか深い寂しさが宿っていた。

机の上のスマートフォンが、再びブッと短く震える。

画面を開くと、妹の唯からのメッセージだった。


『姉さん、帰ってきたら一緒にご飯食べよ?』


その無邪気で温かい文字を目にした瞬間、胸の中で渦巻いていた冷たい怒りが、ほんの少しだけ解けていくのが分かった。


「……唯がいるから、私はまだ壊れずに済んでいるのね」


感情の塊で、自分とは正反対の性格をした妹。

だが、その屈託のない明るさこそが、紫苑の内に溜まる熱を柔らかく和らげる唯一の清涼剤だった。

紫苑は立ち上がり、研究室の大きな窓から夜景を見下ろす。

遠くで街の明かりが、まるで生き物の鼓動のように揺らめいていた。


「私は……もう現場には戻れない。でも、戻れないなら戻れないなりに、この場所から守れるものを守るしかない」


それは、彼女が自分自身に課した静かな誓い。

胸の中の怒りをエネルギーに変え、圧倒的な理性で世界と家族を支え続ける。

それこそが、天野紫苑という女性の誇り高き生き方であった。


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