13B-23 『夜の縫合糸』
13B-23 『夜の縫合糸』
だから――
紫苑は夜、静けさの中でこっそりと「自分の手」を取り戻そうとする。
研究棟の最上階にある研究室。昼間は会議と政治的調整で埋め尽くされる紫苑の一日は、夜になってようやく“自分の時間”を迎えるのだった。白衣を脱いで椅子に掛け、黒のタートルネックのまま静かに部屋の中へ進む。蛍光灯のスイッチには手を伸ばさない。モニターが放つ冷たい青い光だけが、彼女の横顔を寂しげに照らし出している。
机の上には、医療用の縫合トレーニング用マネキン。その横には、滅菌済みの縫合針と糸が整然と並べられていた。
紫苑は深く息を吐き出すと、まるで密やかな儀式でも執り行うかのように手袋をはめる。
「……これが、私の本当の仕事だったはずなのに」
誰に聞かせるでもない独り言。絞り出すような声は静かだったが、その胸の奥には重く冷たいものが澱のように沈んでいた。
昼間の彼女は、国際医療連盟、厚生労働省、天野財閥医療部門――会議、会議、そして会議。飛び交うのは数字と政治と予算の話ばかり。
患者の脈を取る代わりに、果てしない統計のグラフを眺め続ける毎日。それが紫苑には耐え難かった。
紫苑は持針器で縫合針を挟み込む。ほんのわずか、指先が微細に震えた。
「……やっぱり、少し鈍っているわね」
こぼれたのは悔しさではなく、寂しさだった。本来の自分の“手”が、どんどん遠ざかっていくような感覚。
呼吸を整え、ゆっくりと縫合を始める。針が人工皮膚を滑らかに貫く感触。糸がシュッと締まるかすかな音。そのすべてが、紫苑にとっては自分の居場所へ“帰ってきた感覚”だった。
「……これなら、まだ大丈夫」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
彼女は天野家の理性であり、医学界の最高権威であり、宗次郎の娘であり、唯の姉であり、マリの相談役であり、ゆりの心を支える静かな存在でもあった。
でも――
紫苑自身は、ただの「一人の医師」でいたかったのだ。
静まり返った研究室で縫合を終えた頃、机の端に置かれたスマートフォンが短く震え、画面を明かりが照らした。画面を確認すると、妹の唯からの短いメッセージだった。
『姉さん、今日も遅いの? ちゃんとご飯食べた?』
画面を見つめる紫苑の唇に、自然と柔らかい笑みがこぼれる。
「……唯は本当に、私のことばかり気にするのね」
短い文面で返信を打つ。
『食べたわ。あなたこそ無理しないでね』
ただそれだけのやり取りなのに、昼間の会議や巡回でささくれ立っていた感情が、じんわりと温かく解けていく感覚にとらわれる。
紫苑の表情から、刺々しさが消えていった。
縫合針と器具を丁寧に片付けながら、紫苑は静かに呟く。
「私は……患者を救うために医師になったのに。どうして、こんなに遠回りばかりしているのかしら」
でも、彼女は知っている。自分が現場に戻れば、天野家の医療部門は立ち行かなくなる。国の医療政策も大きく揺らぎ、唯も、マリも、ゆりも困ることになるのだと。
だから紫苑は、明日も会議に出る。数字を追う。政治と世界を動かす。
そして夜になったら、こうして静かに研究室へ戻り、“医師としての自分”をそっと取り戻すのだ。
医療のトップでありながら現場を愛し、会議に追われる日々に違和感を抱き続け、夜にこっそり手技を磨く。
唯との温かなやり取りを心の支えにし、マリの暴走を止める理性となり、ゆりの心を支える静かな姉――。
それこそが、天野紫苑という女性の真実であった。




