13B-22 『天才医師の孤独』
13B-22 『天才医師の孤独』
クローディア(マリ)は、叔父の宗次郎の助言に従い、従姉である紫苑に連絡を取ることにした。
「やぁ、紫苑姉。今、少し時間をもらえるかな?」
多忙を極める彼女の手を煩わせるのは気が引けるものの、後回しにできるような案件でもない。
マリは意を決して通信を繋いだ。
天野紫苑――医学界の最高権威にまで登り詰めた天才医師。彼女の日常とスケジュールは、まさに苛烈を極めていた。
研究所兼総合病院の本部に出勤するやいなや、朝からオンライン会議が3件怒涛のように続く。
一つは国際医療連盟、二つ目は厚生労働省、そして最後は天野財閥内部の医療部門。
片手でコーヒーを持ち、目まぐるしく流れる資料を確認しながら「これが本当に『医療』なのかしらね」と、誰にも聞こえないような小さなため息をつく。
会議が一巡すると、今度は病院内の巡回だ。
名声が高まりすぎた結果、実際に患者を診察できるのは週に数回程度。
若手医師たちの研究報告に耳を傾けつつ、同時に政治的な調整や立ち回りを強いられる。
そもそも自分自身も世間一般では十分「若手」の部類に入る年齢なのだが、周囲は勝手に紫苑を神輿のように祭り上げていく。
立場が上がれば上がるほど、自分が最も愛する「医療の現場」から遠ざかっていく現実。
(患者さんを診たいのに、見ているのは数字のグラフばかり……)
心の中でそうぼやきつつも、現場で戦う医師たちの生の声を取りこぼさず拾い上げるのは怠らない。それが彼女の持つ医療への誠実さであった。
巡回が終われば、とりとめもなく次の会議が始まる。全ての予定を終え、ようやく自分の研究室へ向かう頃には周囲はすっかり静まり返っていた。
白衣を羽織り、静寂の中で遺伝子再生医療のデータを整理する。
妹の唯から届いたメッセージを見つけると、紫苑の唇に小さく笑みが浮かんだ。
「あの子はまだ現場で走り回ってるのね……」
独り言を呟きながら、すっかり冷めきったコーヒーを口に含んだ。
紫苑の本音は「ただ目の前の人を救う現場に戻りたい」――ただそれだけだった。
「医療のトップ」という重責と肩書に誇りは持っている。しかし、今の彼女が一言動くだけで国や社会が動いてしまう。だからこそ自分の感情を押し殺し、冷徹なまでの理性で世界を支えていた。
「こんなことがしたくて医者になったわけじゃないのに……」
それでも、誰かがこの役割を担わなければならない。患者の脈を取る皮膚の感覚が、冷たい数字とグラフに置き換わっていくような感覚。紫苑の胸には、常に拭いきれない大きな喪失感があった。
天野家という巨大な立場上、「現場の一医師に戻る」ことは決して許されない。
だからこそ紫苑は、深夜の研究室で一人静かに手技の練習を続けていた。医療用マネキンに向かい、指先に全神経を集中させて縫合糸を紡ぐ。
「……まだ、衰えてない」
そう自分に言い聞かせるように呟く。紫苑にとって、患者を救うための「手」の感覚を失ってしまうこと――それこそが、何よりも恐ろしい現実の恐怖であった。




