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今か今かと状況報告を待ち詫びていた川端博司は、不意に開いた事務所の扉の音を聞いて、一瞬だけ張り詰めた心を安堵で緩ませた。
「遅かったじゃないか、柿谷くん。それで、結局下のフロアの状況はどうだったのかね……?」川端はいつもの威圧的な態度を取り戻しながら、ゆっくりと視線を扉の方へと向けた。
しかし、そこに佇んでいたのは、彼が期待していた部下の姿では決してなかった。光を吸い込むような、不気味などす黒い『何か』。
かろうじて人間の形を模してはいるが、生身の人間としての温かみは微塵も感じられない、異質な質量。川端はその黒い怪物を凝視しながら、脳内で必死に都合のいい解釈を探し求めた。
(そもそも、誰なんだ君は? なぜ、こんな非常時にわざわざ店長室まで来るのだ?)という場違いな疑問と、(もしかして……客たちが叫んでいた『化け物』の正体が、これなのか?)という、絶対に認めたくない真実への恐怖が、頭の中で激しく交錯する。そして――恐怖が極限に達した彼の口から飛び出したのは、あまりにも滑稽な現実逃避の言葉だった。
「だ、誰かね君は? ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ! 用がないなら、大至急出て行ってくれたまえ!」言いながら、川端は自分でも一体何を口走っているのか分からなくなっていた。仮に目の前の存在が凶悪なテロリストなのだとすれば、そんな官僚的なお説教をぶつけたところで、逆上されて命を奪われるだけだ。
万が一、事件とは全く関係のない迷い人なのだとすれば、むしろ部屋に引き留めて、下のフロアの情報を聞き出すべき情報源なはずだった。(やはり、引き留めて話を詳しく聞くべきか……?)一寸先には確実な「死」が迫っているというのに、川端の脳内はまだそんなお気楽な損得勘定を弾いていた。
だが、彼はもっと注意深く、目の前の侵入者の姿を確かめるべきだったのだ。あるべき場所に目も口も鼻もないその異形は、対話の余地など一滴も持ち合わせていない、人類の絶対的な敵だったのだから。漆黒の怪物は、川端の警告を完全に無視し、泥のように蠢きながらゆっくりとデスクへ向かって歩を進めてきた。
「おい、私の声が聞こえているのだろう! 出ていけと言っている!」川端はこれ以上の関わりを拒絶したい一心で、自身の左手を怪物の前に突き出し、しっしっと追い払うようにして「出ていけ」の意思をジェスチャーで示した。――その不用意に差し出された左腕を、アノマリーの黒い触手がガチリと鷲掴みにした。
「――っ!?」直後、生身の人間を容易く引きちぎらんばかりの凄まじい怪力が川端を襲う。左腕を強引に引っ張られた彼は、抵抗する間もなく重厚な本革の椅子から引きずり出され、デスクの上を滑るようにして床へと転げ落ちた。
「おい、やめろ……っ! 離せ、何をするんだ!」川端は床を這い回りながら、自身の左首筋を掴んでいる黒い粘着物質を引き剥がそうと、残された自由な右手を伸ばし、怪物の腕を必死に掴んだ。
しかし――その右手もまた、触れた瞬間から磁石のように吸着し、二度と離れなくなってしまった。触れた先から皮膚がドロドロに融解し、衣服の繊維ごと怪物の漆黒の肉壁へと融けて混ざり合っていく。
「あ、熱い……っ? いや、助け――」川端博司は、自らが死地へと傲慢に送り出したあの若い部下、柿谷修と全く同じ絶望のプロセスを経て、全く同じ最悪の運命を辿ることとなった。怪物の『死の抱擁』に包み込まれ、胴、胸、首、そして最期まで現実を拒絶し続けた頭部ごと、彼は静まり返った店長室から完全に消滅した。
主を失った広大なデパートの最上階には、ただ内線が不通となった受話器の「ツーツー」という虚しい電子音だけが、いつまでも響き渡るのだった。




