第五話 新たな名前、『佐々木咲良』の誕生
葬儀が終わってから数日後。
今度は名前の問題が持ち上がった。
「来月の頭までには決めてください」
弁護士はそう言った。
「先延ばしにはできんのか」
「これ以上はできません」
佐々木公作は書類上死んだ。
戸籍を作る。
住民票を作る。
保険証を作る。
それには、新たな名前が必要だった。
佐々木家では少し困った問題が起きていた。
呼び方である。
戸籍上、佐々木公作は死んでいる。
だが新しい名前はまだない。
そのため家の中では妙な状態になっていた。
「コウちゃん」
最初にそう呼び始めたのは美咲だった。
「やめろ」
「じゃあ何て呼べばいいの」
言われると困る。
新しい名前もまだない。
「でもさ」
恵子も言う。
「その姿に父さんや公作さんって呼ぶのも変じゃない?」
「それはそうだが……」
反論できなかった。
どう見ても、女子中学生だった。
結局。恵子も美咲も、しばらくはコウちゃんと呼ぶようになった。
「コウちゃん、新聞落ちてる」
「コウちゃん、その椅子使う」
慣れない。
とにかく慣れない。
でも、一人だけ違う人間がいた。
「父さん」
翔太だった。
公作は振り返る。
「何だ」
それで終わる。
翔太は今でも父さんと呼んでいた。
呼び方を変えられなかったのだ。
父親だった人間。だが目の前にいるのは見た目は女子中学生。
近いのか遠いのか。家族なのか他人なのか。
翔太自身も測りかねているようだった。
「父さん」
「何だ」
「いや」
言葉を探す。
「別に」
結局それだった。
公作も追及しなかった。
息子なりに悩んでいることくらい分かっていた。
だからこそ、名前を決めなければならなかった。
その日の夜。
リビングで家族会議が開かれた。
「名前ねえ」
美咲が言う。
「名前だな」
公作も頷く。
五十二年間使ってきた名前がなくなる。
思っていた以上に寂しかった。
「公子でいいんじゃないか」
公作は言った。
一瞬の沈黙。
「ださっ」
美咲だった。
「即答か」
「即答だよ」
恵子も苦笑する。
「ちょっと古臭いわね」
「お前まで」
翔太を見る。
「翔太はどうだ」
「……」
何も言わない。
いつも通りだった。
「でもな」
公作は言う。
「前の名前は残したいんだ」
そこだけは譲りたくなかった。
公作という名前。
父が付けてくれた名前だった。
五十二年間使ってきた名前だった。
完全になくなるのは嫌だった。
「じゃあさ」
美咲が言った。
「咲良ってどう?」
「咲良?」
「うん」
美咲は笑う。
「私の妹みたいでいいじゃん」
「妹じゃない」
反射的に否定した。
「そこ?」
「そこだ」
恵子が少し考える。
「でもいい名前じゃない」
「そうか?」
「公作の『さく』が残ってるし」
言われてみればそうだった。
公作。
咲良。
少し、繋がっている。少しだが。
「翔太」
恵子が息子を見る。
「どう思う?」
翔太はしばらく考えた。
それから小さく言った。
「別にいいんじゃない」
反対ではなかった。
それだけで十分だった。
「じゃあ決まりか」
公作は呟く。
「……咲良」
公作はその名前を口にした。
不思議な感覚だった。
自分の名前ではない。
だが。
これからはそう呼ばれる。
「じゃあ咲良ちゃん」
美咲が言った。
「父親にちゃんを付けるな」
即答だった。
「でもその姿でしょ?」
「姿で決めるな」
「だって女子中学生じゃん」
「五十二歳だ」
「中身だけね」
美咲はまったく譲らなかった。
「まあまあ」
恵子が苦笑する。
「咲良ちゃん」
「お前までか」
「公作さんも変だし」
「それはそうだが……」
反論できなかった。
確かに。
今の姿に公作さんも変だ。
ただコウちゃんも嫌だ。
だから今日、名前を決めたのだ。
家族が呼ぶために。
新しい人生を始めるために。
「まあ」
公作は小さく息を吐いた。
「それでいいか」
翔太を見る。
息子は何も言わなかった。
笑ってもいない。
反対もしていない。
ただ黙ったまま座っていた。
自分が女の子になった朝からずっとそうだ。
父さんと呼んではくれる。
だが、どう接すればいいのか分からないのだろう。
それが公作には少し心配だった。
咲良になっても。
美咲の、そして翔太の父親であることは変わらないのだから。
こうして『佐々木咲良』が生まれた。
五十二年生きた佐々木公作の記憶を持ったまま。
十五歳の少女として。
佐々木咲良としての人生が始まったのだ。
そして、父親としての心配事も、まだ終わってはいなかった。




