第二話 兄と会社
この土日はほとんど家で過ごした。
まだどうなるのか分からなかった。
月曜日になれば元に戻るかもしれない。
病院へ行けば何か分かるかもしれない。
そんな希望も少しはあった。
だが現実は何も変わらなかった。
家では何とか自分の服を着ていた。
袖を折り、裾をまくり、ベルトを力任せに締める。
みっともない格好だったが、それでも昨日までの自分の服だった。
その事実だけが少し安心できた。
変わった体への、せめてもの抵抗だった。
恵子も美咲も何か言いたそうだった。
だが口にはしない。
翔太はもっと分かりやすかった。
「……」
目が合う。
そしてすぐ自室へ戻る。
思春期らしい反応だった。
公作も特に追いかけなかった。
何を言えばいいのか分からなかったからだ。
そして月曜日。
会社へ向かう準備をする。
今日は講義のない娘と妻で準備をした。
一番の問題は服だった。
当然だが今までのスーツは着られない。
私服でもブカブカだ。
身体の大きさが違い過ぎる。
正直、この土日に買いに行けばよかった。
でも、そうすると自分が女の子になったことを認めた気になって嫌だった。
「これ着てみる?」
美咲が自室のクローゼットからスーツを持ってきた。
高校時代に作ったものらしい。
「嫌な予感しかしない」
「いいから」
結果。
着ることはできた。
だが、それでも少し大きかった。
鏡の前に立つ。
ぶかぶかのスーツを着た中学生ぐらいの少女。
どう見ても専務取締役ではない。
「似合うよ」
美咲が言った。
「嬉しくない」
「もったいないなあ」
「何がだ」
「可愛いのに」
「俺は可愛さで仕事してない」
美咲が吹き出した。
「安心して」
「何だ」
「スカート履けとは言わないから」
公作は即答した。
「履かん」
「まだ言ってない」
「履かん」
「そんなに?」
「そんなにだ」
少なくとも今日のところは、その勇気はなかった。
隣では恵子がその会話を聞いて笑っていた。
会社へは恵子も同行した。
こんな状況で、一人で行かせる気にはなれなかったらしい。
そもそも、今の自分が運転してもいいのかわからない。
免許証を出しても、補導されるのがオチだ。
車の中、しばらく沈黙が続く。
「そういえば」
恵子が口を開いた。
「清造さんには連絡したの?」
清造は自分の兄、会社の社長だ。
「ああ」
「なんて?」
「昨日のうちにメッセージを送った」
公作はスマートフォンを取り出した。
『兄貴、信じられないと思うが俺は女の子になった』
『今後について話がある』
改めて見ると、自分でも意味が分からない文章だった。
「既読は?」
「なってはいるな」
「返信は?」
「ない」
恵子は苦笑した。
「そりゃそうよ」
「そうか?」
「普通は冗談だと思うでしょ」
「……」
「特にあなたが送ったなら余計に」
公作は少し考えた。
確かにそうだった。
突然弟から、女の子になった、と送られてきたら、自分でも病院を勧める。
「それもそうだな」
思わず苦笑した。
「ちなみに私でも信じなかったと思う」
「お前は信じたじゃないか」
「現物を見たからね」
「現物という言い方はやめろ」
恵子が笑った。
公作も少しだけ笑った。
その時はまだ思っていた。
兄に会えば何とかなると、会社へ行けば先週までの日常へ戻れると。
それが甘い考えだったと知るのは、もう少し後だった。
応接室。
祖父が創業した会社。
父が育てた会社。
兄の清造が社長を務める会社。
昨日までは、公作の居場所だった会社。
清造はすでに待っていた。
兄はしばらく黙っていた。
「兄貴」
「なんだ」
「俺が公作だ」
清造は静かに頷いた。
「そうだろうな」
「中身は何も変わっとらん」
「まあ、そうだろうな」
「仕事もできる」
「それもそうだ、俺が一番信頼しているからな」
「だったら」
公作は身を乗り出した。
「今まで通りでいいはずだ」
少しの沈黙。
清造は深く息を吐いた。
「それは無理だ」
公作は黙る。
「なぜだ」
「お前はたしかに公作だ」
兄は言った。
「中身は佐々木公作で変わっていない」
「だったら」
「だが、外面は全部変わった」
返事ができなかった。
「取引先はどう思う」
「……」
「銀行は」
「……」
「従業員は」
「……」
清造は続けた。
「女の子が専務です、と言われて納得すると思うか?」
先週までなら、公作自身も信じなかった。
もしも取引先が急にそんなことを言いだしたら、鼻で笑っただろう。
だからこそ、苦しかった。
理不尽だと思う。
だが、清造の言葉は正しかった。
それは苦しそうな兄、清造の顔が物語っていた。
「お前の能力を疑っているわけじゃない」
兄は言う。
「むしろ逆だ」
「……」
「今お前が抜けるのは正直、痛い」
三十年近く、二人で会社を回してきた。
会社の資金繰りの悪化も二人で乗り越えた。
この会社の看板、その重みを誰より知っているのは二人自身だった。
しばらく沈黙が続く。そして兄が絞り出すような声で言った。
「公作、恵子さん」
二人が顔を上げる。
清造は立ち上がった。
そして、深く頭を下げた。
「本当にすまないと思う」
応接室が静まり返る。
公作は何も言えなかった。
恵子も黙っていた。
「会社としてはお前に仕事を続けさせられない」
頭は下がったままだった。
「退職金は出す」
「……」
「戸籍の件も弁護士に相談する」
「……」
「俺にできることは全部やる」
少しだけ声が掠れていた。
「だが」
清造は続ける。
「お前から仕事を取り上げることになる」
その言葉が重かった。
兄は敵ではない。
むしろ、味方だった。
最後まで味方だった。
だからこそ責めることなどできない。
仕事はできる。
経験も知識も残っている。
会社のことは一番分かっている。
昨日までと同じだ。
それでも、社会は昨日までと同じようには見てくれない。
「……兄貴」
「なんだ」
「こんな姿になって本当にすまない」
清造は顔を上げた。
「謝るな」
その言葉だけは、社長ではなく兄としてのものだった。
帰り、会社を見上げて公作は思った。
明日から、ここはもう自分の居場所ではない。
その事実が、公作の想像以上に重かった。
帰りの車内。
恵子は何も聞かなかった。
公作も何も話さなかった。
窓の外では三十年以上通った景色が流れていく。
帰宅してからも、公作はほとんど何も話さなかった。
夕食も食べた。
そこで改めて会社を辞めることになったと家族へ伝えた。
「まあ、当然でしょ」
美咲はどこかあっけらかんとしていた。
翔太は何も言わなかった。
風呂にも入った。
いつものように歯を磨いた。
いつもの時間にリビングへ戻った。
普段通りだった。
いや。
普段通りのふりをしていただけかもしれない。
夜。
リビングには誰もいなかった。
テレビも点いていない。
公作はソファに座ったまま動かなかった。
会議はない。
電話もない。
決裁もない。
机の上のスマートフォンも静かなままだった。
何十年ぶりだろう。
仕事のことを考えなくていい夜だった。
そして。
何もすることがない夜だった。
「公作さん」
恵子の声だった。
いつの間にか隣に座っている。
「なんだ」
「無理しなくていいわよ」
「無理などしてない」
反射的にそう答えた。
だが声が掠れていた。
自分でも驚くほど弱々しかった。
「してるじゃない」
恵子は苦笑した。
その瞬間だった。
視界が滲んだ。
泣こうと思ったわけではない。
だが涙は止まらなかった。
三十年以上、祖父の会社で働いてきた。
父の背中を見てきた。
兄と一緒に会社を大きくしてきた。
人生の半分以上を費やした。
それが今日、終わった。
あまりに突然だった。
「参ったな」
公作は笑った。
「何が?」
「失業で泣く年齢じゃないと思っていた」
恵子は何も言わなかった。
ただ、そっと手を握ってくれた。
温かかった。
ありがたかった。
そして同じくらい惨めだった。
妻に慰められている。
五十二歳で、職を失って泣いている。
自分の失敗で会社を辞めるなら、まだ納得できたかもしれない。
経営判断を誤り、会社を潰したのなら覚悟もついただろう。
だが今回だけは違った。
兄は最後まで味方だった。
会社も自分を切り捨てたかったわけではない。
それでも失った。
理不尽だった。
「なあ」
「なに?」
「俺、どうなるんだろうな」
初めて口にした弱音だった。
恵子は少し考えた。
そして笑った。
「知らない」
「ひどいな」
「でも」
恵子は握った手に少し力を込める。
「一人じゃないわよ」
公作は返事ができなかった。
変わったのは見た目だけではない。
五十二年かけて築いた人生そのものが少しずつ形を失い始めていた。
それでも、隣には恵子がいた。




