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第十三話 変わらないもの、変わったもの、変われないもの

高校生活が始まって少し。

授業は退屈、というわけではなかった。

自分が最初に高校生だった頃から、もう三十五年が過ぎていた。

三十五年という月日は、常識を変え、技術を発展させた。

そうして新たな知識を得る機会となった。

一度、同じ学習をしているので違いを理解すれば、授業は捗った。


また、教師の目はよく自分と視線が合っていた。

自分と同年代の教師もいた。

少し年下の教師もいた。

新卒で、娘と同じくらいの年齢の教師もいた。

どうやら皆、自分を気にしているらしかった。

さすがに情報は共有されているのだろう。

まるで常に観察されているような気分だった。


数学の授業は以前と変わらなかった。

教師が黒板に問題を書く。


(x+3)(x-5)を展開せよ


教室のあちこちで鉛筆が止まる。

「えっと……」

「何だっけ」

そんな声が聞こえた。

咲良は問題を見る。

答えを書いた。

三十五年前に習った内容だが、忘れてはいなかった。

というより、数字を扱う機会なら会社員になってからの方が遥かに多い。


営業利益。

原価率。

融資計画。

設備投資。


会社の管理職として、毎日数字と向き合っていた。

高校数学の問題は親切すぎた。

少なくとも必要な情報が全部書いてある。

「佐々木」

教師が声を掛けた。

「この問題分かるか?」

「分かります」

「じゃあ前へ」

咲良は黒板へ出る。

数秒で解き終えた。

教室が少しざわつく。

「早っ」

「もう終わった」

「何で?」

咲良は首を傾げる。

どこが難しいのかよく分からなかった。


休み時間。

ひよりが聞いてきた。

「咲良ちゃん、数学得意なんですね」

「そうか?」

「そうか?じゃないです」

真顔で言われた。

「先生が説明する前に解いてたよ」

「ああ」

「普通できません」

咲良は少し考える。

融資の返済計画を組むより簡単だと思った。

だが、それを説明しても仕方がない。

「慣れだ」

とだけ答えた。

ひよりは納得していないようだった。


数学は楽だった。

答えは変わらないからだ。

三十五年前だろうが現在だろうが、 二と二を足せば四である。

だが現代社会の授業は少し勝手が違った。

政治や経済の話なら問題ない。

税金。雇用。景気。

会社を経営していた頃に嫌というほど向き合った。

むしろ教師の説明より詳しい話ができる自信すらあった。


問題は別だった。

その日のテーマは、

「多様な生き方について考える」

だった。

教師が言う。

「結婚するかしないか」

「子どもを持つか持たないか」

「どんな働き方を選ぶか」

「どんな人生を望むか」

「正解は一つではありません」


教室では様々な意見が出た。

「結婚しなくてもいいと思う」

「一人で生きるのもありじゃない?」

「仕事より趣味を優先したい」

「自分が幸せならそれでいいと思う」


皆、自分の考えを自然に話していた。

咲良は黙って聞いていた。

分からないわけではない。

むしろ正しいと思う。

だが、自分が高校生だった頃の常識とはあまりにも違っていた。


働くのが当たり前だった。

結婚するのが当たり前だった。

家庭を持つのが当たり前だった。

少なくとも、多くの人はそう考えていた。


現代文でも似たようなことを感じる。

昔は作者が何を書きたかったか、作中の意図について考える授業が多かった気がする。

だが今は違う。

「あなたはどう思いますか」

という問いが増えた気がする。


正解そのものが変わったわけではない。

そもそも正解が一つではなくなった。

その感覚にまだ慣れない。

「佐々木さんはどう思います?」

教師に突然話を振られた。

咲良は少し考える。

そして。

「分からん」

と正直に答えた。

教室が少し静かになる。

「反対なんですか?」

誰かが聞く。

「いや」

咲良は首を振った。

「たぶん、その方が良いんだろう」

教師は少し笑った。

「それも立派な意見ですね」

咲良は腕を組む。

どうやら学ぶことは、まだまだ多いらしかった。


昔とは価値観の違いを大きく感じる授業があった。

家庭科の授業だった。

そもそも、昔は技術の授業は男だけ、家庭科の授業は女子だけといった具合になっていたため参加していなかったからだ。


教師が何気なく、「将来は夫婦で家事を分担することが大切です」と言った言葉には感銘を受けた。

そもそも、家事は恵子にまかせっきりだった。価値観としてはそれが普通だったからだ。

それが当然だと思っていたわけではない。

ただ、自分は仕事をして、恵子は家を守る。

そんな形で役割分担ができているものだと思っていた。

会社を辞めてからも、家にいる期間は長かったが、恵子は自分に家事を任せることはほとんどなかった。

何か手伝おうとしても、「座っていて」「私がやるから」そう言われることが多かった。

だが今思えば、恵子は最初から自分を家事の戦力として数えていなかったのかもしれない。

そう考えるとほんの少しだけ複雑だった。ほんの少し。


家庭科の授業では、ほとんどやらなかった料理もやった。

味噌汁を作るらしい。

正直、簡単だと思った。

そもそも、インスタントでいいのなら自分でも作れる。

わざわざ授業で習うほどのものか、とすら思った。


最初は調味料を入れなさ過ぎて薄すぎた。

追加で少しだけ足したつもりだったが、かなり入れすぎてしまい塩辛くなりすぎてしまった。

同じグループにいたひよりが啜りながら「料理ができそうなのに、意外だね」と悪気なく言ってくれたのが、逆に傷ついた。

……それ以上に同じグループにいた、眼鏡をかけた男子が

「……これが、ギャップ萌え……!」

とつぶやいていたのはかなり不本意だが。


家庭科では、三十五年の間に世の中が大きく変わったことを実感した。

だが逆に、自分がまだ変わり切れていないと感じる授業もあった。

体育の時間だった。


咲良は制服姿でグラウンド脇のベンチに座って、他の生徒を待っていた。


作られた病歴を理由に、体育は見学することとなっていた。

入学前の面談で決まっていたことだ。

外見は少女とはいえ、中身が中年男性の者と一緒に着替えていたとなれば、もしも自身のことが露呈した場合、問題になるかもしれない。

ただ、別の場所を準備して着替えるのも、あまりにも異質だろう。

そこで、学校側と咲良で話し合って折衷案を決めたのだった。


自分も高校生の子と一緒に着替えるのは目の遣りどころがない。

向こうが許してくれても、自分としては耐えられないかもしれない。

正直助かっていた。


グラウンドでは準備運動が始まっている。

咲良はその様子を眺めながら、小さく息を吐いた。

その時だった。

「咲良ちゃん」

ひよりが近付いてくる。

「何だ」

「体育、参加しないんですか?」

咲良は少し考えてから答えた。

「病気でね」

設定上の話だった。

仕方のないことだ。

だが、少しだけ嘘をついているようで後ろめたかった。


「そうなんですね」

ひよりは素直に頷いた。

そして少し考える。

「じゃあ、体調が悪くなければ参加したりすることはありますか?」

咲良は黙った。

たとえ学校が許可したとしても。

自分は女子達と一緒に着替えることはないだろう。

確かに今は肉体的には女子で、戸籍上も女子だ。

それでも、やはり自分の中には五十二年間男性で生きてきた感覚が残っている。


数秒考えてから答えた。

「やっぱり、いいよ」

ひよりは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。


「じゃあ行ってきます」

「ああ」

ひよりは手を振りながら走っていく。

咲良はその背中を見送った。

体育の笛が鳴る。

グラウンドには高校生達の声が響いていた。


若いやつは分からん。

現代社会も分からん。

家庭科も分からん。

ついでに味噌汁も分からん。


咲良は深くため息を吐いた。

どうやら自分が高校に通う意味は、思っていたより大きいらしい。

今回、家庭科の授業について調べていて初めて知ったのですが、高校で家庭科が男女共修になったのは1994年以降だそうです。

公作が高校生だった1990年代前半は、男子は技術、女子は家庭科という形が一般的でした。

ですので、公作は家庭科の授業自体ほとんど知りません。

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