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第九話 受験会場と合否発表

高校受験前日の夜。

夕食の席だった。

「そういえば」

恵子が言った。

「翔太は、結局咲良ちゃんが同じところでいいの?」

以前は猛反対された。

だがあの日、翔太と話してからは空気が変わっていた。

翔太に視線が集まる。


すると翔太が箸を止めて言った。

「別にいいよ」

返事はあっさりとしたものだった。

咲良は少しだけ驚く。

「前も聞いたけど、本当にいいのか」

「うん」

翔太は味噌汁を飲みながら続けた。

「最初は嫌だったけど」

「……」

「でも父さんだし」

少しだけ照れ臭そうに言う。

「父さんが高校行きたいって言うのを止めても意味ないだろ」

咲良は思わず笑った。

「そうだな」

「ただし」

翔太が指を立てながら続けた。

「学校で会っても翔太って呼ぶなよ」

「呼ばん」

「絶対だからな」

「分かった」

美咲が吹き出した。

「何その会話」

「大事だ」

翔太は真顔だった。

「俺の高校生活がかかってる」

「おおげさだな」

「おおげさじゃない!」

家族が笑う。

翔太も少しだけ笑った。

数か月前なら考えられなかった光景だった。

咲良は少しだけ安心した。



そして受験当日。

試験会場の廊下。

咲良は教室前に張り出されている受験番号を確認していた。

「三〇二番……ここの教室だな」


周囲は中学生ばかりだった。

当然なのだが妙な気分だった。

自分も戸籍上は中学三年生で彼らと同学年である。

しかし、感覚としては保護者側のままだった。


廊下には緊張した空気が流れている。

まだ入室の指示はなかった。

廊下で参考書を読む生徒。

友人同士で話す生徒。

親と話す生徒。


咲良は壁にもたれて新聞を読んでいた。

周囲から少し浮いていた。

その時。

「すみません」

横から声がした。

新聞から視線を上げる。

小柄な女の子だった。

咲良は中学三年生にしては小柄なほうだった。

そんな咲良よりさらに小さい。

百四十センチあるかどうか。

短めの黒髪。

丸い目。

小動物みたいな雰囲気だった。

「何だ」

思わずそう返してしまった。

女の子は少し怯えたように肩をすくめる。

自分は女子中学生の姿でも喋り方だけは完全に五十二歳から変えられないままだった。

「あ、ご、ごめんなさい」

「いや、怒っていない」

慌てて訂正する。


「あの、時計忘れてしまって」

「ほう」

「今何時ですか」

咲良は周囲を見回した。確かに時計は見当たらない。

他の受験生の付き添いにきた親なら持っているだろうが、さすがに喋りかけづらいだろう。

腕時計を見る。

昔から使っているものだ。

「八時二十三分、だな」

「ありがとうございます」

女の子はぺこりと頭を下げた。


そして。

そのまま隣に立っていた。

「……」

「……」

沈黙が続く。

咲良は新聞を読む。

女の子はちらちら見ている。

やがて。

「あの」

「うん」

「実はさっきから気になってました」

「なぜだ」

「新聞読んでる人、初めて見たので」

「そうか?」

「同級生でも見たことないです。家でも新聞取ってないので」

そういうものか。

少し驚いた。

確かに今の中学生の親となると、自分より一回りほど若くて読んでいなくとも不思議ではない。


「君は読まんのか」

「読みません」

即答だった。

「ニュースは?」

「スマホで見ます」

やはりそうかと思った。


しばらくして、女の子が言った。

「緊張してますか」

「していない」

「すごい」

「なぜだ」

「普通するじゃないですか」

咲良は少し考えた。

確かに普通はそうかもしれない。

だが。

銀行との融資交渉は根拠がなければ断られることも多かった。

取引先との大型契約や更新時は毎回妙に緊張したものだ。

そういう場面を経験してしまうと、受験はそこまで恐ろしくは感じない。

もちろんそれは口にしなかった。

人間、年を取ると図太くなるものだ。

そう言いかけて飲み込んだ。

「そういう性格なんだ」

「へえ」

女の子は納得したようだった。


試験開始まであと十分。

女の子が突然言った。

「私、鈴木ひよりです」

「ん?」

「自己紹介しませんか?」

「受験会場で、か?」

「だめですか?」

「いや」

不思議な子だと思った。

だが悪い気はしない。

「佐々木咲良だ」

「佐々木、咲良さんですか」

彼女は咀嚼するようにその名前を繰り返した。

「佐々木さんは」

ふと、ひよりが言う。

「友達多そうですね」

咲良は少し固まった。

五十二年間、そんなことを言われた記憶がない。

上司や部下、仕事仲間はいる。

取引先もいる。

家族もいる。

だが、友達か。

そう言われると難しかった。


すでに以前の学生生活の友人といえるものは疎遠だった。

鬼籍に入ったものもいる。

そんなことを考えながら、彼女に返答した。

「どうだろうな」

「少なくとも私よりは多そうです」

「君は少ないのか」

「友達、って言えるのは一人かな」

「十分ではないか」

「そうかな」

「そういうものだ」

ひよりは少し笑った。

「変わってますね」

「よく言われる」

咲良は苦笑した。


チャイムが鳴った。

受験生たちが教室へ向かう。

「じゃあ」

ひよりが言った。

「また会えたら」

「ああ」

咲良は頷く。

普通ならそこで終わりだった。

だが。

教室へ向かう途中。

ふと思った。

若い子とこんな風に話したのは何十年ぶりだろう。

いや、今は同世代でいいのか。


ただの雑談。

ただの自己紹介。

それだけだった。

それなのに、妙に印象に残った。


試験は終わった。

結果も予想通りだった。

国語は例年通り。

数学はやや易化。

英語も標準的。

大きな問題はない。

落ちる気はしなかった。


そして数週間後、合格発表の日。

掲示板の前には大勢の受験生が集まっていた。

咲良は人混みをかき分ける。

「三〇二番」

自分の番号はすぐ見つかった。

「合格、か」

当然だった。

不思議な感慨もない。

高校入学は目的であってゴールではなかったからだ。

そうして帰ろうと思った、その時。

「佐々木さーん!」

聞き覚えのある声がした。

振り返る。

ひよりだった。

満面の笑みで手を振っている。

「受かったんですね!」

「受かっていたな」

「知ってます」

「ん?」

「先に見つけちゃいました」

ひよりは笑う。

「どういうことだ」

「三〇二番ですよね」

「……」

「喋っていたとき、受験票を持っていたので覚えていました」

咲良は苦笑した。

「そういう君は受かったのか?」

「はい!同じ高校ですね!」


「それならお互い受かっていて良かった」

「はい!」

ひよりは勢いよく頷く。


それから。

「どうでした!?」

と聞いてきた。

「何がだ」

「試験です!」

咲良は少し考えた。

「数学は過去問より易化していたかな」

「おじさんみたいな感想!」

「そうか?」

「そうです!」

ひよりは声を上げて笑った。

咲良も少しだけ笑う。

そして思った。


高校に入って最初の友人になるのは、この子かもしれない。


会社の関係でもない。

家族の関係でもない。

利害関係でもない。

ただ話していて気が楽な相手。

そんな人間と知り合ったのは、思い返せば何十年ぶりだった。

そして、その予感は案外当たっていた。


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