第8話:人との距離
百舌子の腕の中で、その白銀の髪の少女は目を開けた。幾度もまばたきを繰り返し、そのたびに白く澄んだ瞳がちらりと見えた。
「痛みが……ない」
その少女、リィンは不思議そうな顔で百舌子を見上げた。
「なにを、したの?」
「ごめん。私の、力が……」
百舌子は絞り出すような声でつぶやいた。涙が溢れ、リィンの頬にこぼれ落ちた。
これで本当によかったのか、自分でもよくわからない。今はただ自分の無力さを嘆いていた。
リィンはゆっくりと体を起こし、百舌子の涙を拭った。拒絶でも慰めでもない、ただそれだけなのに、百舌子の胸の中で何かがほどけた。
「頭が少し重い……」
リィンが頭に手を伸ばし、指先が何かに触れて、動きが止まる。そこには、黒く細い捻じれた角があった。
立ち上がろうとして、ふらっとよろめいた。リィンはそのまま、自分の足元を見下ろした。しばらく、何も言わなかった。
そして、角、尻尾、耳、脚。ひとつひとつを確かめるように視線が動く。それでも彼女の表情は崩れなかった。
「これがあなたの力なの?……」
リィンは確かめるように、ユリナの翼と耳に視線を移した。
「……なんですか」
「あなたも同じということね……」
リィンとユリナの視線がぶつかり、百舌子は気まずい空気を感じた。
「どうなってる、大丈夫か!?魔竜の死体はどこにいった?光に包まれた後に消えたんだ」
駆け寄ってきたライルは百舌子たちの惨状に目を見開いた。血の海、そして変わり果てた少女の姿。彼は大きく息を吸い、状況を飲み込むようにゆっくりと吐いた。
「山を降りるぞ、想定外のことが起きすぎている。俺だけでは手に負えないことばかりだ。おまえたち、歩けるか?」
リィンは無言で立ち上がった。その脚は逆関節の獣のそれへと変貌していたが、彼女は尻尾で上手く重心をとっていた。
「モズコ、立てますか?」
ユリナがよろめきながら近づき、翼を伸ばした。
「うん、大丈夫。すぐに……ゔっ——」
体に力を入れた瞬間、胸を鋭い痛みが貫き、倒れそうになった。すると、リィンがすかさず受け止め、支える。
「あ、ありがとう……ごめん、ちょっと、無理かも……」
魔竜の尻尾で突き飛ばされた時、肋骨でも折れたかのような激しい痛みで動くことができない。呼吸が苦しい。
ユリナが百舌子を支えようとしてふらついた。
「あなたは自分の心配をした方がいい」
リィンがユリナに向かってそう言い放つと、百舌子をひょいっと横向きに抱きかかえた。
「あ、お、重く……ない?」
「平気」
リィンの肩越しに、ユリナの何か言いたげな表情が見えた。
「ごめんなさい。モズコをお願いします」
ライルが迷うように手を差し伸べかけたが、百舌子たちの様子を見て前を向き歩き出した。
道中、腕の中で揺られながら、気になっていたことを聞いてみた。
「その……死なないって、どういうこと?」
リィンは少し考えた後、遠い昔話をするかのように話し出した。
「昔、禁忌の魔術で私の魂が固定され、行き場を失った」
禁忌、魂、百舌子にとって馴染みのない言葉が並ぶ、簡潔ながらも難解な答えだった。それでも、それが嘘でないことを信じるしかなかった。
「余計な……お世話だったかな……」
リィンは驚いたような顔を一瞬見せたが、すぐに無表情に戻って小さく頷いた。
「……でも、あなたのおかげで苦しみ続けなくて済んだ」
私のせいで——そんな思考になりかけ、ユリナの言葉を思い出す。「あなたのおかげで今生きている」この子も同じような言葉で百舌子を惑わせる。
自分のしたことは否定されてもおかしくないと、そう思っていた。
「……ありがとう」
百舌子は自分がどういう意図で、その言葉を口に出したのかわからない。リィンは困ったような顔を見せ、それ以上何も話さなかった。
街の門を通り抜けた先で、ライルが振り返った。
「おれは、領主にいろいろと報告してくる。おまえたちは帰って傷を見てもらえ」
そう言うとライルは街の中に消えていった。
教会の扉をそっと開くと、ティエルに肩を抱かれて座っているセラの姿があった。手は二人の指が重なり握られている。セラは祈るように目を固く閉じていた。
ティエルが優しくセラの頭を、安心させるかのように撫でる。すると扉を開いたこちらに気がついた。
「あっ」
そう短く呟くとティエルはセラに笑顔を向けた。
その声で顔を上げたセラは、一瞬笑顔を見せた後すぐに百舌子たちの惨状を見て顔を暗くした。
「一体何がどうしたの!?」
セラはリィンの見た目には目もくれず、百舌子をベッドへ運ぶように促した。そしてユリナと百舌子の手当の最中に、何があったのか順に説明した。
「それでライルさんはどこいったの?」
話がひと段落した後、暗い空気を吹き飛ばすようなティエルの声が響いた。
「はい、ライルさんなら領主さんに報告しに行くとおっしゃっていました。それでなのですが……、今回の依頼に失敗してしまい申し訳ありません」
ユリナが肩を窄め、翼を小さく折りたたんだ。
「そんな、謝ることじゃないよ!みんなが無事に帰ってきてくれただけで十分だよ」
ティエルがそう言いユリナを慰めるように頭を撫でた。
数日後セラの治療と刻印のおかげもあって、百舌子は動けるようになった。
鏡に映る自分の姿を見て、百舌子は「よくもまあここまで傷だらけになったものだ」と他人事のように思った。鏡の中の自分にあなたはもう必要ないと言われたような気がして、心の澱みが溜まっていく。それでも、何もしないわけにはいかなかった。
何をするでもなく歩き回っていると、裏庭のベンチに座っているリィンを見つけた。
「もう動いて良いの?」
百舌子に気がついたリィンが、顔を上げないまま呟いた。
「……うん、まだ少し痛むけど、もう慣れちゃった。それに、休んでると落ち着かないから」
百舌子が隣に腰を下ろすと、リィンがふと顔を上げた。
「あなたは私のことが怖くないの?」
リィンは相変わらず無表情だった。でも、百舌子を見つめるその瞳の奥に、底知れない孤独と諦めが見えた気がした。
「怖くは……ないかな。むしろ、可愛いというか……あ、ごめんなんでも……」
「可愛い」と呟いた後、リィンは俯いて顔を逸らしてしまった。でも、少し頬が赤くなっているのがわかった。リィンは立ち上がりその場を離れようとする。
「リィンちゃんはこれからどうするの?」
そう聞く百舌子に振り返らずにリィンは答えた。
「特に決まっていない」
「行くところがないなら……しばらく一緒にいない?」
「どうして?」
その質問の答えを百舌子は、すぐに出せなかった。なんとなく心配だから、そんなことがリィンを止める理由になるだろうか。百舌子は必死に思考を巡らせ、答えを見つけ出した。
「一緒にいたいと思ったから、そんな姿にした責任を取りたいから……じゃ、ダメかな」
百舌子はリィン正面に回り込み、細く小さな手を握りしめた。
「一緒に……いいの?」
リィンは少しの間、黙り込んだ。その無機質な瞳からは、何を考えているのか読み取れない。
「少し考えてみる」
「また随分と傷だらけになったみたいですね」
不意に頭上から声が聞こえた。百舌子が振り返ると、ゆったりと地に降り立つ、エリスの姿がなんだかぼやけて見えた。
「それに……いつのまにか、お知り合いが増えたみたいですね」
百舌子は小さく頷いた。
「順調に力をつけていると見ていいでしょう。へぇ、その子……、まぁ似たもの同士、ですか……」
エリスがリィンをじっと見つめると、リィンは百舌子の後ろに隠れた。百舌子と繋いでいるその指がかすかに震えているのが伝わってくる。
「心配しなくとも、禁忌の残響には何もしませんよ。まあ禁忌を犯そうとするのであればその時は……なんてね、そうならないように願っておきましょう」
一瞬、背筋が凍りつくような悪寒が、百舌子を通り抜けたように感じた。
「さて、そろそろ私は行きますね。少し様子を見に来ただけなので。こう見えて私、忙しいんですよ?あぁそれと、近頃魔物が増えているので気をつけてくださいね。では」
エリスは一方的に喋ると、慌ただしく飛んでいってしまった。百舌子はリィンの震える手を握り返すしかできなかった。
エリスが去った後、静まり返った裏庭にユリナが帰ってきた。
「モズコ、大丈夫なんですか?」
問題ない。そう言うとする前に、リィンが口を開いた。
「彼女の手、すごく熱い」
百舌子は繋いでいた手を咄嗟に引っ込めた。リィンの手が冷たいものだと思い、気付いていなかった。隠した手のひらはじっとり汗ばんでいる。
「……だっ大丈夫だからっ。傷はもうそんなに痛くないし……」
そんな百舌子を見てユリナはあからさまにむすっとした顔になった。
「ダメです。あれから数日経ったので、魔素が溜まっているのでしょう?傷の痛みが鈍いのもそのせいなのではないですか?」
黙っている百舌子をユリナは少し強引に部屋に連れ込んだ。百舌子はそんなユリナに困惑しつつも振り払うことができなかった。
ユリナに促され、百舌子はベッドに座った。さっきまでの勢いが嘘のように、ユリナの目は右へ左へ泳いでいる。
百舌子はリィンの時のように指先を切ろうと、短剣に手をかけた。指を切るのは痛いし怖い。必要だとしてもできればやりたくなかった。
ユリナは震える百舌子の手を翼で包み込んで止めた。
「その方法はやめておきましょう。今のモズコには体力的にも辛いでしょうから」
「……じゃあどうしたら……」
「……その、えっと……、そのまま、目を閉じていて、もらえますか?」
急に歯切れの悪くなるユリナに、ますます困惑してしまう。言われるままに目を閉じて考えた。
ユリナの翼が肩に置かれ、その暖かさに安心感を覚えた。そして、息遣いがゆっくりと近づいてくるのがわかった。
「ユリナさんこれって——んむっ」
ユリナの唇が百舌子の言葉を遮った。百舌子にとって初めてのはずの感触。夢で見たあの妙に生々しい湿り気が、そのまま伝わってくる。
(私今こんなことしちゃってる、友達なのに!で、でも友達同士でなんて普通って聞いたことあるし……、そう、これは親愛の情の表現で、挨拶とか、そういう、文化的なやつで、私とユリナさんは友達、ただの友情のはず、そもそもこれは魔素を吸ってもらうためで、それ以上の感情なんて、ない、はず……)
「んっ……」
柔らかくて心地がいい。そう思った矢先に、ユリナの百舌子の肩を押さえつける力が強くなった。百舌子の口から吐息が漏れた瞬間に、少し強引にユリナの舌が侵入してくる。
「やめっ——」
百舌子は驚いて顔を背けてしまった。そんなつもりはないのに、それは明確な拒絶として伝わってしまう。
「あっ……、ごめんなさい……嫌だった、よね……」
ユリナの肩があからさまに縮こまっていくのがわかる。ユリナの絶望ともいえる感情が、それを幾度も繰り返してきた百舌子にはわかってしまった。
「ちっ、違、くて、そうじゃないの!強引なのがちょっと怖くて驚いただけで。嫌ではないの、むしろ……そ、それよりユリナさんは嫌じゃないの?」
俯き震えるユリナの翼を優しく引き寄せ、上目遣いで覗き込んだ。
「......私は......嫌ではありません。モズコの、ためなら......」
ユリナの表情は固く、引き攣ったままだ。
「私のため……なんだよね。……じゃあもっとやさしく……して欲しいな……なんて」
(何言ってるの私、それじゃ、私がしたいみたいじゃん!)
百舌子の顔は急激に赤くなり、挙動不審になり目が泳いでいた。そんな百舌子を見てユリナの表情が緩み微笑んだ。
「ふふっ、そうですね。少々焦りすぎていたみたいです」
「笑わないでよ、恥ずかしいんだから」
そう言いつつ百舌子は安堵する。拒絶される悲しみは計り知れないほど辛い。私を見て笑ってくれるなら、それもいいかなと百舌子は微笑み返した。
「でも、恥ずかしいのは私もなんだから……、あ、じゃあ今度は、モズコから……して、くれる?」
少し悪戯っぽい顔をして、ユリナは揶揄うように、耳元で囁いた。熱のこもった吐息が耳をくすぐり、やさしくも確かな強制力を感じてしまう。百舌子は息を飲んで頷いた。
百舌子はユリナをベッドの隣に座るように促した。目を閉じたユリナの美貌が面前に迫るにつれ緊張で心拍数を上げていく。
初めは啄むような軽い唇の触れ合いだった。次第に触れている時間が長くなっていく。
百舌子がユリナの唇を舌先でなぞると、ユリナは応えるように控えめに舌を絡めてきた。円を描くように舌先をくすぐる。ユリナのひんやりした舌先に、百舌子の熱が伝わり温めていく。
「んっ、はあ……」
少し息をつき、見つめ合う。はにかむユリナの瞳が潤み、頬は赤らんでいる。百舌子は確かめるようにユリナの頬に手を添えて引き寄せ口を塞ぐ。ユリナも答えるように百舌子を翼で包み込んだ。
百舌子の舌がユリナの唇を割り内側をなぞった。ユリナは迎え入れるように舌先を引く。
「んぅ、ふぁ……」
百舌子の腕に絡むユリナの尻尾が、少し締め付けを強くする。
(ユリナの声、可愛い。……熱くて……すごく気持ちがいい……)
頭の中がふわっとして何も考えられない。このままずっとこうしていたい。なんて思いながら、そのまま互いの熱を深めていった。
やがて百舌子の中の熱が引き、思考が鮮明になっていった。百舌子は我に返り、自分のしていた行為が、友達にしてはやりすぎたのではないかと思い始める。隣には息を荒げて休んでいるユリナの姿が、やけに艶かしく見えて心臓に悪い。
その場から逃げたいと思った百舌子が立ちあがろうとすると、胸の苦しみが襲いかかって来た。魔素によって鈍っていた痛覚が、じわじわと広がっていく。痛みに耐えかねた百舌子は、ユリナの膝の上に倒れ込んだ。
「モ、モズコ!?だっ大丈夫、ですか……?」
「だい、じょうぶ……じゃないかも……」
恥ずかしいのに、痛みで動きたくない。百舌子は少し首を振り、両手で顔を隠すことしかできなかった。ユリナの柔らかな太ももが火照り、熱が頬に伝わってくる。
「……では、そのままで、いいので、聞いてください」
ユリナの翼が百舌子の頭を優しく撫で始めた。その柔らかさと温かさが、傷を癒してくれるようだった。すこしの微睡を感じて瞼が少し重くなる。
「今日、ライルさんと共に領主様と話をしに行ってきました。魔竜についての報告を王都へ送ったところ、調査隊を向かわせると返事があったようです」
「彼女、リィンさんのことは話していません。私にも判断できませんでしたので……。ところで彼女と何を話していたのですか……?モズコ……?」
痛みはまだ少し残っていた。それでも、軽くなった身体とユリナの体温の心地よさで、百舌子の意識は閉じていく。
「……ふふっ、おやすみなさいモズコ。ゆっくり傷を癒してください」
意識が途切れる直前、ユリナの影が少し揺れ、柔らかな感触が額に触れた気がした……。




