第7話:白銀の少女
微睡みから覚ます、こそばゆい心地を感じ、百舌子は目を開けた。目の前には紫髪の美少女が顔を覗かせていた。彼女が少し動くたびに、太ももに巻きつく尻尾や首や頬を撫でる羽毛が、肌をくすぐる感触にドキっとしてしまった。
(昨日……、あのまま寝ちゃったんだ……)
体温を感じさせるほどの距離に、昨日の胸の感触を思い出し、百舌子の顔はさらに熱を増していく。
そんな百舌子とは裏腹に、ユリナはまだ寝息を立てていた。
その綺麗な寝顔に、思わず見惚れる。こんな子と友達になれたんだ——そう思うと、胸の奥がふわりとほどけて、自然に笑みが溢れてしまった。
「……人の寝顔を見て、笑ってるの?そんなにおかしかった?」
不意に開いた瞳と視線がぶつかる。ユリナは少しだけむすっとした顔を作っていた。
「ち、違うよ……かっ、考え事してただけ……、寝顔を見てたのは本当だけど……あっ……」
墓穴を掘ったことに気がつき、慌てて口を噤む。
少しの沈黙の間、二人の間に鳥の囀る声だけが響く。やがてユリナの肩がわずかに震えた。
「……ふふ、冗談よモズコ、おはようございます」
「う、うんおはよう、ユリナさん」
外に出ると、焚き火の方から肉を焼く美味しそうな香りが漂ってきた。
「お、起きたか、支度が済んだら、これを食べておけ。今日は昨日より奥まで登ることになるかもしれない、早めに行動するぞ」
熾火でじっくり焼かれた山羊の肉を頬張る。じゅわっと肉汁の旨みが口の中に広がり、燻製と香草の風味が鼻腔をくすぐる。臭みはほとんどない。ライルが一晩、香草と塩に漬けていた。丁寧な下処理のおかげだ。
「すごく美味しいよ。ユリナさんもどうぞ」
ユリナの口の前に差し出すと、彼女は控えめに、一口食べた。彼女の頬がすぐに緩んだのがわかった。
美味しそうに食べている二人をライルは、終始笑顔で見ていた。
その時、ふと違和感を覚えた。木の葉の揺れる音に混じり、誰かに見られているような、微かな視線を感じて振り返った。でもその気配はもう消えていた。
「どうかしましたか?」
「うん、誰かに見られていた気がして……、昨日の子かな?」
あの少女はなぜ百舌子たちから離れ、どんな想いで昨晩をどう過ごしていたのか。そして、百舌子の血に対する驚いた顔や言葉を思い出した。百舌子は彼女から、底知れない孤独を感じていた。
(もう一度会って、ちゃんと話がしたいな)
「……あの、狩りが終わってからでいいので、あの女の子を探してみてもいいですか?」
本来の目的ではないことはわかっている。血を吸われた時、百舌子は確かに必要とされた。ならば——もう一度あの子に、求められるかもしれない。それが醜い独りよがりだとしても。
「俺たちは救助の専門家じゃない。帰ってから捜索隊に頼むのが筋だが……。そうだな。狩りの後、俺が下処理をしている間だ。それ以上は肉の鮮度が落ちる。それと、山道から離れないことだ」
「はい。ありがとうございます」
百舌子は深く頭を下げた。
それからといえば山羊狩りは呆気なく終わった。
それもそのはずで、ただライルについていくだけの依頼。余計な寄り道をさせてしまっただけなのだ。
「よし、さっさと帰って、解体するか」
ライルが切り上げて帰ろうとした、その時だった。
鳥達が一斉に飛び立ち、低い地鳴りが、地面を伝わってきた。
続けて、轟音。木々が根ごと揺れるような衝撃が山腹を震わせた。木立の向こうから姿を現したのは、巨大な影だった。
「なっ、なんでこんなところに、竜種がいやがる……」
ライルが低く、歯の隙間から押し殺した声で言った。鉄製の筒を肩に構えながら、微動だにできない。
四本の足で地を這い、長い尾を引きずり、首を起こしている。そしてなにより背中に生えた翼にも見える棘。凄まじい威圧感で百舌子たちを見下ろしていた。まるで、品定めしているかのように。
その竜は三人を等しく見渡した後、その目をゆっくりとユリナに向けた。
竜の右の瞳が赤黒く光り視線が絡んだ瞬間、ユリナの身体が強張るのがわかった。
そしてユリナをまっすぐに見据えたままの竜が、突然大きく息を吸い込んだ。
あれはまずい。百舌子はそう直感して、考えるより先に体が動いていた。竜の喉奥が光り、口から爆炎が放たれる。
「——ユリナさん!」
咄嗟に飛び込んでユリナと一緒に転がり倒れた。爆炎が横を薙ぎ、百舌子の右足を掠める。
「っぐ……」
灼熱が脛を走り、思わず呻いた。けれど骨まで焼けた感触はない。まだ動ける。でも、絶望的な状況だった。逃げられる保証もない、倒せる手段も思いつかない。
竜は悠々と棘膜を広げ、次の攻撃の体勢に入っている。尻尾を持ち上げ鞭のように地面に叩きつけた。
――その刹那、小さな爆発音と共に、黒い煙が魔竜を包み込んだ。
グオオォォォォ!!!竜の咆哮が空気を轟かせた。
「……今のうちに、こっちに」
岩場の向こうから、淡い白銀の影が飛び出してきた。見間違えるはずもない。昨日の少女だ。でも、灰色のように見えていた髪が今はひと際輝いていて、肌の血色もとてもいい様子だった。
「早く来て」
声は小さかったが、有無を言わせない確かさがあった。今は考えている余裕はない。
ライルとユリナに目配せをすると、二人は静かに頷き走り出した。
少女が案内したのは、岩壁の影に口を開けた小さな洞窟だった。人一人が何とか身を屈めて入れる程度の隙間が、奥に向かってゆるやかに広がっている。中に入り込むと竜の咆哮が遠くなった。奥の空間には、少女の持ち物と思わしきものが置いてあるのが見えた。
「ここに住んでるの?」
百舌子が問うと、少女は壁に背を預けて座り込み、膝を抱えた。
「違う、ここは休んでいただけ、……私に家はないから」
淡々と答えたその言葉は、百舌子の胸を鈍く刺した。
(家、帰る場所、それが思い当たるだけ私は恵まれているのだろうか)
「モズコ、離れてください。その子があなたに何をしたか覚えているでしょう?」
尻尾を逆立てたユリナが少女に近づこうとした百舌子の間に割って入った。
少女はその拒絶をさも当然かのように、無表情でユリナを見上げた。
「心配しなくていい。もう十分もらったから」
おそらくその言葉に嘘はない。あの時の彼女はどうしようもない飢えを、しのぐため必死なだけだった。そんな短絡的な答えにたどり着いた。
百舌子は少女の傷だらけだった身体が治っていることに気がついた。傷んでいた髪も艶のある美しい白銀へと変わっていた。
「ねぇ、身体の傷はどうしたの?」
百舌子の問いに、少女は少し俯きの顔が陰った。
「……わ、私は――」
「おい!おまえら、今は悠長に話している暇はないぞ」
何か言いかけた少女の声を、ライルが遮った。
「そうですね、今はあの竜、いえ、魔竜をどうするか考えるべきです。……魔竜と目が合った時、立ち竦んで身体が言うことを聞かなくなりました」
竜の瞳が赤黒く光った瞬間のユリナを思い返す。あれは何かの力を受けていたのだろう。
「魔竜か……厄介だな。逃げるにしてもおとなしく逃がしてくれる保証なんてないな。街に呼び寄せることになるのも避けたい」
「私に考えがある……」
突然、少女が口を開いた。
「私が大規模な魔術を刻む、その時間を稼いで」
少女は変わらず無表情だったが、百舌子を力強い目で見つめた。
「だから、もう少し血を分けてほしい」
「なっ――何を考えているんですかっ!そんなこと信用できるわけ――」
百舌子は庇うユリナを腕で制し、少女の前に進み出た。
「……うん、いいよ。……信じる」
何か言いかけたユリナは、百舌子の決意に満ちた目を見て、何も言わず唇を噛みしめた。
少しおいて、ユリナが大きく息を吸い、ため息をついた。
「はぁ……、わかりました。ライルさん、聞いての通りです。私が空で時間を稼ぐので、援護をお願いできますか?」
「それは別にいいが……、こいつは装填に時間がかかる。撃てて一度だ」
ライルは鉄製の筒を、静かに構えて見せた。
「では目を狙うことはできますか?おそらく魔竜の右目には刻印があります。発動時に足を止めるはず」
そんなに上手くいく保証はまったくなかった。でも、誰もがやるしかないと思っている。でも、百舌子だけが何もできることがなかった。
「わ、私も――」
「あなたはその子のそばにいてください。血を分けて体力を消耗するでしょう?」
ユリナは食い気味に答えた、百舌子の言うことがわかっていたかのように。
突きつけられたその言葉が、百舌子に対する心配を含んでいることは伝わってくる。それでも、百舌子にとっては、「なにもしなくていい」と言われているのと同じだった。
(そうだよね……今、私にできることはこれくらいしかない……)
百舌子は短剣を抜き、指に当てる。まさか初めて短剣を使うのが、自分の指になるとは予想もしていなかった。
指を斬るというのは、思っていたより覚悟のいることだった。百舌子は自分を誤魔化すように少女に尋ねた。
「……ねぇ、名前、聞いてもいい?」
「うん、リィンと呼ばれていた」
「……リィン、ちゃん。よろしく、ね?」
覚悟はできた。短剣を人差し指に押し当て力を込めた。チクッと鋭い痛みが指先に走り、赤い雫が滲み、溢れ始める。
(痛い、でも、この痛みが必要なことなら耐えられる)
リィンはその指をそっと両手で包み、躊躇なく口に含んだ。
「……っ」
温かくて、柔らかい。最初の痛みが、リィンの舌が触れるたびにじわじわと溶けていく。鈍くなっていく痛みの代わりに、じんとした感覚が指先から這い上がってくる。
(痛いのに……こんな状況なのに……き、気持ち……いい)
思考が止まりかけた瞬間、リィンがゆっくりと上目遣いで百舌子を見た。
無表情のまま、でもその目だけが真剣で、まっすぐで。その白く透き通った目に射抜かれ、そのまま百舌子は視線を逸らすことさえ忘れてしまった。
「……んっ」
リィンから漏れる甘い声に、背徳感を覚え百舌子の顔は熱を持ち始める。
(もう少しこのまま――)
「そこまでです。もう十分でしょう?」
見ていられなくなったのかユリナが少し強引にリィンを引き離した。
少し息を荒くしたリィンが、口惜しそうに百舌子の顔を覗いた。
「これで、十分……」
少し離れて、外の様子を伺っていたライルが戻ってきた。
「あの魔竜、俺たちが通るのを待っているかのように、道を塞いで立ってやがる」
「行きましょう。どの道、あれを倒さないと生き延びることはできないでしょう」
ユリナとライルが先陣を切り、魔竜の元へと向かった。
魔竜は盆地の中心で、山羊の亡骸をおとりにするかのように待ち構えている。
ユリナが飛び上がり、背後に回り込んだ。
「今の私なら……できるはず……『切り裂け!』」
ユリナの起こした風は『鋭い刃』となり、魔竜の背に叩きつけられる。鱗に少し傷がついただけで大して効いている様子がなかった。でも、それで十分だった。
魔竜はユリナを向き、咆哮を上げる。そして深く息を吸い込んだ。
「ユリナさん!」
「大丈夫です!この距離なら」
魔竜から放たれた火炎がユリナに目の前で消える。射程はそれほど長くない。でも、まだ魔竜が刻印を使う様子がない。
(このままじゃユリナさんの体力が持たない)
「リィンちゃん!あとどのくらいかかりそう?」
百舌子は焦りから、急かすように声をかける。こんなことを聞いても早くなるわけじゃない。でも、何もできない自分には、それくらいの言葉しか出てこなかった。
「まだ……」
リィンは脇目も振らず、魔術陣を刻み続けた。
ライルが右目を狙っているが、ユリナを追ってしきりに首を動かす魔竜に苦戦している。
空ではユリナが火炎を避け続けているが、その翼の動きが次第に重くなっていく。ユリナが火炎の熱気に煽られ、少しバランスを崩した。
魔竜はその隙を逃さなかった。足元に転がっていた山羊の亡骸を咥え、ユリナに投げつける。それを防御しようとしたユリナは、高度を落としてしまう。
ユリナの面前に魔竜が迫り、鞭のように尻尾を振り下ろした。
「きゃあ!!」
地面に叩きつけられたユリナの悲鳴が響いた。
その光景を見て、百舌子の身体は思わず飛び出していた。短剣に手をかけ、魔竜に向かって走る。
魔竜は変わらずユリナを見下ろし、爪を突き立てようと前足を振り上げていた。
「させない!!」
百舌子は両手で不器用に握った短剣を、力任せに尻尾に叩きつけた。
ガキンッという高い音と共に短剣は弾かれ、百舌子は体勢を崩した。
(全然効いてない。でも、魔竜が一瞬止まった。あとは距離を――)
そう思った瞬間、身体が宙に浮いた。尻尾に横薙ぎされ、肋骨が軋む。
「がはっ……っ」
受け身をとる余裕もなく、吹き飛ばされ倒れこむ。
「ごほっ……ぐっ」
口の中に熱い鉄の味が広がる。視界が真っ赤に染まり、焦点が合わない。身体が思うように動かない。死ぬ。
魔竜がゆっくりと、百舌子にトドメを刺すべく歩み寄ってくる。
「モ、ズコ……逃げて!」
「ちっ、狙いがっ」
百舌子は這うようにして、必死に逃げようともがいた。そんな抵抗もむなしく竜の爪が振り下ろされた。
――赤い飛沫が辺りを染める。
百舌子は目の前の光景に驚愕した。
「……リ、リィン、ちゃん……?」
「大、丈夫、私は……死ねない、から――ごほっ……それより……完成、した」
魔竜の鋭い爪が、リィンの細い首を深く裂き、胸を貫いている。魔竜が爪を引き抜く、それでも少女は倒れなかった。
百舌子は恐怖と罪悪感で体が震える。魔竜の右目が赤黒く光る。その瞳が、追い打ちをかけるように、百舌子の心を竦ませた。
(動け……ない……)
「喰らえ!」
ライルの放った炸裂音と共に、魔竜が悲鳴を上げた。ライルの放った弾丸は正確に、魔竜の右目を穿っていた。
魔竜は苦しみもがき、暴れまわった。
「今の……内に……」
リィンがふらふらと魔術陣の場所に向かおうとする。百舌子は「重い」身体に鞭を撃ち、リィンを支えた。
(こんなにボロボロになってるのに、どうしてこんなに頑張れるの?)
『……貫け……』
リィンの身体が熱くなり、魔術陣に流される。魔竜の足元が『隆起し岩の槍』となって突き上げる。
魔竜の腹を裂き、身体を浮かせる。
しかしその傷は浅く、致命傷に至るほどではなかった。
魔竜は咆哮し、逃れようともがく。そのたびに岩の槍は深く刺さっていく。だが、岩の槍は軋んでひびが入り、今にも砕けそうだった。
その時、魔竜の上空に影が飛び上がった。
「……いいかげんにして!」
ユリナが急降下し、魔竜の背を蹴り堕とした。
その衝撃で、岩の槍が深く突き刺さり、魔竜は低い呻きを上げながら力を失っていった。
ユリナは百舌子のそばに倒れこみ膝をついている。百舌子はリィンを腕に抱えながら、血の量に絶望していた。普通の人間なら即死していてもおかしくない傷に見える。
「血が……こんなに……」
「心配……しないで。数週……ゔっ、数か月もすれば――ごほっ、傷は……治るから」
(治る?血、そうか、私が血を分けてあげれば……)
そう思った瞬間、百舌子の視界が明滅する。身体の「重み」が増し急速に意識を弱めていく。
(だめだ……数か月?それじゃその間、苦しみ続けるってこと?そもそも死なないって何?そんなこと信じられるわけがない。私にできること……)
百舌子の熱が胸に集まりあふれ出す。それからはもう止められなかった。思ってしまった、考えてしまった。私の力を使えば、救えると。
胸から青白い光が漏れ視界を染めていく。
そばにあった魔竜と山羊の亡骸が光の糸のように解けていく。それが丁寧に、編み込まれていく。
一度この光景を見ている。そのときは自分がそんな力を持っているなんて思ってもいなかった。私がしていることが正解だなんて思っているわけではない。
これは私のただのエゴなのだろう。こんなことしかできない自己嫌悪と罪悪感で気分が悪くなる。
それでも……美しい——
そんな感情を持ってしまった。こんなことは間違っている。私の感性は、どうしようもなく醜い。
やがて光が収まり、見えたのは、腕の中で目を閉じて眠る白銀の少女だった。




