第5話:帰る場所
ふと、意識が浮上した。
視界に飛び込んできたのは、朝焼けに染まり始めた教会の天井だ。
驚くほど体が軽い。全身を押し潰していた鉛のような「重み」は嘘のように消え、指先一つ動かすだけで、まるで自分が空を飛べるのではないかと錯覚するほどの全能感に満ちていた。
(……あれ? 私、どうしたんだっけ……)
記憶を必死に手繰り寄せる。
ティエルが仕立てた、紫色のドレス。それを纏ったユリナがあまりに綺麗で、見惚れて……。
「ユリナさんのドレス、すごく、似合ってた……」
そこまでは覚えている。けれど、その先が霧に包まれたように思い出せない。急激に気分が悪くなって、視界が真っ白になった。ユリナが悲鳴のような声を上げて駆け寄ってきて――。
ふと、自分の唇に指を当てる。なぜだろう。夢か現実か分からないけれど、ひどく熱い「何か」が、自分の内側をかき回したような、そんな不確かな感触だけが残っている。
「おや、ようやく起きましたか。モズコさん」
外を眺めていたエリスが、百舌子の目覚めに気づいて振り返った。窓枠に腰を下ろし、逆光の中に浮かぶ彼女の姿は、どこか冷徹な賢者のように見えた。
「なぜあの日、あなたが空間の揺れの中心にいたのか、ようやくわかったかもしれません。……おそらくあなたはこの世界の外から来た異邦人です。」
「異邦人?」
聞き慣れない言葉に、覚醒しきっていない頭のまま固まった。
「異世界人と言い換えてもいいでしょう。でもあなたがそれほどの力を持っているとは思っていません。……来ようと思ったわけでもないでしょう?魔素すらまともに扱えていないようですし」
エリスは窓からひらりと飛び降りると、ベッドの脇へ歩み寄り、百舌子を見下ろした。その瞳は、すべてを見透かすような冷ややかな光を湛えている。
「……マソ、ってなんなの?」
百舌子の素朴すぎる問いに、エリスは深く溜息をついた。
「はぁ……。そこからですか。なかなかに異世界人は面倒ですね……」
彼女は呆れたように首を振ったが、やがて視線を窓の外、朝焼けに輝く森へと向けた。
「いいですか? この世界のあらゆる物は、この『魔素』で満たされています。空気、水、土……そして、私たちの命そのもの。これは生命を生かす祝福であり、輝き。……でもモズコさんは生命活動において魔素を必要としない身体構造なのでしょう」
目には見えないはずの光の粒が、彼女の指に吸い寄せられるように揺らめく。
「この世界の生命は、生まれつきこの輝きを体内に取り込み、巡らせ、使い終わった分を呼気と共に外へ還している。そうやって体内の魔素を、絶えず入れ替えている。……でも、あなたには使い終わった魔素を外に出す身体構造がない。呼吸や食事を繰り返すだけであなたの中に溜まっていくのです」
百舌子は、自分の胸にそっと手を当てて目を閉じた。
昨日あれほど身体にのしかかっていた「重み」が今はほとんど感じられない。
「溜まって、いく……」
「昨日倒れたのは、それが溜まり過ぎた結果でしょう。……あなたはこの世界にいる限り、ずっとそうやって苦しむことになるでしょうね」
エリスは残酷な事実をさらりと告げ、それから少しだけ首を傾けた。
「怖いなら帰る方法か、あるいは溜まった熱を外に出す方法を探すことです。魔術を使えるようにして、人為的に魔素を消費できるようにするのがてっとり早いでしょうけど、あなたの刻印については……まだ不明な点も多いですね、それを制御できるならそれが一番ですが」
「……昨日は……どうやって?」
出口がないはずの自分の中から、どうやってこの「重み」を取り除いたのか。問いかけられたエリスが、獲物を前にした猫のように顔をにやけさせる。
「それはですねぇ、ユリナさんが百舌子さんに——」
「エリス様!!」
扉が勢いよく開かれ、ユリナが慌てて飛び込んできた。
少し乱れた呼吸を整えてユリナは口を開いた。
「あとは私が説明しますから!」
ユリナは顔を真っ赤にして叫ぶように言う。
「聞こえてたんですかぁ?ふーん、別にいいですけどねー」
エリスは揶揄うように笑うと、逃げるように窓から彼方へと飛んで行った。
少しの間、気まずい空気が二人を包む。
それを払ったのは、意外にも百舌子だった。
「……あ、ユリナさん、おはよう……ドレス、着てないんだね……」
「お、おはようございます、百舌子さん……ええ、それどころでは、ありませんでしたから……」
ユリナは目を合わせずに、返事をした。
時々こちらを見ては、目が合うたびに視線を逸らす。ユリナの尻尾が落ち着きなく、低い位置で左右に揺れている。
「……大丈夫?顔が赤いけど……」
「だ、大丈夫です。それより、朝ごはんの準備ができていますよ早く行きましょう」
ユリナは百舌子を急かすように言う。
「……でも、まだ昨日のこと、聞いて、ない……」
ユリナの耳と尻尾が逆立ち、背中を向けたまま立ち止まる。
「……昨日のこと……本当に覚えてないの?」
「……うん」
「えっと……その……あなたの汗には微量ながら魔素が含まれています。昨日は大量の汗をかいていたでしょう?汗やその……体液からでも魔素を排出できるんです!だから、あなたの出口を作るために、私が……、少しだけ、お手伝いをしたというか。……とにかく、それだけですっ!」
ユリナの捲し立てる勢いに押され、百舌子は浮かんだ疑問を飲み込まざるを得なかった。
(……迷惑、かけてばかりだ。私……。せめて隣に並び立てるようになりたい……弱みを見せ合えるような「友達」に……)
「ユリナさん!!」
百舌子は突き動かされるように、ユリナの両肩を掴み、顔の前まで引き寄せた。
想定外の出来事に、ユリナは戸惑いと恥ずかしさで目を泳がせる。行き場を失った翼を、ぎゅっと縮こまらせた。
「な、なっ……なんですか……モズコ!?」
今の、身体に溜まっていた「重み」が消えた百舌子は……「無敵」だ。
――でも、その無敵は長く続かなかった。
「……私と……友達に、なってくだひゃいっ!!」
「……え?」
ユリナは呆気にとられ、目を丸くしてこちらを見つめた。
噛んでしまった恥ずかしさで百舌子は顔が赤くなっていく。
(いつも私はそうだ、大事なところで失敗する。)
その静寂が、百舌子の頭を冷やすには十分すぎて、嫌な思考が頭をめぐり始めた。
嫌われることよりも、必要とされないことへの、どうしようもない恐れで手が震えている。
そんな悲観を覆すように、ユリナは笑みを溢した。
「……ぷっ、ふふ……あはは!……あ、ごめんなさい、モズコがおかしいわけではないの。ただ、とってもモズコが真剣な顔をするものだから身構えちゃって……」
柔らかな翼が百舌子の両手を、そっと包みこんだ。
「ええ、なりましょう……。「友達」に……。というよりまだ友達じゃないつもりだったの?ちょっと寂しいかな……」
そう言ってユリナは、ちょっと拗ねた顔をして、猫の耳を横に寝かせている。そんな彼女が百舌子には救いになったと同時に、とても愛おしい存在に見えた。
ちょっと顔を背けていじらしくするユリナの尻尾が、いつにも増して滑らかに、左右に揺れている。
「……その尻尾どうしたの?」
「えっ!?」
ユリナは弾かれたように自分の背後に腕を回し、暴れていた尻尾をぎゅっと抱え込んだ。
「どうしてかしら。でも、前より自分の意思で動かせるようになっている気がするのよね」
ユリナは抱え込んでいた尻尾を放し、左右に自在に動かしてみせた。
「行きましょう?朝ごはんが冷めてしまうわ」
そして、尻尾の先を百舌子の手首に、甘えるように優しく巻きつけた。そのまま、グイと自分の方へ引っ張る。
「う、うん」
百舌子はそのくすぐったい感触に照れながらも、尻尾を通して伝わるユリナの体温と、ぐっと近づいた距離感に胸が熱くなるのを隠せなかった。
その日、二人はティエルに依頼の詳しい内容を確認するため、街に出た。
猟師の同行で山を登ることになるかもしれない。しっかり準備することに、越したことはない。
ユリナは心配そうな顔で百舌子をのぞき込んだ。
「……モズコ、どうしても付いて行きますか?」
彼女が何を心配しているのかは、痛いほど伝わってきた。けれど、それは同時に百舌子の心を鋭く抉った。何もできず、ただ守られているだけなのが、何よりも嫌だった。
「まだ怪我も完治していないのでしょう?一度山を登り始めれば、すぐには引き返すことができません。……無理をしてほしくないの」
百舌子にとって、傷だらけの自分のことより、ユリナのことの方がずっと心配だった。彼女は、自分自身の弱さと危うさに気づいていない。
「……傷もだいぶ良くなったから。それに……役に立ちたいし……」
その決意に満ちた声色に、ユリナはため息混じりに答えるしかなかった。
「……頑固ですね、あなたは。わかりました。でも、道中でつらくなったり、異変があれば引き返しますからね」
「……うん、わかってるよ」
手を引くユリナの顔は見えなかったが、手首に巻き付いた尻尾の力が少し強くなった気がした。
市場に近づくと、賑やかな声が聞こえてきた。
活気ある通りのあちこちで、旅の行商人や客たちが声を潜めて話し合っている。
「——聞いたか? 魔竜が王都の近隣に出没した話、小隊が撃退には成功したらしいが……」
「——最近盗賊が幅を利かせているせいで、物流が滞って困ったものだよな。護衛もタダじゃないってのに……」
「——西の国じゃあ、反乱が起きたってさ。その後、唯一生き残った十歳の王子が国王になったらしい……」
風に乗って流れてきた一つの噂に、ユリナの足が一瞬だけ止まった。
俯いた彼女の表情は読み取れなかったが、震えを隠すように、彼女は強く自分の翼を抱え込んだ。
「……ユリナ?」
百舌子が不安げに声をかけると、ユリナは小さく息を吐き、顔を上げた。その瞳には先ほどまでの笑顔の余韻はなく、冷たく澄んだ、あるいは何かに耐えるような色が宿っていた。
「……なんでもありません。行きましょう、モズコ」
ユリナは自分を律するように背を伸ばし、仕立て屋の扉を押し開けた。
カラン、と乾いた鈴の音が店内に響く。
「いらっしゃい、おや、モズコちゃん、昨日は大丈夫だった?」
カウンターから顔を出したティエルが心配そうに眉を下げた。
「……はい、ご迷惑をおかけしました……」
申し訳なさに俯くと、彼女はすぐにいつもの快活な笑顔に戻り、手をひらひらと振った。
「気にしないで!急に倒れるものだから驚いただけだからね。顔色も良さそうで安心したよ。それで、今日は依頼の話?」
「はい、それで同行することになる猟師の方は、以前お会いした人で合っているのでしょうか……」
ユリナは真剣に、それでいて悲しみのこもった顔を見せる。彼女の見た目を見て忌避感を持つ人はまだまだいるのだ。
そんなユリナの不安は胸に鋭く刺した。慰めの言葉をかけることもできず、震えた肩をそっと手を添えることしかできなかった。
そんな心配を余所に、ティエルは軽快な声で話し出した。
「うん、そのとおり。彼、ライルさんが君の実力なら安心して任せられるって言ってたからさ。魔獣から助けてもらったって言ってたよ?」
その言葉に安堵したのか、ユリナの表情が少し和らいだ。
「そんな、助けたなんて大袈裟です……。そ、そういえば、何か準備するものはありますか?」
「道具の準備は彼が全部整えてくれるってさ。出発は明後日の朝、君たちは体調だけを整えておいてね。心配しなくても難しい依頼内容じゃないからさ」
安心させるように笑うティエルの軽快さに、店内の空気まで少し軽くなった気がした。
だが、帰路に着いた後も百舌子の心に、罪悪感が重みとなって残ったままだった。
就寝前、明かりを消した薄暗い部屋で、ユリナは真面目な顔で百舌子に話し始めた。
「モズコ、あなたにだけは伝えておきたいことがあります。」
「……なに、なんでも言って?」
百舌子はユリナの方向き、座り直した。ユリナの真剣な表情を見て背筋を伸ばした。
「……私は……、隣の国の反乱から逃げて来た第二王女なのです。国境を越え、追手から逃げ延びたまではよかったのですが、近衞とも逸れてしまい、行く当てもなく彷徨っていました。その後はあなたの知っている通りかもしれません」
ユリナの表情は悲しみに満ちているように見えた。
「……そう、だったんだね……」
百舌子は驚きよりも先に、腑に落ちる感覚があった。今までの立ち振る舞いや言葉遣いがそれを表していた。それと同時にやはり、今の姿に変えてしまった申し訳なさが、百舌子の心にのしかかる。
「驚かないのですね。……いえ、そんなあなただからこそ、話したのかもしれません」
ユリナに真っ直ぐ見つめられて、百舌子はふいに目を伏せ顔を逸らした。
「また、私のせいで、なんておもっているのでしょう?身分についてはもう終わったもの、過ぎたことなんです。私はあの日、王族としての私は死んだも同然。今こうして生きているのはモズコ、あなたのおかげなのですから」
ユリナのその言葉が百舌子が自分に掛けていた呪いを解きほぐしていく。自分がしてきたことは決して無駄ではなかった。取り返しのつかない過ちだと思っていた、あの日の『奇跡』にも、意味があったのだ。そう思えるだけで、百舌子の心にあった濁りが澄み渡っていく気がした。
「それに……、友達と言ってくれたこと、本当に嬉しかった。周りにはいつも、使用人や近衛の者たちはいたけれど、……私と対等に接してくれる人なんて、今まで一人もいなかったから」
ユリナは少し照れたように笑い、百舌子に両手を翼で包み込んだ。柔らかな羽毛が百舌子の指に絡み、温もりが、心を包み込むように広がっていく。
「私もモズコの力になりたいと思ってる。あなたに帰る場所があるなら、その手助けをしたい。だから遠慮なく頼って。それでこそ友達でしょう?」
「……うん、わかった。……ありがとう」
ユリナは満足そうに微笑むと、大きな翼をゆっくりと畳み、隣のベッドに横になった。
「……おやすみなさい、ユリナさん」
「おやすみなさい、モズコ」
部屋には、カーテンの隙間から漏れる淡い月明かりと、二人の穏やかな呼吸音だけが微かに響いていた。
百舌子は目を閉じて考える。念願の友達という存在。飛び上がりたいほど喜ばしいことのはず……なのに、余計な心配ばかりが浮かんでくる。自分なんかでいいのだろうか、些細なことで嫌われたりしないだろうか。そんな胸のざわつきが重みとなって身体にのしかかってくる。
それに……。
「帰る場所、かぁ……」
ぽつりとこぼれた、誰にも届かないほどの小さな呟きは、夜の闇に吸い込まれて消えていった。
(私が帰ったところで誰が喜ぶのだろうか。母さんはどうせ仕事で家を空けている。それならこの世界で、必要としてくれる人のために……)
そんな考えを浮かべながら、百舌子は微かな「重み」に身を委ねて、深い眠りの底へとゆっくり沈んでいった。




