第4話:重みの所以
翌朝、百舌子は身体のだるさを感じながら、目を覚ました。この場所に来てから感じる正体不明の「重み」が思考を鈍らせていた。
ユリナに大きな翼を隠すように厚手のローブを羽織らせ、百舌子は共に街へ降りた。
しかし、隣を歩く百舌子の黒髪と深いフードを被っていてもわかる特徴的な猫の耳が、通行人の目を引き寄せる。
「おい、あれ……あの娘の隣、まさか」
「ああ。子供たちが言ってた翼の……」
恐怖の混じった視線で距離を置く大人たちもいれば、遠巻きに「救世主様だ」と拝むように見つめる者もいる。
ざわめきが波紋のように広がる中、二人は街角の武具屋に辿り着いた。
二人が扉を開けると、武具屋の店主は顔を上げ、値踏みするような鋭い、けれど敵意のない視線を向けた。
「おう、あんたらか。黒髪の少女と、紫髪の美人ってのは。……街の連中が騒いでるぜ、救世主だの、異形だのとな」
店主は作業台の上の革防具を脇に退けると、鼻を鳴らした。
「俺に言わせりゃ、どっちでもいい。金払いが良くて、道具を大事にする奴が客だ。……で、何が欲しいんだ?」
ユリナはローブのフードを深く被り直し、猫の耳を隠したが、店主にはすべてお見通しのようだった。
百舌子は壁に掛けられた剣をいくつか眺めたが、どれも片手で持ち上げることすら躊躇われるほど、鈍い重厚感を放っている。
一振りの剣に手をかけ、持ち上げようとした百舌子だったが、ずっしりとした鉄の重さに手首が負け、大きくバランスを崩した。
「おい、気を付けてくれよ?」
「……す、すみません!」
百舌子は顔を赤くして、慌てて剣を元の場所に戻した。
ふと、棚の隅にもたれ掛かっている一本の杖に目が留まった。
「……これは?」
ユリナが不思議そうに小首を傾げた。
「魔術具を知らないのですか?刻まれた魔術を起動できる道具なのですが……」
ユリナは杖をじっと見つめ、店主に尋ねる。
「これは、どんな魔術が刻まれているのですか?」
「そいつは『衝撃波』だな。離れた場所の獲物を弾き飛ばすくらいのことはできるぜ」
店主の言葉に、百舌子の胸が高鳴る。
(……これなら。これなら、力がなくても、遠くからユリナさんを助けられるかもしれない……)
「衝撃波が出る想像をしながら、魔力を流してみてください」
ユリナに促され、百舌子は杖の柄を強く握りしめた。
けれど――そもそも「魔力を流す」とは、どういう感覚を指すのか百舌子にはわからなかった。
いくら必死に念じても、何の流れも感じない。
百舌子にとって、ユリナの言葉は、まるで持っていない臓器を動かせと言われているような、途方もない戸惑いしかなかった。
握っている手に力だけが入る。指の関節が白くなるほど強く、震えるほどに。
——しかし、何も起きず、杖は冷たい棒のままで、一向に反応する気配はなかった。
無理に何かを動かそうとしたせいか、身体の「重み」が嫌な拍動を刻み、指先が震えた。
「……ダメ、みたいです。流すっていう感覚が、ぜんぜん、わからなくて……」
百舌子は逃げるように杖を棚に戻した。その瞬間。杖がとても淡い光を放ったような気がした。
(……あれ?気のせいかな?……気のせいだよね……)
杖での失敗に肩を落としながらも、百舌子は諦めきれず、自分でも取り回しがしやすそうなものを棚の隅に探し求めた。
そこで、一振りの無骨な獲物に目が留まる。装飾を削ぎ落とした、片刃の短剣。
「……店主さん。これを……」
百舌子が指差した先を見て、店主は鼻を鳴らした。
「ああ、そいつか。別にいいが……そいつも『障壁』が付いた魔術具だぜ、いいのか?」
「はい、……私に、持ち歩けそうなものは、このくらい……だと思います……」
百舌子は短剣を手にとると、視線に緊張しながらも、慎重に鞘から抜いてみる。
持ち手に魔術らしき模様が刻まれただけの単純な造り。想像よりもずっしりとしていて、守るためだから何かを傷つけることの重みが、掌に伝わってくるようだった。
「これを……ください」
「おう、まいど……手入れしたくなったら、またウチを利用してくれよな」
店主は受け取った代金を数えると、短剣を丁寧に布で拭ってから百舌子に差し出した。
「あ、はい……! あ、ありがとうございます……っ」
百舌子は緊張で強張った顔のまま、ひったくるように短剣を受け取ると、逃げるように出口へ向かった。
百舌子がそそくさと店を飛び出していくのを、ユリナは可笑しそうに目を細めて見送った。彼女は店主に向かって優雅に一度だけ会釈をすると、ゆっくりと店を後にした。
武具屋からの帰り道で、不意に呼び止められた。
「おう、お前たち! 昨日は助かった!ちょうど良かったよ、教会に行こうとしてたんだ。」
振り返ると、昨夜血まみれの男を担ぎ込んできた、あの若者が立っていた。
百舌子は肩を跳ねさせ、少しユリナの影に隠れようとする。
「本来なら憲兵かどこかの賞金稼ぎに依頼を出すつもりだったんだが、あんたたちが速く対処してくれて助かったよ」
彼は少し気まずそうに、けれど快活に笑いながら歩み寄ってくると、百舌子たちの手にずっしりと重い小包と、布に包まれた大きな塊を押し付けた。
「これ、少ないが礼だ。中身は……まあ、端金だが取っといてくれ。あとこっちは、猟で獲れた新鮮な獣肉だ。セラ先生にもよろしく伝えてくれよな」
ユリナは戸惑ったように、ローブの中で翼を微かに動かした。
「……そんな、私たちは当然のことをしたまでで……」
「いいから、受け取れって! あんたたちがいなかったら、今頃もっと多くの被害者が出てたかもしれねぇ。……あんたが何者かなんて関係ねえ。俺たち猟師にとっては、間違いなく救いだったんだ」
若者はそう言い残すと、照れ隠しのように足早に去っていった。
百舌子は、渡された肉の温もりと、小包の中で鳴る硬貨の音を聞いた。
(……ユリナさんのしたことが、ちゃんと繋がってるんだ……)
そのことが、自分のことのように誇らしくて、百舌子はほんの少しだけ口角を上げた。
教会に戻ると、昼下がりの柔らかな光が廊下に差し込んでいた。
しばらくして、大きな包みを抱えたティエルが姿を現した。昨日の採寸から一睡もしていないのだろう、目の下には深いクマがある。だが、その瞳は獲物を狙う獣のようにギラついていた。
「……できたわよ。あんたのその、綺麗な翼に、なんだか職人魂を刺激されちゃって……徹夜しちゃった」
ティエルは荒々しく包みを解き、中の「服」をユリナに突きつけた。
「これのお代はセラから貰うからいいよ。それとは別に依頼をしてもいい?」
ティエルは少し言い淀んだ後、百舌子とユリナを交互に見つめた。
「猟師の二人にね山羊の毛皮が欲しいから、狩りを依頼してたんだけど、知ってるかもしれないけど、その一人が怪我しちゃってさ。もしよかったら、猟師の彼に、同行してくれないかしら。そうじゃないと彼は一人で向かうなんて言ってるのよね。どうかな?」
その提案に、百舌子はユリナの顔を伺う。ユリナが嫌ならやめておこう。そんなことを考えている間にユリナが口を開いた。
「わかりました。引き受けましょう」
自分たちのために無理をしたティエルへの恩返しだ。ユリナは、決意を秘めた目で小さく頷いた。
「そう来なくちゃ!詳しい話は後でしよう。そうと決まったら、まずは着てみてくれない? まずは動きやすさを優先した服から……。で、それとは別に私の最高傑作も仕立ててきたの。あんたに、どうしても着てほしいドレスをね」
「ドレス……?」
「セラ、奥の部屋借りるわよ」
ティエルはそう言い放つと、セラが返事をする暇もなく、戸惑うユリナの腕を引いて突き進んだ。バタン、と力任せに扉が閉められ、直後に鍵の回る硬い音が廊下に響く。
廊下には、百舌子一人だけが取り残された。
(……あんなに強引に連れて行っちゃって、大丈夫かな)
心配する気持ちとは裏腹に、百舌子の耳には、閉ざされた扉の向こうから漏れ聞こえる小さな音が、嫌というほど鮮明に届き始める。
断続的な衣擦れの音。
肌着を整えるような、かすかな気配。
「それにしても、自分で着られないのは不便ね」
「いえ、慣れていますので。……あっ、いえなんでも……」
会話の内容自体は、他愛のない内容のはずだ。
けれど、廊下で一人待つ百舌子の耳には、それが何かいけない、秘め事を聞かされているかのように響いた。
ユリナがされるがままに布を纏わされている。その光景を想像しただけで、百舌子の顔はカッと火を噴いたように熱くなった。
百舌子は胸に手を当て、壁に背を預ける。心臓が、耳元まで響くほどに激しく脈打っている。
(……どうしたんだろう。なんだか、すごくドキドキする……)
それがユリナへの純粋なときめきなのか、背徳感なのか、今の百舌子には判別がつかない。
扉の向こうでユリナが着替え終えるのを待つ時間は、百舌子にとって、甘い期待と耐え難い苦痛が入り混じった、出口のない迷路のようだった。
着替えを終え、百舌子の前に現れたユリナは、昨日までの「異形の少女」ではなかった。
ティエルの仕立てた紫色のドレスによって、彼女はまるで天界から舞い降りた使いのように、神々しく、そして痛々しいほどに美しかった。
「……モズコ、どうでしょうか」
ユリナが少し照れくさそうに、けれど誇らしげに翼をふわりと広げる。
百舌子は思わず、感嘆の息を漏らした。
(……すごく、綺麗……)
百舌子は小さく瞬きをして、慌てて視線を逸らした。
「似合っていませんか?」
ユリナは自信なさげに百舌子の顔を覗き込んだ。
もちろんすごく似合っている。
百舌子が身を呈して守った価値が、目の前で「形」になって輝きを放っている。そう感じている、でも……ぐらり、と視界が歪んだ。
(……あ、れ……?)
午前中の疲れが出ただけだと思っていた。けれど、何かが違う。百舌子の視界は、急速に輪郭を失い始めていた。
平衡感覚を失い、床が波打つように揺れる。
意識が自分のものではなくなる、このどうしようもない不快感。
世界が歪み、ユリナの声が、水槽の底で聞いているように遠く、くぐもって響く。
「……モズコ? 顔色が真っ赤ですよ、どうしたんですか……っ!」
駆け寄るユリナの白い翼が、視界の中で重なり合い、真っ白な霧のように膨れ上がる。
体がだるくて重い。気持ち悪くて吐き気もする。
百舌子は膝から崩れ落ちていく。
遠くでユリナが呼んでいる声が聞こえた。
どれくらい、気を失っていたのだろう。
次に目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのは、もう見慣れた教会の高い天井だった。
まだ視界がぼやけている。
背中に伝わるベッドの柔らかな感触。
けれど、体内に居座る「重み」は少しも引いておらず、鉛を飲まされたような不快感が全身を支配している。
(……立たなきゃ。こんなところで、寝てる場合じゃない)
朦朧とする意識の中で、百舌子は必死に右手に力を込めた。シーツを掴み、無理やり上体を起こそうとする。
だが、腕が自分のものとは思えないほどに重い。肘を支点にして数センチ浮かせただけで、全身の筋肉が悲鳴を上げ、視界が激しく火花を散らした。
結局、重力に抗うことはできず、百舌子の体はシーツへと力なく沈み込んだ。
(どうして……こんなに、情けないの……)
誰かが会話している声が水が耳に入ったように曇って聞こえる。
「……はどう……んですか?」
「落ち……てくだ……。今はま……、意識がはっ……していない……です。でも、このまま……良くない……しれません。」
「私……できる……はあり……か?」
「……アさん、モズ……んから外に……魔力……られま……?」
「……!?、いえ、そんな……!彼女……る魔力を……感じ……せん……」
ユリナの悲鳴に近い声が、熱に浮かされた耳を打つ。途切れ途切れでよく聞き取れない。 でも、エリスの声はどこまでも静かで、それゆえに恐ろしかった。
「……らく彼女には……の出口が……しょう。……なら呼吸……に吐き……べき魔素……、彼女の……閉じ……まま……いる。でも、……く方法が……わけじゃ……。見て、……の汗に、……微かな……と魔力の……がある」
エリスは、百舌子のひどく荒い呼吸を見つめる。
(なにを……言っているの……?)
百舌子は朦朧とした頭で必死に言葉の意味を考えていた。
「どう……ば……モズコは……に……ますか?」
「……に混じって……ば、体液……。……それを……取る……。……接触で……つなげ……濃度……均等化……。……そ……唾液……刺激……出させ……」
エリスの言葉に、ユリナが息を呑む。それが何を意味するのか、聡明な彼女が理解できないはずもなかった。
「しかしそれは……の中の……をも……ることに……。危険が……?」
百舌子の視界はもう、ほとんど何も判別できない。ただ、目の前に揺らめく紫色の輝きだけを、命綱のように見つめていた。
指先が震え、無意識にユリナのドレスの裾を掴む。
「構い……。私が、……引き……ます」
ユリナの言葉には、迷いを感じなかった。
「モズコ……ごめん……、私が、……することしか……」
ユリナの悲痛な決意が、熱に浮かされた耳に届いた。
ぼやけた視界が紫に染まる。
直後、唇に、信じられないほど柔らかなものが触れた。熱い吐息とともに、何かが自身の唇を割って、内側へと押し入ってくる。
――自分の舌が、絡めとられていく。
(ん……っ)
全てを理解して頭の芯が白く弾けた。
まるで自分が溶かされているような夢見心地だった。
百舌子を焼き焦がしていた「重み」が、猛烈な勢いで吸い上げられ身体が軽くなっていく。
泥濘のように淀んでいた身体の感覚が、心地よさで書き換えられていった。
あんなに不快だった熱が、今はユリナと繋がっているという恍惚とした温度へと変わっていく。
百舌子の喉から、言葉にならない吐息が漏れた。
それは苦痛から解放された安堵なのか、それとも、もっと深く彼女に吸い尽くされたいという、剥き出しの渇望なのか。
あまりの心地よさに百舌子の意識が薄れていく。
「んっ、はぁ、……っ、く……っ」
最後に視界に残ったのは、唇から離れたユリナの肩が激しく上下し、荒い呼吸を繰り返す姿。
ドレスの隙間から覗く汗に濡れた肌。
高熱を帯びて赤く染まった顔。息も絶え絶えに、妙に艶めくユリナの表情――
それだけを朦朧とした目に焼き付けながら、百舌子はゆっくりと、甘い闇の中へと沈んでいった。




