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第3話:自分の価値

 翌朝、教会の静寂を破ったのは、セラが連れてきた仕立て屋・ティエルの威勢のいい声だった。


「さあさあ、見せてちょうだい。セラがそこまで出し惜しみするなんて、よっぽどの……」


 部屋に入るなり、ティエルは言葉を失った。


 ベッドの端に腰を下ろしている少女。その肩から伸びているのは、人間の腕ではなく、部屋の半分を占拠するかのような、圧倒的な質量を持った白い翼だった。


「……セラ。あんた、これ……」


「説明はあと。お願い、この子のための服を作ってほしいの」


 セラの必死な顔に、ティエルはプロの根性で驚愕を飲み込んだ。彼女は震える手で定規を取り出すと、恐る恐るユリナの傍らへと歩み寄る。


「……なるほど。腕が、全部翼になってるのね。……モズコちゃん、ちょっとそこを持っててくれる?」


「あ、……は、はいっ」


 百舌子は言われるまま、ユリナの翼の端を両手で支えた。


 ずっしりと重い。けれど、指先に伝わる羽毛の柔らかさと、その下にある骨格の力強さは、これが紛れもないユリナの「腕」であることを物語っていた。


 ティエルは手際よく、ユリナの胸囲、そして翼の付け根――肩のラインを測っていく。


「翼の可動域を確保しないと、羽ばたいた瞬間に全部弾け飛んじゃうわね。腕がない分、身頃は紐で締め上げるタイプにするしかないわ。……ユリナさん、ちょっと翼を広げてみて」


 冷たい定規がユリナの肌を滑る。ユリナはされるがままになりながら、鏡に映る自分を、どこか遠いものを見るような目で見つめていた。  


 必死な顔で翼を支えていた百舌子は、ふと、鏡越しにユリナに見つめられていることに気付いた。ユリナがこちらに微笑むのを見て、反射的に目を逸らしてしまった。


 


「翼の稼働を邪魔しないようにして、着やすいように……尻尾を通せる穴もつくらないと……」


 ブツブツ呟くティエルの目は、最初の警戒心が嘘かのように職人の目つきをしていた。


「よし、採寸終了! 横に巻いて、帯で止める特殊な形にする、それ以外にも試してみたいものを思いついたわ。今から帰って作るから!代金は覚悟しなさいよ?」


 嵐のような勢いで、ティエルは仕事場へと駆け出していった。





 嵐の去った部屋に、気まずい沈黙が流れる。百舌子がユリナに何と声をかけるべきか迷っていると――それを切り裂くような怒鳴り声が廊下に響いた。


「こいつを、こいつを助けてくれ……ッ!」


 飛び込んできた来訪者は、血まみれの男を担ぎ、絶望に顔を歪めて叫んだ。


 血の臭いが瞬く間に部屋を支配した。


 セラは即座に表情を消し、負傷した男の傍らへ膝をついた。


「傷を、見せて。……深い。止血を優先します!」


 セラは手際よく血を洗い落とし包帯を巻いていく。


「……ゔっ……」


 負傷した男は呻きを上げる。


 セラの刻印が淡く光ると、男は少し楽になったようだった。


 その光が傷口の熱を吸い取り、男の荒い呼吸を整えていく。


 百舌子はその横で、震える手を伸ばしかけ――そして、自らの爪が食い込むほど強く、その拳を握りしめて引っ込めた。


(……助けたい。でも、どうしたら)


 百舌子は自分の刻印からは熱さを感じなかった。ユリナの時と同じような「何か」が決定的に足りない。


 何をどうすればあの傷が塞げるのか、その理屈すら今の百舌子にはわからなかった。


「何があったの。これは、普通の獣の傷じゃないわ」


 セラの問いに、担いできた男が絶望に顔を歪める。


「……街の外れに、大型の山犬が……赤黒い……あれは魔獣だった……!」


 その言葉が終わるより早く、衣擦れの音が響いた。


 それまでベッドに静かに座っていたユリナが、音もなく立ち上がっていた。


「……それはどこですか? 教えてください」


 血まみれの男を担いできた若者は、立ち上がったユリナの姿を見ると、畏怖と驚愕で顔を引きつらせた。


「……なんだ、お前……。その、姿、大きな翼は……っ!」


 無理もない。人間の肩から重厚な白い翼が生えているのだ。だが、ユリナはその言葉に揺らぐことさえしなかった。


「いいから、場所を教えなさい!」


 その一言には、男の問いを一切拒絶するような、苛烈なまでの気迫が宿っていた。


 男はユリナの言葉に気押されると、喉を鳴らして沈黙した。目の前にいるのが少女なのか、あるいはそれ以外の何かであるのかを考える余裕すら、その威圧感に奪われたようだった。


「……あ、……ああ。ここから、少し先だ。裏山を越えた、街道の手前だ……!」


「案内をしてくださいますか?」


「っ、わ、わかった。ついてきてくれ……!」


 男は我に返ったように、よろめきながらも出口へと駆け出した。ユリナはその後を追い、迷いなく部屋を飛び出していく。


「ユリナさん! 待って……!」


 百舌子も慌ててその背を追いかけた。


 けれど、百舌子の脚の状態では思ったように走れない。


「……っ、はあ、はあ……!」


 一歩、足を踏み出すたびに、呼吸が荒くなり、息を吸うたびに「重み」が溜まっていく。視界がぐらりと歪む。


 それでも、百舌子は壁を掴んで身を支え、遠ざかる白い翼を追った。




 自分でもわからない。


 ユリナを助けたい?違う。ユリナを一人にしたくない?それも違う。


 あるいは、この耐え難い「重み」から、自分を救ってほしいのか。


 百舌子は濁った意識の中で、必死に足を動かし続けた。




 逃げ惑う人々や衛兵を躱し、遅れて辿り着いた百舌子の目に映ったのは、絶望的な光景だった。


 ユリナが山犬の群れに囲まれている。


 一頭の山犬が吠える。首元の赤黒い刻印が脈打つたびに、周囲の空気が重く、鋭く変質していく。


 たぶん、あれが群れの長だ。


 魔獣が地を蹴った。瞬間、その姿が視認できないほどの速度で『加速』し、正面の空気を刃に変えてユリナへと叩きつける。


「……っ、く……!」


 ユリナは翼を交差させ、盾としてその衝撃を凌ぐ。しかし、不可視の打撃は彼女の細い身体を容赦なく弾き飛ばし、白銀の羽が数枚、無残に舞い散った。


 ユリナの喉元が青白く光る。


『止まりなさい!』


 ユリナの『声』が響き、魔獣が少し怯んだ。


 魔獣が、自らの野性を忘れたかのように呆然と立ち尽くし、奇妙な硬直状態が訪れる。


 だが、群れの一頭——刻印を持たない飢えた山犬が、低く伏せながら彼女の背後へと回り込んでいた。


 翼を広げ、正面の魔獣を迎え撃とうとする彼女の背中は、無防備に晒されている。


「——あっ」


 考えるより先に、百舌子の身体が反射的に動いた。


 呼吸をするたびに毒を吸い込んでいるような感覚。一歩踏み出すだけで心臓が破裂しそうな苦しさ。


「ユリナさん、後ろ――っ!」


 叫んだ瞬間、山犬が跳ねた。


 鋭い牙が、ユリナの背を裂こうと空を舞う。


 百舌子は、間に合わないと知りながらも、衝動的に割り込むように身を投げ出した。


 ——鈍い音が響き、熱い衝撃が百舌子の肩を走った。


「が、あ……っ!」


 獣の牙が、百舌子の肩を切り裂く。


 地面に叩きつけられ、激しい咳と共に鉄の味が口内に広がる。


 けれど、百舌子は歪んだ視界の中で、背後の異変に気付いて振り向いたユリナの瞳を見た。


(……よかった。無事、だ……)


 ユリナを直すことも、魔獣を倒すこともできない。


 けれど、その身を盾にすることだけはできた。


 ボロボロの身体で、ひどく惨めな姿のはずなのに、百舌子の心には、身体の「重み」さえも一瞬忘れるような、歪な安堵感が広がっていた。


「——モズコ!?なぜ!くっ……よくも……っ!」


 ユリナの瞳が、凍てつくような殺意に染まった。


 その瞬間、彼女の背中——翼の間から脈打つような赤黒い光が放たれる。


 ユリナが翼を鋭く一閃させた。


 彼女の起こした『風』が見えない刃となり、百舌子を襲った山犬の胴を深く、正確に切り裂いた。


 さらに、ボスの魔獣が『加速』の余波で放った衝撃波を真っ向から切り裂いて、その首筋へと不可視の爪跡を刻み込む。


 魔獣は喉から血を噴き出し、一度だけ大きく身を捩ると、そのまま地面に伏して動かなくなった。


 断末魔の呻き。そして、群れは長の死とユリナの放つ圧倒的な気迫に気圧され、クンクンと鼻を鳴らしながら一斉に森の奥へと逃げ去っていった。


 静寂が訪れる。


 返り血を浴び、肩で息をしながら、ユリナは百舌子の元へと駆け寄った。


「……モズコ! モズコ、しっかりして……!」


 百舌子は、抉られた肩の痛みに耐えながら、必死に彼女を見上げた。


 必死に自分を呼ぶユリナの顔を見て、百舌子の心には救いようのない、醜い満足感が込み上げた。 


(……これで、いいんだ。……私は、役に、立てた……)


 全身を襲う疲労感。けれど意識は、かつてないほどに澄み渡っている。


 ユリナの翼が、震える百舌子の身体を不器用に、けれど力強く抱き寄せた。


「……怪我、ひどく、ないから……。泣かないで、ユリナさん」


 百舌子が震える手を伸ばすと、ユリナはその掠り傷を確認し、後悔を滲ませた顔で彼女を強く抱きしめた。


 真っ白な羽毛の重みと、確かな体温。


 百舌子は、抗うことなくその温もりへ体を預ける。


「……安心したら、力、抜けちゃった……」


 張り詰めていた糸が切れた途端、手足が鉛のように重くなる。


「モズコ……本当に、あなたは……」 


 ユリナの吐息は、微かに震えていた。


 彼女は身を屈めると、力が入らない百舌子を大きな翼で包み込み、そのまま抱きかかえた。




 教会への帰り道。百舌子の視界には、ユリナの紫色の髪と、月光を反射する白い羽だけが映っていた。


「……ねえ、モズコ。あんな無茶は二度としないでください。ただでさえボロボロなのに、これ以上傷付くあなたを見たくない……」


 ユリナの声は、静かな怒りと、それ以上の悲鳴に似た響きを帯びていた。


 教会の扉を背中で押し開けると、そこには祈るように負傷者のそばにいたあの男がいた。


「あ……! あんたたち、無事だったのか!」


 男が弾かれたように立ち上がる。その声に反応して、奥からセラが血相を変えて飛んできた。


「二人とも! 怪我はないの!?」


「……すみません、セラさん。モズコが、少し掠り傷を……」


 ユリナは百舌子をゆっくりと降ろした。自力で立とうとした百舌子だったが、膝の力が抜けて、セラの腕の中へ倒れ込む。


「掠り傷って…… あなたたち、本当に魔獣を……?」


「はい、もう大丈夫だと思います。群れの長だった魔獣は殺しましたから。」




 ユリナの冷淡な答えに、場に一瞬の沈黙が流れた。


 セラはユリナのそのあまりに淡々とした様子に言葉を詰まらせたが、すぐに厳しい顔をして二人を促した。


「いいから、今は手当てが先よ。ユリナさんも、こっちに、あなたも羽が傷ついているでしょう?」


 セラの有無を言わせぬ語気に、ユリナは少しだけ気圧されたように目を伏せた。


 寝室へ運ばれた百舌子は、ベッドに横たわりながらセラの処置をじっと受けていた。


「……本当に、無茶ばかりして……」


「……ごめんなさい」


 百舌子は小さく謝りながら、視線だけで傍らに立つユリナを追った。


 ユリナの真っ白な羽の端は、魔獣の攻撃で無残に数枚欠け、薄く血が滲んでいる。それを見た瞬間、百舌子の胸を鋭い痛みが刺した。


(……守る力を、身につけないと……)


「さあ、ユリナさんも。その翼、根元の方まで見せてちょうだい」


 セラは百舌子の手当てを終えると、次はユリナを促した。


 ユリナが椅子に座り、傷ついた羽を広げるために服の襟元を少し緩める。セラが消毒液を浸した布を近づけたとき、彼女の動きが止まった。


「……っ!……ユリナさん、これは」


 ユリナの両の翼の付け根。  そこには、沈んだ赤黒い模様が浮かんでいた。


「これ……刻印、よね……?」


 セラは息を呑み、持っていた布を握りしめたまま、思わず半歩ほど後ずさった。


 セラはそれらが何を意味するのかを本能で感じ取り、親身に接していた瞳に、隠しきれない忌避感を滲ませた。


 ユリナは逃げも隠しもせず、静かに背中を預けたまま、淡々とした声で答える。


「……おそらくは私の翼になった魔獣が持っていた刻印です。無意識に『これ』を使ってから、翼の感覚が鋭くなった気がします」


 ユリナはわずかに羽を揺らした。その瞬間、脳裏を過ったのは、あの丘で魔獣に引き裂かれ、意識が遠のいていく時の絶望的な光景だった。


 あの時の死の気配が身体の芯から蘇ってくるような感覚に、ユリナの表情がわずかに歪んだ。


 セラは震える手で布を握り直し、目を伏せながら絞り出すように言った。


「魔族がすべて悪ではないと、わかってはいるのだけど……やっぱりね。ごめんなさい。……あなたが悪い人じゃないってもうちゃんとわかってるから……」


 セラの言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。


 瞳には正体の知れない「怪物」を見るような本能的な怯えが混ざり込みながらも、それでもユリナという個人を否定したくないという彼女の良心が、必死にそこに踏みとどまらせている。


「……いいえ、構いません」


 ユリナは寂しげに、けれどそれを受け入れるように短く答えた。


 セラはそれ以上何も言わず、ぎこちない手つきで傷口を包帯で巻いていく。




 


 その夜。手当てを終え、セラが引き上げた後の静かな寝室で、百舌子は勇気を振り絞った。


 いつもなら「重み」に身を任せ、眠るところだが、今日だけは違った。


 隣で、自分の傷を気遣うように、またセラの怯えをやり過ごすように静かに翼を休めているユリナを見つめ、百舌子は震える唇を開く。


「……ユリナ、さん。……私も……守る、手段が、欲しいです……」


 ユリナが、驚いたように翼を揺らした。


 何かを言いかけ、止めようとする言葉が彼女の喉まで出かかったが、百舌子はそれを遮るように、真っ直ぐにユリナの瞳を見た。


「……ユリナさんに、ばっかり……つらい思い、させて……。私だけ、なにも、しないのは……もう、いや、です」


 一文字ずつ、石を積み上げるような、たどたどしい言葉を吐き出す。


 ユリナは、包帯だらけでベッドに横たわる百舌子の姿をまじまじと見つめた。山犬に噛まれ、泥だらけになって、今もまだ熱に浮かされているような少女が、自分の傷を棚に上げてそんなことを言っている。


「……モズコ、あなたの方がずっと……」


 そう言いかけて、ユリナは口を閉ざした。


 百舌子の瞳には、恐怖を必死に抑え込んだ「わがまま」が宿っている。見ていることしかできない、そんな価値のない自分に戻りたくない。その瞳は、百舌子の心を映すかのように潤んでいた。


 ユリナは長い沈黙の後、困ったように、けれどどこか嬉しそうに眉を下げた。


「……わかりました。一緒に行きましょう。ですが、まずは寝て、その傷を少しでも癒してからですよ」


 窓から差し込む青い月光が、二人の手を静かに照らしていた。


 百舌子の胸にある恐怖は、まだ消えることはなかった。

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