第10話:籠の鳥
目を覚ますといつもの温もりがないことに気がついた。
「ユリナさん……?」
となりで眠っているはずのユリナの姿がない。隣のベッドにはまだ寝息を立てているリィンの姿があった。
(ユリナさん、どこ行ったの……)
別に態々、百舌子に行き先を教える必要はないとわかっている。彼女の行動は彼女のものだ。それでも、昨日のユリナのあの遠くを見つめるような目を見て、どこか遠くに行ってしまうような胸騒ぎがした。
廊下にでると微かに聞こえる音があった。
百舌子はその歌に誘われるように裏庭へと歩いていく。
ユリナが長椅子に腰をかけ口ずさんでいる。朝日に照らされ煌めく紫の髪がとても神秘的に見えた。
(綺麗な声……でも、なんだか……)
その声は寂しげで、百舌子の心をとても振るわせた。
近づく百舌子に気がついたのか、ユリナのその歌声は止まってしまった。ユリナは慌てたように目を擦っている。
「……モズコ?起こしてしまいましたか?」
百舌子はユリナの隣に腰を下ろすと、触れた翼から温もりが伝わってくる。
「ううん、大丈夫。綺麗な歌だね……」
さっきまでの胸騒ぎが嘘のように、ただ隣に座っただけで思っていたよりも安心できた。
「……故郷の歌を、思い出していました」
ユリナは寂しげな表情で、薄暗さの残る空を見上げている。
「ふぁあ……」
ユリナから伝わる柔らかな暖かさで、眠気が戻ってきて、思わずあくびが漏れた。
「ふふ、まだ眠いですか?でも、こんなところで寝たら風邪をひきますよ……」
背中を撫でるユリナの尻尾に誘われ、百舌子はユリナの肩に頭を預けた。
微睡に溶かされてしまいそうだった。このまま安心感に体を委ねてしまいたい。でも、これではダメだ。そんなことはわかっている。自分が何かを望むのなんて烏滸がましい。
無意識なのかユリナの尻尾が百舌子の腰を引き寄せる。薄い服越しに伝わる、彼女の柔らかな体温。
その暖かさを感じるたびに百舌子の中にドロっとした感情が溜まっていく。
この醜い、抱くべきではない感情を、百舌子はもう知っていた。
「……もう少しだけ、ユリナの歌を聴きたい」
そう口に出して、百舌子は息を飲んだ。
驚きの表情を浮かべていたユリナは、少し考えた後また歌い始めた。
ゆったりとした柔らかい旋律が、百舌子のざわついていた心に染み込んでいく。でも、その歌声はどこか遠くへ向いている、そんなふうに感じられた。
「ねぇモズコ、この後付き合ってもらえますか?」
見下ろすユリナの瞳はどこまでも優しく、けれどその奥には揺るぎない決意のようなものが見えた。
二人が足を運んだのは、騎士団長セルゲイの天幕だった。
「お待ちしておりました」
中に入ると、セルゲイは二人の騎士を手振りだけで外に控えさせた。重苦しい沈黙が狭い空間を支配する。百舌子は緊張で息が詰まりそうになる。先に口を開いたのはユリナだった。
「ありがとうございます。それで……セルゲイ殿。早速ですが、あなたは私の顔を見たことがあるのですね?」
セルゲイは眉間に皺を寄せ、記憶の断片を繋ぎ合わせるように目を細めた。
「ええ、確証はありませんでしたが、その面差しと紫の髪に見覚えがあります。たしか、外交官の護衛でセレティス王国に伺った時に、セレティス王の近くに立っておられた姉妹の顔と美しい紫髪が脳裏に焼きついております。しかし彼女の姿とあなたの姿はあまりにも……」
セルゲイは怪訝そうな顔で少し言い淀んだ。
百舌子はユリナに不安な視線を向ける。
ユリナは百舌子を見て、気持ちを察したよう微笑んだ。そして静かに、けれどはっきりと、自らの過去を肯定した。
「ええ私の名はユリーフィア・セレティシア。この姿になったのも彼女、モズコの刻印の力――あのリィンという子と同じ力によるものです。彼女に救われてからは……ユリナと名乗っています」
セルゲイが確認するように目を向けると、百舌子は静かに頷いた。
「……そうなると、やはりモズコさんの力を、信じる他はないようですね。……しかしなぜ、あなたがこのような場所に」
不意にユリナの尻尾が百舌子の腕にぎゅっと絡んだ。暖かさと共に微かな震えが伝わってきた。
「あなたも知っているかもしれませんが、セレティスが何者かによって襲撃を受けました。私は逃亡の末、ここに流れつきました。それで、私が聞きたいことは、今のセレティスの情勢についてです。知っている範囲で良いので教えてくださりますか……」
セルゲイは顔を伏せ、少しの間考え込んだ。
「現在貴国で起きている不穏な情勢については、こちらも少々把握しています。内乱が一人の騎士の活躍によって収束したと聞いております。それでも被害は大きく、残された幼い王子を国王に据えるしかなかったと……」
「やはりユリウスは生きているのですね!?」
ユリナは興奮したように立ち上がり、セルゲイに詰め寄った。絡んでいた尻尾が解け、百舌子の腕にひんやりとした寂しさが残る。
「……ですがあなたの父上、そして兄君と姉君はおそらく……」
セルゲイは言葉に詰まり、一呼吸おき息をついた。その沈黙を先に破ったのはユリナだった。
「ええ、弟だけ残されたと噂を聞いた時から覚悟していました。目の前で手にかけられた父を見ていることしか、逃げることしかできなかった……」
ユリナは唇を噛みしめ、力無く座り込んだ。百舌子はただ、震える背中に手を添えることしかできなかった。
セルゲイから聞くところによると、反乱は一人の騎士の活躍により、鎮まったという。その騎士は英雄として担ぎ上げられ、現在は元帥として幼き王の補助をしているらしい。騎士の名前はレナード。
その名前を聞いたユリナが驚きの声を上げた。
「レナード様……そうですか、彼が……。それならすこし安心できるかもしれません。彼が弟の側にいてくれるなら……」
ユリナの瞳に、ほんの少しだけ安堵の光が宿る。セルゲイは深く頷きながらも、どこか遠くを見るような目を向けた。
「彼とは合同演習で幾度か会ったことがありますが、騎士としての実力だけではなく、上に立つものとしても優秀だった。そう記憶しています。今や国を救った大英雄として、その名は我が国にまで轟いている。彼が元帥として実権を握り、王家を守っているならば、セレティスの未来にも一縷の望みがあるのではないでしょうか」
「ええ、そうだといいのですが……」
何か思うところがあるのか、ユリナの言葉の歯切れが悪くなった。
「なにか気になることでも?……確か、そのレナード卿は、貴女の婚約者であられた方でしたよね」
セルゲイの放ったその事柄に、百舌子は胸を刺すような痛みを感じた。だが、ユリナは王女様だ、そういうことがあってもおかしくないだろう。
「……ええ、私が十八歳になれば、正式な婚姻を結ぶ予定でした。でも、今の立場を手にした彼にとって私は必要ないのかもしれませんね……」
ユリナは寂しそうな顔で自嘲気味に微笑んだ。
百舌子の頭の中で婚約者という言葉が嫌な熱をもって居座っている。
「……弟には会いたくないの?」
百舌子は頭のもやを振り払うように、恐る恐る尋ねた。ユリナは少し考えた後、気持ちを押し殺すように答えた。
「もちろん弟には会いたい。でも……、今の私が戻っても余計に混乱させるだけでしょうから……」
ユリナの声が震え、強がっているのが百舌子には手に取るようにわかってしまう。
そんな彼女に対して何もできない自分に嫌気がさしてくる。「あなたのおかげで」ユリナはそう言っていた。けれど、きっと今の姿を見せるのは怖いはずだ。そう思うと、簡単に自分の力を良かったとは思えなかった。
「正体を明かしてまで、私にその話を聞いた理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
セルゲイは少し間を置いてからユリナに尋ねた。
「そうですね……。いずれ私が生きているということはセレティスにも伝わるでしょう。そうなれば、この国とセレティスの外交上の問題になりかねない。その前に私の立場をはっきりさせておきたい。私は今、教会に泊まるただの旅人。そう思っていただきたいのです」
澱みのない言葉から覚悟が伝わってくる。難しい問題は百舌子にはわからない。それが、ユリナと百舌子の住む世界が違う。そう突きつけられたようで、近いはずの背中が遠くにあるように見えた。
「私はただの騎士、そのようなことを独断で決められる立場ではないのですが……。そうですね、我々も今回はただ魔竜の調査に来ただけ、ただの旅人の正体なんて知る由もない。報告義務もない。ということでどうでしょうか」
ユリナは黙ったまま深く頷いた。
この会話がどれほどの意味を持つのかわからない。ただ、自分がこのまま取り残されてしまう気がして、不意にユリナの裾を指が白くなるほど握りしめた。
二人は無言で帰路に着く。教会に近づくにつれて街の喧騒は遠のき、人通りが少なくなっていく。
教会の門の前で、ふとユリナが立ち止まった。
「……ユリナさん?」
俯くユリナの横顔がローブの影になって読み取れない。
「いいえ、なんでもありません。帰りましょうモズコ」
ユリナは誤魔化すように歩き始める。百舌子はその震える肩を掴んで引き留めた。
「なんでもないようには思えないよ……」
掴んだ肩は驚くほど華奢で、震えていた。
先ほどの凛として見せていた姿とは裏腹に、振り返ったユリナは視線を逸らし口を固く結んでいる。
「ユリナさん、その……」
百舌子はユリナのその悲哀に満ちた顔を見て、これ以上踏み込む勇気が出せなかった。
「ずるいですモズコ……」
その通りだった。これは優しさではない。何かするべきという衝動がそうさせただけなのだ。
「あなたの前では泣かないようにって……、思ってたのに……う、うう……っ」
ユリナは崩れるように私の肩に顔を埋めた。溢れ出した涙が、百舌子の肩を濡らす。
愛してくれた家族の死を知った時、その喪失感を本当の意味で理解できない。
こんな時どんな声をかけたら良いのかわからない。でも、私がいることで、少しでも慰めになるのであれば、私は嬉しいと思ってしまう。これは自己満足だ、私は彼女のためにこうしているわけではない。自分の存在価値を示してくれる彼女に、ただ依存しているだけなのかもしれない。
百舌子は子供のように泣くユリナの腰に手を回すことしかできなかった。
どれくらいそうしていただろう。
街から聞こえる喧騒も、小鳥の囀り声も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられた。百舌子の意識にあるのは、縋るように背中を包む翼の温もりと、布越しに伝わる五月蝿いほどの心音、そして絶え間なく溢れる涙が肌をじわじわと侵食していく感覚だけ。
ユリナの嗚咽が少しずつ静まり、肩の震えが落ち着いていく。やがて、深く息を吸う音が聞こえた。
「……恥ずかしいところを見せてしまいましたね」
ユリナは顔を上げ、濡れた目元を翼の羽毛でそっと拭った。恥ずかしさを隠すように、少し顔を背けている。
「そんなことないよ……」
それが百舌子に言える精一杯の言葉だった。
ユリナがようやく百舌子の顔を正面から見た。目は赤く少し腫れている。それでも、その瞳の奥には先ほどまでの揺らぎとは違う、静かに固まったものがあった。
「私、やっぱり帰りたい……弟に無事を伝えたい」
その言葉に百舌子は息を止めた。二人の間を通り抜けた風が、濡れた肩を冷やし、胸を鋭く刺すようだった。
驚くことではないはずだ。家族の元に帰りたいと思うのは当然だろう。それでも、ここにいればいいなんて思ってしまう自分が嫌になる。
「急ぐわけではありません。ゆっくり旅をしながら……。本当はすぐにでも帰るべきなんでしょうけれど、まだ少し怖いんです」
ユリナは自分の翼を抱え込み、肩を窄めた。
「それでモズコ……、着いてきて、くれませんか……?」
「……えっ?」
百舌子は自分がついていく理由がないと思っていた。ここでお別れ、そんな覚悟すらしていた。なのに……。
「我儘かもしれないけど、あなたにそばにいて欲しいと思ってしまったの」
ユリナの言葉が百舌子の虚勢を崩していく。
私にできることなんて何もない。それなのに、彼女に求められることで、百舌子の中の醜い感情が満たされてしまう。
「わかった。一緒に……行く」
そう言い終わるや否や、百舌子はユリナに抱きしめられ翼に包み込まれた。冷えた体が密着した胸の向こう伝わる熱でじわじわ温められていく。ユリナの心音が私の不安を、醜さを、傲慢さを、すべて融かしていく。
「ありがとう、モズコ……。本当に、ありがとう……」
自分のことは信じられないけれど、彼女のことなら信じられる。そう思うことで自分の感情を誤魔化すことにした。
二人はそれ以上言葉を交わすことなく、ただお互いの体温を分け合うようにして教会へと戻った。
「そう……寂しくなるわね」
事情を聞いたセラは、一度目を伏せた後微笑みながら呟いた。
「出発までの間ゆっくりするといいわ。準備も必要だろうし……。あなたはどうするの?」
セラは黙々と食事をしていたリィンの方を向き直した。
「ん、私も行く……。モズコが責任を取ってれると言った。」
「……責任?」
刺すようなユリナの視線が百舌子に向いた。
「こんな姿にしちゃった子を、置いていけないよ……」
百舌子は至って真剣な顔でそう言った。
置いて行けるわけがない。いままでずっと孤独だった彼女を一人にしたくなかった。
ユリナはしばらくムッとした表情で百舌子を見つめた後、小さく息をついた。
「……そうですね。モズコらしい」
その声には苦さと、どこか諦めに似たものが混じっていた。
「……ごめんね、私たちの勝手で……」
そう謝ると、リィンは小さく首を振った。
「三人だけで行くの?護衛は雇わなくて大丈夫なの?」
セラは心配そうな表情をしていた。
「私が守ります」「私が守る」
ユリナとリィンの声が重なった。
貼り付けたような笑顔のユリナとぴくりとも動かない無表情のリィンの視線が目の前でぶつかっている。
「……ふふっ。心配なのは変わらないけど、仲がいいみたいでよかったわ」
セラが笑うと、ユリナは咳払いをし、リィンはそっぽを向いた。
ユリナに促され、百舌子はベッドに横になった。そして、ユリナの翼に包まれたまま、百舌子は目を閉じた。
ユリナの婚約者が生きている。ユリナには帰れる場所がある。それは喜ばしいはずのことなのに、胸の奥が締め付けられている。
でも……。
ユリナから必要とされること。リィンに対する責任を取ること。
求めてしまう醜さと求められる心地よさが心の中でせめぎ合う。得体の知れない毒に浮かされている。気持ちが良くて、気持ちが悪い。
魔素の重みとも違う、その正体が何なのか百舌子にはわからなかった。




