71.私、タダでもらえるものって大好きなんです
「悔しくありませんか? 燕星さん」
蘭華がだん、と足を踏み鳴らして立ち上がった。
ぐっと拳を握り、燕星を見下ろす。
「だって燕星さん。ここで私が燕星さんを突き出したとして――結局それって兄さんの手のひらの上ですよ」
蘭華が拗ねたように唇を尖らせる。
その子どもじみた表情に、燕星の唇から言葉にならない吐息が漏れた。
「私が燕星さんを突き出したら、私がお手柄です。燕星さんが良心の呵責で自首したら、燕星さんがお手柄です。そうすると誰が得するか」
蘭華がくるくると空中で指を回す。
燕星が答えないうちに、びしりとその指を燕星に突きつけた。
「私たちを送り込んだ兄さんですよ」
突きつけられた人差し指を、瞬きしながら見つめる燕星。
蘭華は苦虫を嚙み潰したような顔でつらつらと、恨み言のように語る。
「私か燕星さんどちらかがお手柄でも、きっとこれから帝の命を救ったとして、重用されるようになるでしょう。兄さんはそれが狙いなんです。私たちを傀儡にして、裏から手を引いて、ゆくゆくは政治の実権を握るつもりなんですよ」
「…………」
「しかもこれ最悪なのは、もしもののはずみで燕星さんが私のことを殺してたとしても、逆に私が燕星さんを殺してたとしても、兄さんは損しないところなんですけど」
燕星は蘭華の言葉を否定しようとして――失敗した。
彼女の兄が、そういうことを「やりそう」な人間だということを、燕星は身をもって理解していたからだ。
実の妹であっても――自分が友人と呼んだ相手であっても、容赦なく捨て駒にする。そういう人間――いや、人でなしだ。
「あの人にいいように使われて、腹立たしくありませんか」
言われて、燕星はまた目を瞬いた。
腹立たしくないかと言われれば、――どうだろうか。
自分の事情をすべて知っていて利用しようとしていたならば、確かに腹立たしい、のか?
様々な感情で埋もれてしまって、よく分からなかった。
だが。
「全部分かったみたいな顔してる兄さんに、一泡吹かせてやりませんか」
目の前の蘭華を見ていると――この子を危ない目に遭わせたことは、やはり腹立たしいことのように思えてくる。
刀を抜いた自分が言えた義理ではないのは、重々承知だが。
燕星が迷っているのを見て、蘭華が再び、彼を見つめる。
「だから、たまたま私が小石を蹴っ飛ばして、たまたま一人でこの場所に来て、たまたま行灯を持っていて――たまたま火を消したら、暗殺者に狙撃されて」
「たまたま」を強調しながら話す蘭華。その顔を、燕星はただただ、じっと見つめ返していた。
「そこにたまたま居合わせた燕星さんが、助けてくれた。そしてたまたま起きてた皆さんが、実行犯を捕えに行ってくれた。それでいいじゃないですか。これにて暗殺者退治は一件落着、ということで」
「そんな、馬鹿な話が、」
「だって私たち全員、偽物なんですよ?」
蘭華が悪戯めかして笑う。
「帝も偽物、妃も偽物、護衛も偽物。そっちの方がよっぽど馬鹿な話じゃないですか。だったら――暗殺者だって、偽物だっていいと思うんです」
蘭華の言葉に、燕星が俯いた。
実行犯が捕まれば、そして暗殺を企てた首謀者が全員、捕まれば。妹が助かるかもしれない。父や兄の濡れ衣も晴らせるかもしれない。
だが、全部――「かもしれない」だ。
燕星は、蘭華に刀を向けた。結果として殺せなかったが――殺さなければと、思ったのも事実だ。
そんな自分が、許されて良いはずがない。
「ねぇ、燕星さん。さっき聞きましたよね? 燕星さんの命と私の命、どっちが値打ちものか。腕とはわけが違います」
蘭華が再び燕星の前にしゃがみこんだ。
しっかりと視線を合わせて、燕星の顔を――悔しさと罪の意識と、安堵と。様々なものが混ざり合った複雑な表情を、じっと見据える。
「そんなの――私にとっては、私の命が一番。燕星さんにとっては、燕星さんの命が一番。そうに決まってるじゃないですか」
けろりと、蘭華は当たり前のことのように言う。
「誰に謝るものでもないですよ」
「……だが、俺は」
「でももし、燕星さんが後ろめたいなら――」
まだ何かを言い募ろうとする燕星を遮って、蘭華が続ける。
「その命、私に賭けませんか」
蘭華はまた、こともなげに言う。
「どうせ捨てた命なら、私にください。私、タダでもらえるものって大好きなんです」
「何を言って、」
「私のちょっとした意趣返しに、付き合ってもらえませんか」
何の、と聞こうとして、燕星は言葉を飲み込む。
ここまでの流れで――誰に対する意趣返しなのかは分かっていたからだ。
「燕星さんも私と一緒で……あの人のこと、嫌いでしょう?」
「……ああ」
次の問いかけは、すとんと燕星の胸に落ちた。
これなら難しいことを考えずに、頷ける。
「そこはお前と、いつも同じ意見だ」
「あは。交渉成立ですね! 私は悪徳な兄さんと違ってちゃーんと、仲間には分け前を用意しますから。安心してください」
蘭華がにーっと笑った。
そして燕星に向かって手を差し伸べる。
「さぁ、兄さんの鼻を明かしてやりましょう」
その手を、燕星はぎゅっと握った。
それを支えにして、立ち上がる。
「私のこと助けて、得したって。そう思わせてあげますから」
悪い笑みを浮かべる蘭華を見下ろす。自分よりも、ずいぶんと小さく、年下の少女。
だが燕星は――確かに彼女の支えで、そこに立っていた。
燕星の視線に気づいた蘭華が、彼を見上げる。
そしてわざとらしく茶化すように、えへんと胸を張って言う。
「余についてまいれ、燕星」
「……お供します、主上」




