70.地獄じゃお金、六文までしか使えないんですよ
「私が長く滞在した御殿には、いつも小石が置かれてました。記憶を探ってみたら――いつも四つ。私、数字を覚えるのって得意なんです。あれがきっと、襲撃の機会を狙撃手に伝えるための合図だったんですね」
「蘭華、」
「そして――夜。燕星さんはいつも、ろうそくや行灯を私には持たせませんでした。私が帝だからかとも思いましたけど、違うんですね。遠くからでも見えるこれを、実行の合図にしていた。暗殺って言ったら、夜闇に紛れるのが定番ですもんね」
「蘭華!」
蘭華が淡々と語る声を、燕星が遮った。
そう。蘭華は分かっていた。
石を増やして普段と様子を変えて――行灯の明かりを搔き消して。
そのとききっと、暗殺者は動くはず。
分かった上で、蘭華はあえて今ここで、行灯の火を消したのだ。
蘭華は少々金に汚いところがあるだけの、ただの少女である。
どこから放たれるかも分からない矢を避けるすべなどない。
それを分かった上で、火を消した。
もし自分の予想が当たっていたら――死ぬ。
――燕星が、動かなければ。
「お前、命を何だと、」
「助けてくれるって分かってましたから」
蘭華は落ち着いた声で言い切った。
燕星は自分を殺させない。
その確信があったからこそ、火を消した。
「矢を放った相手は、志勇さんと紫雲さんに追ってもらうよう、冬の宮を通じてあらかじめ頼んでおきました。志勇さんはああ見えて有能ですし、紫雲さんは俊足ですし。失せ物探しが得意な晴暁さんもついてます。多分逃げられませんよ」
「俺は、……」
燕星が唇を噛み締める。蘭華の顔の横で、ぐっと彼の拳が握りしめられた。
その顔は――泣いている、ように見えた。
「父上、兄上、明明っ……済まない、俺は、すべて、中途半端で」
「燕星さん……」
「結局何も、成し遂げられなかった……ッ!!」
燕星が刀の柄を手放した。ただ握った拳で、床を力なく叩く。
その下からするりと抜け出した蘭華は素早く刀を拾って、池に向かって放り投げた。
ぼちゃん、と池に刀が落ちる音がする。
音を聞いて、そして。
蘭華はとんでもなく大きなため息とともに、その場にへたり込んだ。
「っはあ~~~~!!!! もう、ほんとビビった~~!!!!」
「は?」
「死ぬかと思いました!! うわ、やば手震えてます、見てくださいこれ」
「何??」
先ほどまでの冷静な様子はどこへやら、ぶるぶる震える手を見せてくる蘭華。
その変わりように、燕星の瞳に浮かんでいた涙が引っ込んだ。
「お前、死ぬ気でやったんじゃ」
「いやいやいや、死ぬ気とかないですよ! だって命あっての物種じゃないですか!」
「はぁ??」
「知ってますか燕星さん、地獄じゃお金、六文までしか使えないんですよ!」
たった六文ですよ、六文!! と繰り返す蘭華。
あまりにいつも通りのその調子に、燕星はぽかんとすることしかできない。
地獄に行くことは確定なのか。
「なのでもう、心臓ばっくばくの膝がったがたでした!!」
「待て」
たははと笑って見せる蘭華に、燕星は混乱した頭を抱えながら制止を掛ける。
そして一つ一つ順番に整理しようと、まずもってのところを口にした。
「俺はお前に刀を抜いて」
「刀? はて、何のことでしょう」
「はぁ!?」
「燕星さんの刀、とんと見かけてませんね? どこかに落とされたんじゃないですか? 池の中とか」
蘭華がわざとらしく首を傾げて見せる。
対する燕星は蘭華が何を言っているのか、まるで理解できない。
燕星の隣まで歩いてきて、蘭華は彼の目の前にしゃがみこんだ。
「燕星さん。小石の件に気づいたのは、冬の宮さんと話してるときだったんですけど。実は行灯の件に気づいたのは……もう少し前で。兄さんの贈り物があったからなんです」
「……何?」
「あの小瓶、紫雲さんは高級な髪油だって言ってましたけど、値段はその十分の一以下。でもあの美容とお洒落に並々ならぬ意欲を持った紫雲さんが見間違えるとは考えづらい」
「何の話だ」
「だから思ったんです。中身だけ別の油になってるんじゃないかって。私なら値段が分かりますから、すぐに気づくと思ったんでしょうね」
蘭華が隠れ家でこっそりと確かめたときのことを思い出す。
紫雲から指摘されて、中身を他の器に出してみたのだ。
そこに入っていたのは油だった。何の変哲もない、ただの油。
「それで、中の油の値段を確認して。それと同じ値打ちのものを探したんです」
蘭華が、視線を行灯に向ける。
矢に貫かれたそれは床に打ち捨てられて、中に入っていた皿が床に転がっていた。
その視線を追って、燕星も気づく。
行灯に仕込む皿に入っているのは――油だ。
「行灯に使う油と、同じ値段の油。兄さんが意味もなくそんなことするはずありませんから。そこにきて、あのひっどい歌。惜しからざりし命、ですって。ここまでくれば、行灯が私の命を握る鍵だってことくらい、私みたいな『愚妹』でも分かるわけですよ」
蘭華がまっすぐに、燕星に向き直った。
その顔は、ひどく口惜しそうに、くしゃりと歪んでいた。
「燕星さん。貴方が暗殺者だってことだけじゃなくて――合図のことまで。全部全部、あの人にはお見通しだったわけです」
「……は、」




