60.「殴りましょう」「殴ろう」
春の宮の命によって、妃たちを広間に集めた。
妃の数をかなり減らしたつもりだったが、こうして見るとまだまだ多くの妃がいるのだと実感した。春の宮だけでも二十人ほどの妃がいた。
紫雲に身代わりを頼んだ家の関係者がほとんどで、紫雲自身はそれほど面識があるわけではないそうだ。
ぐるり、と妃たちの顔を見回す。
そして――そこで、気づいた。気づいてしまった。
一人、とんでもないのがいる。
その妃の値打ちは――帝ほどではないものの、周囲の妃たちとは桁が一つも二つも、違っていた。
この春の宮の主は紫雲である。紫雲は本物の貴族子女ではないものの、その美しさは「億」級だ。そしてもちろんそれは――春の宮の中では最も価値が高い、はずだった。
だが、一人混ざっていた妃は――紫雲と並ぶ、いや紫雲よりも高い値打ち。
十億の女だった。
確かに美しい。
所作一つ一つが洗練されていて、周囲の妃とは格が違うというのが一目で分かる。
しかしそれだけでは、そんな値打ちは弾き出せない。
その理由を探るべくその顔を観察する。まるで光り輝くようなその姿。吊り眉垂れ目。
――ん?
「……あ」
蘭華の口がぱかんと開く。
そしてそのまま妃の元に駆け寄ると、その腕を掴んだ。
「あねうえ」
「え?」
「姉上、こんなところで、何を?」
蘭華の言葉に、紫雲があっと息を呑む。
そう。
その妃は――藍皇帝の姉、藍美鈴その人であった。
○ ○ ○
人払いをして、蘭華は美鈴に向き直る。
「どうして、貴女がここに」
もちろん美鈴には蘭華が帝本人でないことは分かっているだろうが、彼女は皆の前ではそれを口にしなかった。
帝の姉などというやんごとない身分の方が、一介の妃に紛れて過ごしている。しかも他の妃の衣服や日用品を盗んでまで、こっそりと。
それだけでも相当の事情があると推察できた。向こうも一方ならぬ御方である。蘭華側の事情を察してくれたのだろう。
曖昧に微笑んで黙ったままの美鈴に痺れを切らしたように、紫雲が口を挟んだ。
「待ってよ。美鈴様はお体の具合が悪くて臥せっていらっしゃるんじゃ……」
「表向きはそうなんですけど……実際は、駆け落ちされてました、よね?」
「は!?」
紫雲が驚いた様子で蘭華を振り向く。
そしてそのまま美鈴に視線を戻した。美鈴はやはり微笑むばかりで、それを否定しない。
美鈴が男と駆け落ちしたことについては、緘口令が敷かれている。宮中の官吏でもごく一部しか知らない事実だ。
何故蘭華がそれを知っているかと言えば、その駆け落ちの手引きをした咎で養父が投獄されているからに他ならない。
「駆け落ち、というのも、嘘なのよ」
美鈴がやっと、口を開いた。
藍皇帝と似た響きを持つ、静かな声だ。
「弟と同じで、わたくしにも命の危険があったから。表向きの理由の下にもう一つ、それらしい嘘を仕込んだの」
「え」
今度は蘭華が美鈴の顔を見た。
駆け落ちが、嘘?
それなら、何故――蘭華の、父は。
「じゃあ、父は」
「白様は知らないわ。本当に駆け落ちだと思って、わたくしが身を隠すのを手引きしてくださったの」
美鈴は申し訳なさそうに眉を下げる。
対する蘭華は目を見開いた後で、長い長いため息をついてがっくりと項垂れた。
彼女の養父はまさに「本当の駆け落ちだと思って手を貸しそう」なお人よしだったからだ。
「隠れ家に潜んでいたのだけれど、そこも少し危なくなって。困っていたところに、ここなら年頃の女子がたくさんいるから紛れられるかもと手引きしてくれたの」
「……誰が?」
「貴女のお兄様です」
「………………」
蘭華が黙った。がらがらと、足元から世界が瓦解していくような感覚。膝から崩れ落ちそうになるのを何とか踏ん張って姿勢を保ち――そして、燕星の顔を見る。
燕星も蘭華と同じく、表情がすべてごっそり抜け落ちたかのような顔をしていた。
二人の視線が交わる。どちらともなく口を開いた。
「殴りましょう」
「殴ろう」
まずそう言葉にした後で、蘭華はすうと息を吸った。そして恥も外聞も捨てて、叫ぶ。
「何でそんな大事なこと!! 言わないんですか!? あのクソ兄!! こっちが一生懸命!! 影武者やってるのに!!」
「顔を殴ろう」
「ってことは何ですか、養父さんをいつでも無罪放免にできる手札があるのに!! 私を送り込んで!! 暗殺させようとしてるんですかあの人!! てか投獄も本当か怪しくなってきましたけど!? 全部自分の手のひらの上、みたいな感じで手柄だけかっさらおうとしてやがるんですか!?」
「歯を折ろう」
「折れるもの全部折りましょう!!」
蘭華がぎちぎちと拳を握りしめた。
あの兄の手引きというのであれば、仮に本当に養父が投獄されていたとて、すでに助け出されている可能性が高い。
何故なら養父は目を離すと何をしでかすか分からないのだ。手元に置いて見張っておきたいと思うのは想像がつく。
それを蘭華が気が付かないようにとどこかに匿っているのだ。
ということは、そもそも蘭華が命を張る理由はない訳で。
よし、殴ろう。一回顔面に一発入れよう。前歯ぐらい折っておかないと気が済まない。
蘭華が殴ったところで歯が折れるか分からないがとりあえず殴る。残りは全部燕星に折ってもらう。その覚悟を決めた顔をしている。
燕星の目も本気だった。こちらは己の拳で全て折るという強い意志を持っている。
恩人の話をしたら大暴れし始めた蘭華たちを前にして、美鈴は戸惑った様子で二人の顔を見比べていたが、やがて気落ちした様子で俯いた。
「ごめんなさい。わたくしたちのために、影武者などという危険な目に」
「いえ、貴女たちのためじゃなくてお金のためなので」
「え?」
美鈴の言葉に首を振る蘭華。
今回に関して謝るべきなのは美鈴ではなく兄であると、蘭華は確信していた。
「これは相当色付けてもらわないと許せません、ありとあらゆるものをすべて折った上で慰謝料たんまりせしめましょうね、燕星さん!!」
「それだとアンタたちが慰謝料払う側なんじゃないの」
紫雲が呆れた様子で言った。
おろおろとしていた美鈴が、慌てた様子で言う。
「と、とにかく、お父上の疑惑を晴らしましょう! わたくしが出ていけば釈放されるはずです。そうすればもう影武者なんて」
「いいえ」
蘭華が美鈴の言葉を遮った。
すっくと立ち上がって、美鈴の元へと歩み寄る。そしてその手をそっと握る。
「今、まだ兄さんは私たちが美鈴様の存在に気づいていないと思っているはずです。これを使わない手はない」
「は、はぁ」
「兄さんに吠え面掻かせる方法を考えますから、それまで美鈴様はどうか、このままで」
「蘭華ちゃん、悪い顔……」
ニコリと笑って言う蘭華だが――晴暁の言うとおり、目の奥がまったく笑っていなかった。
一旦殴ることは決定したわけだが――それで済ませてやるほど、蘭華はやさしくない。
この言いようもないほどの憤怒と憎悪をあの兄にも味わわせてやるのだと、蘭華は決意を新たにする。
どんどんと元の目的を見失いつつあるのだが……それを指摘する者は、いなかった。




