57.何故なら、帝は帳簿の確認などしないはずだから
「あれ」
帳簿を繰っていた蘭華が声を上げた。
後宮の緊縮財政を叫んでからというもの、誰に頼まれるでもなく――というか担当女官からは煙たがられながらも――毎月の帳簿を確認することにしている。
どちらかというと武官寄りの燕星は毎月付き合わされてげっそりしていた。それでも回数を重ねるごとに素早くなっていく確認作業に、蘭華は感心していた。さすが官吏学校の卒業生は優秀である。
燕星が眼精疲労をほぐすように眉間を揉みながら、言う。
「何だ。また掛け売りの間違いか」
「いえ、先週購入依頼が上がってた肌着がもう一件上がってきてて。書き写し間違いじゃないかと」
言っていて自分は何の仕事でここにいるのか分からなくなってきた燕星が、蘭華の顔を凝視する。
幽霊でも見るような顔をされて、蘭華はぱちぱちと目を瞬いた。
「…………購入品をすべて覚えているのか」
「やだな、全部じゃないですよ。目についただけ」
「お前のせいで経理担当の女官に俺がやたらと細かい人間だと思われている」
「燕星さんしっかり者ですからねぇ」
蘭華がからからと笑った。完全に他人事であった。
だいたい先月に掛け売りの間違いに気が付いたのは燕星である。彼も知らず知らずのうちに蘭華側にずっぽり足を踏み入れていた。
とはいえ毎回燕星に女官へのを丸投げしているのも事実だ。何故なら、帝は帳簿の確認などしないはずだからである。
ずっと帳簿と睨めっこして凝り固まった首を回して、蘭華が立ち上がる。
気分転換だ。散歩代わりに少し歩くのもいいだろう。
「もしかすると妃の方で誰かが間違えたのかもしれません。一回そっちに聞きに行きましょうか」
蘭華の言葉に、燕星はいつもの仏頂面を幾分明るくして、帳簿を閉じた。
○ ○ ○
肌着を多く発注していたのは春の宮の妃だった。
渡りなれた廊下を通って、春の宮に向かう。庭の木々を眺めると、紅葉した葉が徐々に落ち始めていた。
女人しかいない後宮内で燕星を伴って歩いていると嫌でも目立つ。通りすがりに、妃が蘭華に声をかけた。
「あ、帝っち。おつ~」
「おつ~」
後宮生活も半年を過ぎると、だいぶ妃たちと打ち解けてきた。
というか打ち解けすぎているくらいであった。
皆口にはしないが、薄々蘭華が偽物であることには気づいているのだ。かしこまった態度は長続きしない。
何より蘭華自身が情報収集のために積極的に妃たちと話してきた結果である。
恋愛相談でよく話をした妃の隣に備品管理を担当している妃の姿を見つけて、ついでに尋ねてみることにした。
「あのさぁ、ここから肌着の購入依頼が上がってるんだけど。先週も買ってなかった?」
「あーこれね」
帳簿を見せると、先ほどまで蘭華と話していた妃がそれをのぞき込む。
隣の備品管理担当の妃は、さっと顔を青くしていた。
「買ったばっかの肌着と帯、どっか行っちゃったんだって」
「え、無くしたの?」
「も、申し訳ございません、帝!」
改まった様子で頭を下げる妃に、蘭華はいいよいいよと手で制する。
血税である以上、もちろん無駄遣いは許されない。だがこの謝り方からして、何か事情があるようだ。まずは事情を聞きたいと、蘭華が視線で促す。処すのは話を聞いたあとでもできるからね。
妃は申し訳なさそうに眉を下げたまま、小さな声で話し始めた。
「決して備品を粗末に扱っていたわけではないのです。使う前に一度水通しをしようと洗濯に出したのですが、そのあと戻ってこず……」
「あー、他の宮のと取り違えられちゃったのかな」
「はい……」
なるほど、それはよくある話だ。
ただでさえでも制服の導入で、同じ服ばかりになっている。名前を書くように指示はしているが、洗濯を担当している女官が取り違えるのを完全に防ぐことは困難だ。
名前を書き忘れたらもう誰のものやら判別不能だし――これは妃や女官を責めても仕方がない。今後仕組み側で防ぐ方法を検討していくべきだろう。
「ですが、それだけではないのです」
再発防止策を検討し始めた蘭華の思考を、妃の声が引き戻した。
彼女は少し周囲を探るように視線を泳がせると、一段声を潜めて言う。
「最近、この御殿にあるものがどこかに行ってしまうことが多くあって。手鏡であったり、櫛であったり、一つ一つは大したものではないのですが……こうも続くと何やら気味が悪くて」
「それ、春の宮には報告してる?」
「いえ。宮様に報告するほどのものでは……」
そう言って俯く妃。まぁ櫛がなくなったくらいで春の宮に報告しないのは当然といえば当然だが――
蘭華の脳裏に「アンタ馬鹿?」と形のよい眉を片方跳ね上げてこちらを睨む紫雲の姿が思い浮かぶ。
言いにくいだろうなあ、あの人には。




