56.損にも得にもならないなら別に
その時。
「ほほ、何じゃ。準備が良いではないか」
聞きなれない声がして、はっと振り返ると、一人の妃が部屋に入ってくるところだった。
ばさりと脱ぎ捨てられた唐衣の色は、紫。
この後宮でもっとも身分が高い紫の制服を身に着けているのは――紫雲を除いて、ただ一人。
四季の宮の最後の一人、冬の宮だった。
蘭華の横を駆け抜けていく冬の宮。その姿を思わず目で追いかける。
背丈は蘭華と同じくらいで、かなり小柄だ。ちらりと見えた横顔にも幼さが残っており、年も蘭華とそう変わらないことが窺える。だがその髪は――まるで絹糸のように、まばゆいばかりの銀色だ。
冬の宮がさっと着物の袖をたすき掛けにして、妊婦の前に屈みこんだ。
腕は頼りないくらいに細く、はかなげな薄い体躯もまさに少女のそれなのに……表情はひどく落ち着いていて、大人びた雰囲気を纏っている。
「わしに任せよ。やや子は何度か取り上げておる」
ふっと笑って言った冬の宮は、あっという間にその場の空気を掌握した。
素早く妃たちに指示をして、妊婦に中腰で屈むような姿勢を取らせる。
妊婦の足元にしゃがみこんでいたところから立ち上がると、妊婦に向かって声を掛けた。
「もういきんでよいぞ。わしに合わせよ」
妊婦が汗で髪を振り乱しながら、呻くような声を上げる。その光景は壮絶なもので、思わず蘭華は気圧されていた。
のだが。
「う、も、無理」
「え?」
ばたーん!
派手な音がしたので振り向くと、晴暁が床に転がっている。
「ちょっと!? 何倒れてるんですか!?」
「に、人間が、いっぱい、生々し、うぅ……」
「お化けは平気なのに!?!?」
確かに今この部屋の人口密度はかなりすごいことになっているし、蘭華も気おされるくらいに生々しいものではあったが、だからといってここで倒れられても迷惑である。
皆妊婦の対応に忙しい。人が二人生きるか死ぬかのところなのだ。顔面蒼白の晴暁の面倒など誰も見切れない。
「誰かこの人さっさと担ぎ出してください! 邪魔なんで!!」
「ぬしも出ていくのじゃ、帝様」
蘭華の声を、冬の宮の言葉が遮った。
そこではっと自分の立場を思い出す。
そうだ。帝が他人の子のお産に立ち会うとか、意味が分からなさすぎる。
下手をすると帝に穢れを持ち込んでどうこうとか、そういういちゃもんに繋がりかねない。
どのみちここにいても大したことは出来ないのだから、晴暁を撤去するなら蘭華が適任だろう。
「そこの男子も。ここから先は女子の領域じゃ」
「……承知しました」
ちらりと燕星に視線を向けた冬の宮。
燕星が頷いて、蘭華の方へと歩いてきた。晴暁の上半身を抱え上げる様子を見て、じゃあ私は行灯を持って行こうかと蘭華が手を伸ばしたところで、燕星の声がそれを引き止めた。
「ほら、足を持て」
「燕星さん一人で持てますよね?」
「足が引きずる」
そう言われて、蘭華は渋々晴暁の足首を掴んで持ち上げた。いくら痩せていても上背があるので重い。体感、麦俵くらいある。
ふぐふぐ呻いている晴暁を運んでいると、――赤子の鳴き声が聞こえてきた。
思わず廊下で燕星と二人、立ち止まる。
「生まれ、た?」
「おそらく」
先ほどまでならこの声も幽霊だと思っただろうが、すでに空は白み始めている。こんな時間に出る幽霊はいないだろう。
「よかっ、たぁ~……」
蘭華がへたりとその場にしゃがみこんだ。
放り出された晴暁の足が床にどたんと落ちた。
燕星も晴暁の身体を床に置くと、蘭華の隣にやってきて肩を支える。
「どうなることかと思いましたよ……」
「俺もだ」
「でも、燕星さんは――」
「うう」
蘭華が何かを言いかけたところで、晴暁がうめき声を上げた。
そしてゆっくりと身体を起こして、頭を片手で支える。
「さいあく……あと三、四日は出てこない、って言った、のに」
「え?」
「子どもってすぐ、悪戯する。だから、嫌い」
いじけるように膝を抱きながらため息をつく晴暁。手足が長いのでたいそう大きな三角座りだった。
だがそんなことよりも、蘭華は晴暁の発言に引っかかりを覚える。
後宮内の子どもの手形、廊下を這いずっていた「何か」、それを「悪いものじゃない」と言い切った晴暁。
「それ」があの部屋に入っていくところまでは、晴暁も予想の範疇だったらしい。
とすると――晴暁に見えていたという、人ならざる何か、というのはつまり。
全てが一つに繋がり、蘭華は晴暁に詰め寄った。
「あの妃が妊娠してるって知ってたんですか!?」
「うん」
こともなげに頷く晴暁。
晴暁は後宮に来てから誰ともまともに話していなかったと言っていた。
では、彼に「あと三、四日は出てこない」と聞いた相手は、誰なのか。
全てが一本の線に繋がった。
蘭華は幽霊は信じていない。
信じていないが――目の当たりにしてしまったあの怪奇現象を説明するには、それしかない。
晴暁がふひ、と小さく笑った。
「だから、ボク、言ったでしょ。『死んだ人の霊じゃない』って」
「いや生霊って言ってくださいよ!!」
「い、生霊とも、ちょっと違うんだよね」
生まれるまではまだこの世とあの世のはざまの存在で、とかぶつぶつと説明をする晴暁。
別に厳密な話はしていない。人ならざる存在というならそれだけで十分である。
「関わりたくない」の気持ちが前面に出ている蘭華の顔を見て、晴暁がくすくすと笑う。そして、晴暁が空を見上げる。
「蘭華ちゃん、信じてないって、言ってたのに」
「……まぁ、神様がいるって言うならお化けもいるんじゃないですか。損にも得にもならないなら別に、どっちでもいいですけど」
「ふひ」
ぶっきらぼうに言い捨てる蘭華に、晴暁がまた口元を緩ませる。
朝日がちらりと、屋根の向こうに顔を出していた。
ばたばたと妃たちの走る音に、賑やかな赤子の鳴き声。
世界がまた、新しい一日を迎えようとしている。
「やっぱり、生きてる人間が、一番怖い、けど」
そのまばゆさに目を細めて、晴暁がため息とともに呟いた。
「人間と話すの、悪くない、ね」




