54.関わるとろくなことない人って言うのは
その夜。布団に入っていた蘭華は、ふと目を覚ました。
起き上がり、厠に行くために廊下に出る。
ろうそくや行灯すらない長い廊下はひどく暗いが……辛うじて朧月夜の光が足元を照らしていた。
廊下には燕星が控えている。刀を抱いて、座ったままで目を閉じていた。その横には、火の消えた行灯が置かれている。
そろりそろりと歩いていると、叩きに小石が置いてあるのに気づいた。
丸くてすべすべした小石が、四つ並んでいる。
はて。この宮の童がままごとでもしたのだろうか。
不思議に思いながらも、蘭華は廊下の奥へと歩を進める。
角を曲がると、ただでさえ頼りない月明かりがほとんど入らなくなる。突き当りにあるろうそくが辛うじて明かりを残していた。
ぺたり。
歩を進めると、何やら蘭華の足音とは少し違う音が、聞こえる。
べた。ぺた。
蘭華の者とは違うが――やはり、足音に近い。
違うのは――どうやらそれが、両手両足を使って這いずっているらしいということだ。
べたり、べたべた。
音が蘭華に近づいてくる。
そこで思い出した。そうだ。泣き声や物音が猫だったとして――それならば。
鏡や漆器の「子どもの手形」は――一体何が、原因だったのか。
ぺた。
ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた。
「っひ、」
蘭華が息を呑む。
「ぎゃ」
叫び出しそうになった瞬間、何かが蘭華の口元を覆った。
その「何か」は人の手で。
蘭華を、ぐいと襖の奥へと引き込んだ。
ぺた、ぺた。
ぺたぺたぺたぺたぺたぺた。
先ほどまで蘭華の後ろについてきていた音が、蘭華の目の前を通過していく。
目には見えない音の主を、視線で、聴覚で、追いかける。
廊下の床板に――小さな手形が、浮かび上がっていた。
「じっとして」
蘭華の耳元で、声がする。
はらりと癖のある黒髪が蘭華の頬をくすぐって――この声の主が、晴暁だと気が付いた。
「大丈夫。この部屋には、入って来られないから」
ぴたりと背後に密着して、蘭華を抱え込むようにして立っている晴暁。
振り向くことも身じろぎすることも出来ずに、蘭華はわずかに視線だけを動かして、室内を見た。襖のこちら側には――四隅に塩が盛られていて、何やら御札と縄まで張られている。
まるで結界のようだった。
ぺた、……ぺた。
ほんのかすかな音まで完全に消えたのを確認してから、晴暁が蘭華の身体を解放した。
ぶは、と一気に息を吐いて、また一気に吸う。別に口を塞がれていたとて呼吸は出来たのだが、それどころではなかった。
何か物音一つでも立てたら、――取り殺されるとか。そういう類のものに思えたのだ。
だって、どう考えてもあれは、超常現象的なやつで。
蘭華は幽霊を信じていない。
いや、信じていなかった。今、この瞬間までは。
「な、なんですか、あれ」
「悪いものじゃないよ」
「ま、まさか、おばけ……」
「……やっぱり」
顔を青くする蘭華に、晴暁がぽつりと呟いた。
背中を丸めていてもなお、かなり高いところにあるその顔を見上げると、ひどく悲しそうな眼差しをしているのに気づく。
「気味が悪い、でしょう? こんなの」
晴暁は口元にわずかに自嘲的な笑みを浮かべていたが……その声は、震えていた。
伏せられた瞳は、蘭華の足元に向けられていて
「ボクに関わると、ろくなことないって。家族以外は……皆そう言うから」
「えこれ晴暁さんが起こしてるんですか!?」
「ち、ちがうけど」
「何だ」
一瞬身構えた蘭華だが、晴暁が否定すると、本当に言葉通りに「なーんだ」という顔をして、身体から力を抜いた。
「だったら全然」
「え」
「関わるとろくなことない人って言うのは、こういうのをわざわざ引き起こした挙句、巻き込まれて慌てている人間を陰でこっそり覗いていて、あとから嘲笑ってくるような人を言うんですよ」
「な、なんか……すごく具体的に誰かを、思い浮かべてない?」
遠い目をする蘭華。
具体的に特定個人――というか兄の所業を思い浮かべている蘭華だった。
未来が見えるような見透かした行いをするのだって、ある種超常現象みたいなものだと思うが……兄の良くないところはその能力ではなくて、それを思う存分に悪用した挙句、人を捨て駒のように扱うところだと思っている。
どんな能力だって他人を捨て駒のように扱う人間は嫌われて当然である。
時に損得勘定で他人を切り捨てる自身を棚に上げて、蘭華はふんと鼻息を鳴らした。
その様子を見ていた晴暁は、ぱちくりと目を大きく見開いていた。
「ていうか、何なんですか、あれ。めちゃくちゃ怖かったんですけど」
「怖い、よね。そうだよね」
「晴暁さん。見えるんだったらこれ、何とかしてくれるんですよね?」
「!」
また一瞬落ち込みかけた晴暁だが、蘭華の言葉にぱっと顔を上げる。
「う、うん。がんばる」
そう言って頷いた晴暁に、蘭華はほっと内心で胸を撫でおろした。
よかった。この場で謎の幽霊と戦うことになったとしたら、晴暁は味方につけておいて損はない。何せ後宮で唯一の専門家である。
蘭華が打算的に自分を頼ったなどと知る由もなく、晴暁は口元を緩ませて、蘭華を見下ろした。




