43.「絶対にやります」「絶対にやってますね」
昭可が目を細めて、燕星を見る。
その瞳の奥が笑っていないことを、蘭華は知っていた。
「まだ何の成果も上げていません。帰ってきたところで未来はないのですよ。蘭華にも……私にも」
「どういう意味だ」
「燕星も知っていますね? 帝の姉君、藍美鈴様のことを」
昭可の言葉に、燕星が頷く。さすがに皇帝一族の名前も知らない貴族はいないだろう。
「病に伏せっていると。それがどうした」
「その病っていうの、嘘なんですよね」
あっけらかんと言い切る昭可。
燕星は目を見開いて――掴んでいた胸倉を離すと、昭可の言葉の続きを待った。
昭可は襟元を直してから、世間話をするような口調を崩さずに言う。
「実は、駆け落ちしてるんです」
「は?」
「駆け落ち。知ってます? 従者の男と、皇帝の娘。そんな二人の道ならぬ恋。はっはー、歌劇の演目みたいな話でしょう?」
「……仮に、それが本当だとして。どうしてお前が、そんな話を」
そこまで言って、はっと燕星が何かに気づいた。
視線を向けられた蘭華は、困ったようにへらりと笑う。
「我らが養父上は、美鈴様の駆け落ちを手引きしたんです」
そう。今まさに昭可が語っている駆け落ち事件。それこそが――蘭華がこの後宮に、影武者として潜入せねばならなくなった原因であった。
この国で帝を除けば、唯一先帝の血を引くやんごとない身分の御方。男児でないとはいえその身にはいくらでも使いようがある人物だ。
蘭華の養父はあろうことか、その方が宮中を抜け出して、どこの馬の骨とも知れない男と一緒になるのを手助けしたのだ。
これはもう、ほとんど誘拐と変わりない。本人が打ち首なのは当たり前として、一族郎党縛り首、運がよければ切腹させてもらえるかもしれない、というレベルの重罪である。
その窮地から家を――というか主に自分の身柄を救うために、蘭華はどんなに無理がある影武者であろうとも、後宮に潜入する以外の手はなかったのだ。
……ただし、本人はそれよりもやや褒賞に目が眩んでいたが。
「それは、濡れ衣では」
「はっはー! 残念ながら我らが養父上はたいへん善良な人間でして」
燕星が絞り出したフォローとも希望的観測ともつかない言葉を、昭可が軽やかに笑い飛ばす。
「絶対にやります」
「絶対にやってますね」
「………………」
善良、というともすれば誉め言葉のはずのその単語を口にしているものの、昭可も、そして隣の蘭華もちっとも目が笑っていなかった。
2人揃ってそう言うのならばおそらく事実なのだろうと、謎の説得力がある。
唖然としている燕星を横目に、昭可が軽く肩を竦める。
「まったく、世話の焼ける養父です」
「そのくらいでちょうどいいんじゃないですか。何でも兄さんの思い通りになると思ったら大間違いですよ」
「それにしたって限度があります」
蘭華の軽口に、昭可が乾いた笑いで応じた。
蘭華にとっても養父は悩みの種であったが、それと同時に、この何でもかんでもお見通しと言った兄の意表を突ける唯一の人材として、一目おいているところはあった。
あの人を食ったような兄さんが、本気で困っている様が見られるのは悪くない。だからといって今回のように自分が巻き込まれるのは勘弁だが。
燕星からすっかり先ほどまでの威勢が削がれたのを受けて、昭可が蘭華に向き直る。
「そうそう、お前にこれを。今回の見舞いです。困った時に開けなさい、きっと役に立つことでしょう」
「いらない」
紙で包んだ何かを差し出した昭可に、蘭華は即座に首を横に振った。
この兄が何の脈絡もなく、本当に役立つものを手渡してくるはずがない。蘭華にはその信頼があった。
タダより好きなものはない蘭華であるが、兄とのやり取りにおいては、タダより高いものはないのである。
――だが。
「それは残念。受け取らないと『損』だと思うのですが」
「損」
ぴくり、と蘭華の肩が動いた。
昭可もまた、蘭華のことは理解している。彼の妹が――「損」というものを大変嫌っていることを、よく知っていた。
「今この機会を逃すと手に入らないものですから。お前が大損しても構わないというならいいのですが。それとも何です? もう15にもなって、兄さんのことが怖いのですか?」
「ぐ、ぐぬぬぬ……」
蘭華はしばらく歯を食いしばっていたが、やがて昭可の手から包みを受け取った。その様を見てほくそ笑む昭可。
それでは失礼、と挨拶もそこそこに立ち去る昭可の背を見送って、蘭華はどっと疲労に肩を落としたのだった。
何だか今回も、負けた気がする。




