40.燕星を、無駄遣いするわけにはいかない。
どどん、どどん、と注目を集めるように太鼓が鳴る。
一人目の射手が、矢をつがえて構えを取った。
どどん!
太鼓に合わせて、矢が放たれる。
とっ。
一つ目の的のど真ん中に、矢が命中した。
きゃっと妃たちが小さな悲鳴を上げる。
あれだけ大きな弓だ。放たれた矢は鏃が見えないくらいに深々と的に突き刺さっており、威力もなかなかと見える。
いくら向こう岸と距離があるとはいえ、さすがに飛んでいる矢はほとんど目視できない。辛うじて軌跡を残像で捉えることができるかどうか、という状態だった。
どどん!
次の太鼓が鳴る。
とっ。
二つ目の的に矢が刺さった。最初よりもわずかに左に寄っているが、それでも的の中に見事に収まっていた。
当たるものだなぁ、と蘭華が感心して見ているうちに、三つ目、四つ目、と次々に矢が命中していく。
そして。
どどん!
最後の太鼓が鳴った、その瞬間。
「伏せろ!!」
燕星の声が、月の御殿に響いた。
その声が聞こえるか聞こえないかのタイミングで、蘭華の近くに控えていた紫雲が飛び出して、蘭華を胸に庇うようにして倒れ込む。
どっ。
音がした。
蘭華には、何が起きたか分からない。
ぽかんとしたまま、天井を見上げていた。
紫雲が頭を抱えるように手を添えてくれたおかげでどこかをぶつけるようなことはなかったが、転倒の衝撃で一瞬、息が詰まる。
視界の端で、こちらに駆け出そうとする燕星の姿を捕らえた。
何が起きたかは、分からない。
だが――今重要なのは、蘭華ではない。今この状況で、蘭華が心配だからとかいう、そんな理由で――燕星を、無駄遣いするわけにはいかない。
瞬時にそこまで計算して、蘭華は叫んだ。
「燕星さん!」
蘭華の声に、燕星の動きが止まった。
そして瞬きをする間に、彼はあっという間に踵を返す。
きらりと金属のきらめきが見えた。
燕星が刀を抜いて、本殿に向けて手すりを飛び越え、中庭を風のように駆けていく。
その背を見送って、ふと。
何気なく、先ほどまで自分が立っていた場所に視線を向けた。
そこには――一本の矢が床に突き立っていた。
「きゃああああ!!」
耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。
月の御殿の妃たちが矢に気が付いたのだ。
紫雲が蘭華の身体を抱えたまま立ち上がると、低い姿勢を保ちながら、御殿の奥へと素早く移動していく。
蘭華の目には――五つ目の的に矢が刺さっているのが、ちらりと見えた。
向こうから、2本、矢が放たれたのだ。
一本は、的に。そしてもう一本は――蘭華に、帝に向けて。
「落ち着け! 皆、ゆっくりと奥へ!」
志勇が妃たちに指示を出している声が聞こえてきた。が、その声もあっという間に遠ざかっていく。
ほとんど揺れないのであまり実感はないが、紫雲は相当の速度で移動しているらしい。
月の御殿の最奥までやってきたところでやっと、紫雲が蘭華の身体を下ろした。
「怪我は」
「何とも、ないです」
ぺたりと床に座り込んだ蘭華は、紫雲の問いに首を横に振って答える。
本当に何ともない。
だが――燕星と紫雲がいなければ。
あの矢が刺さっていたのは床ではなく、蘭華だっただろう。
それを思い浮かべて、ぞくりと背筋が寒くなった。
どこかで慢心していたのだと思う。
暗殺間近だ何だと言われて送り込まれたのに、実際のところ蘭華は数か月の間、命の危機には晒されなかった。
暗殺者が杞憂であったか――もしくは、蘭華が偽物だと見破っていて、手を下すまでもないと判断しているか。
だから、襲われなかったのだと。殺されなかったのだと。
――これからも、殺されることはないのかもしれないと。
そう、考えていた。
しかしそれはあくまで、希望的観測で。
そして誤りであったことを、蘭華は知ることになった。
ばくばくと、今更ながらに心臓が派手に暴れ始める。まるで耳のすぐ内側で心臓が脈動しているようだった。自分の呼吸が浅いのが分かる。背中に、手のひらに、額に。じとりと脂汗が浮かんでいるのを感じる。
蘭華は一つ息を吸って、そして、ゆっくりと細く長く、吐き出す。
ああ、本当に、私。
死ぬかもしれないんだ。




