2.部屋の端と端まで離れて、目を細ぉーく開いて薄目で見ると
は?
蘭華は目をぱちくりと瞬いた。
兄の声は確かに耳に入ったのに、右耳から入ってそのまま脳を経由せずに左耳から出て行ってしまったような気がする。
……な、何て???
「みかど?」
「はい」
恐る恐る聞き返したところ、頷かれた。
何で頷くかな、笑顔で。
憂い顔で黙っていれば女性が靡きそうな造形をしている兄だが、常にこうして腹に一物抱えたような笑顔でいるものだから男女問わず近づこうとしない。
そして多くの場合「抱えたような」ではなく、実際に抱えている。それも真っ黒な腹の内を。
わなわなと震える指で自分を指しながら、兄に詰め寄る。
「今女官も務まらない人間に、帝の影武者しろって言いました!?」
「大丈夫です。お前の顔……こう、部屋の端と端まで離れて、目を細ぉーく開いて薄目で見ると」
「み、……見ると?」
じっくり溜めてから、昭可がにこやかに言った。
「ギリ似てなくもない、という程度には似ていますから」
「似てないじゃん!!」
似てないじゃん!!
蘭華は床を拳で叩いた。
それはもう目が二個あって鼻が一個あって口が一個あればそっくり!のレベルである。世の中ではそれを似ているとは言わない。
「死ぬでしょ! 暗殺されろってことですよね!?」
「大丈夫です。兄さんの言うとおりにしてうまくいかなかったことがありますか?」
「死ぬような目には何度も遭ったよ!」
「結果として生きているのだから『うまくいった』の範疇ですよ」
乾いた笑い声をあげる兄を、蘭華は胡乱気な瞳で睨みつける。
これまでくぐらされてきた死線を思い浮かべるに、うまくいかなかったら死んでいるので文句すら言えないだけだ。それを成功例にされても困る。
「いやだ、しにたくない」
「まぁまぁ。帝の命を救ったとなれば相当の名誉です」
「名誉で飯は食えない」
「後宮には国家予算の五分の一が費やされているとか。贅を尽くした暮らしが体験できますよ」
「私の税金で贅沢するな」
「養父上の大失態を取り返してお釣りがきます。褒賞にも期待できるでしょう」
「…………褒賞?」
しかめっ面でがるがると兄を威嚇していた蘭華が、ぴたりと動きを止めた。
蘭華は花も恥じらう十六歳。そして孤児の生まれゆえに、金に目がない十六歳であった。
先日死線を掻い潜った折、兄から褒美は何が良いかと聞かれて、異国から伝わってきたばかりのそろばんを所望するくらいの、筋金入りの守銭奴である。
そして彼女の守銭奴ぶりは、兄のよく知るところであった。
「百万金単位の金が入ってくるやも」
「やりまぁす!!」
蘭華は元気いっぱいに右手を上げた。ほとんど反射であった。
だが百万金もあれば毎日白い米が食べられる。冬の布団も新調できる。寒さに凍えず冬を越せる。蘭華の目はすっかり金の形になっていた。
その様子に、昭可はにんまりと唇で弧を描く。
「そう言ってくれると思っていましたよ。いやぁよかったよかった」
その笑顔に、蘭華ははっと我に返る。
しまった。金に目が眩んで咄嗟に返事をしてしまったが……命の危険があるんだった。
だがこのずる賢い兄を前にして、一度口に出した言葉を引っ込めるなど許されるはずもない。覆水盆に返らずだ。
「やっぱ今のなし……」
「大丈夫ですよ。私も鬼ではありません」
「鬼じゃん……」
それでも往生際悪く撤回しようとする蘭華の言葉を遮って、昭可はまるで妹の身を案じる兄のように眉を下げた。
もちろん蘭華はそんなことでは騙されない。金が絡まなければ蘭華は冷静であった。
「きちんと護衛を頼んでおきます」
そう言われても、潜入場所は後宮だ。そんなところに筋骨隆々の男を送り込めるわけもなし、護衛と言ってもたかが知れているだろう。
だが、うまい儲け話には必ず裏があり――危険が伴うことを、蘭華はよく知っていた。それなら裏が見えている分マシなのかもしれない。
そう自分に言い聞かせながら、ため息をつく。
「私の信頼できる友人ですよ」
蘭華は冷え切った視線を兄に向けた。
この兄に友人など、いるのだろうか。




