1.「お前には帝の影武者になってもらいます」
何故蘭華が影武者など引き受けることになったのか。
ことの発端は一週間ほど前に遡る。
その日、蘭華は兄に呼び出されていた。
兄が自分を呼ぶときにはたいていろくなことにならない。
今度は一体何だろうと考えながら、重い足取りで屋敷の広間に行くと、兄の昭可が神妙な面持ちをして座っていた。
黒い髪を丁寧に冠の中に収めて、身に着けている衣服も宮中に赴く時の正式なものだ。仕事で宮中に顔を出していたのだろう。
普段は狐のように弧を描いているその細い目が、蘭華を捉えてわずかに開いた。
そんな兄の顔を見た瞬間、蘭華は後悔した。
来るんじゃなかった。いつもへらへらしている兄さんが真顔だ。これは本気でまずいやつだ。
察した蘭華の踵がじりじり後ずさりをしているのに気づいたのか、兄は逃がさないとばかりに口を開く。
「養父上がやらかした」
前置きもなく告げられた言葉に、蘭華の顔面がぴしりと固まる。
底抜けのお人好しな養父の顔が脳裏を過ぎった。
飲み屋で親しくなった素性の知れない人間の身元引受人になって借金を背負わされ、その返済に蘭華がひいこら言う羽目になったのが記憶に新しい。
新しいのに、また、何か。
震える声で、問いかける。
「こ、今度は何を」
「このままでは一族郎党晒し首だ」
「今度は何を!!??」
養父さん。最近帰りが遅いと思っていたらまたろくでもないことに首を突っ込んでいたのか。
蘭華は頭を抱えた。
本当に話題に事欠かないというか、お人よしが車輪を付けて爆走しているというか。まぁこの兄さんを拾ったという時点でだいぶ詰んでいる気はするが。
昭可がやや声を潜めて、深刻そうに言う。
「今回は少々ややこしい事態になっていてね。ちょっとやそっとでは誤魔化しが効きそうにない」
「兄さんで誤魔化せないって、マジで何したんですかあの人」
「はっはー」
昭可が軽やかに笑い飛ばした。
彼がそうやって笑うときは、たいてい笑い事では済まないときだ。長年の経験で蘭華は知っていた。
恐る恐る兄の元に歩み寄って、腰を下ろした蘭華。
何をさせられるのかと戦々恐々の妹に向かって、昭可は笑顔を顔面に貼り付けたままで言う。
「お前には後宮に行ってもらう」
「後宮?」
蘭華の頭の中に、雅やかな建物と豪華な着物の女性、そしてそれを侍らす帝の姿が浮かぶ。
下級貴族の、しかも養子の蘭華には縁のない華やかな世界。そこに行けとはどういうことか……と考えて、はっと息を呑んだ。
「まさか私の玉の輿に期待、ってこと?!」
「はっはー、後宮をナメてはいけません。お前では下級女官も務まりませんよ」
「じゃあ何ですか」
またしても笑い飛ばされて、蘭華は気分を害した。
妹を捕まえてどういう口の利き方をするんだよ、この兄。
「先日帝もめでたく元服なされて。いよいよ後宮への御幸が始まるところではありますが……その折、帝暗殺を企む輩の情報が私の耳に入りました」
「暗殺ぅ?」
蘭華の眉間に皺が寄った。
暗殺。
暗殺ねぇ。
そりゃあ殿上人だもの、そういう話も、あるのかな。
まぁそれこそ、自分には縁のない話だと結論付ける。
自慢ではないが蘭華はたいして腕っぷしが強いわけではない。
後宮に行って帝をお守りしろと言われたって出来っこないし、動く盾にすらなれないのは火を見るよりも明らかだ。
さすがの兄さんも無駄死にをしろとは言わないでしょう。さすがに。
人間を駒だと思っている節はあるけど、意味もなく駒を捨てるほど人使いが下手ではないはずだ。
「人間が一番無防備になるのはどんなときか。それは風呂か寝所でしょう。まして後宮は新たな帝をお迎えするために激しく人の入れ替えがあったばかり。私が首謀者ならこれを生かさぬ手はありません」
「ふぅん」
そう呟いて、蘭華は頷く。
要はその暗殺を未然に防げれば、我が家はめでたく晒し首を免れるかもしれない、ということか。
玉の輿も盾になることも求められていない。とくれば、自分の役割は――
「つまり、私に後宮に忍び込んで、その暗殺者のしっぽを掴んで来いと?」
「いえ」
ここまでの経緯をふまえた蘭華の発言を、昭可がにっこり笑って否定した。
その表情がいつもの狐じみたものに変わっているのに気が付いて、蘭華は「ん?」と頭に疑問符を浮かべる。
「忍び込むのではなく、堂々と表玄関から入って構いませんよ」
「え? ……出入りの商人になりすます、とか?」
「なりすます、という意味では当たりです」
兄のはっきりしない物言いに、蘭華は首を捻った。
何だろう。どうにも嫌な予感がする、ような。
昭可が笑顔を浮かべたままで、事も無げに言う。
「お前には帝の影武者になってもらいます」
「……は?」




