第7話 最初の芽と、『効率がいい』という褒め言葉
朝露に濡れた土の匂いが変わった。昨日までの死んだ匂いではない。
鉄と石灰の混じった乾いた匂いに、かすかに、ほんのかすかに、腐葉土のような生きた土の匂いが混じっている。鼻を近づけなければ分からないほどの変化。でも、私にはわかる。十三年間、毎朝土の匂いを嗅いできた鼻が、この微かな変化を捉えている。
試験区画に膝をつく。昨日まで何もなかった褐色の土の表面に、緑色の点が見える。
芽だ。
「出た」
声が出た。自分でも思いがけないほど大きな声だった。深根樹の幼苗が、二センチほどの芽を地上に押し出していた。小さい。脆い。風に吹かれたら折れてしまいそうなほど頼りない。でも、生きている。この荒野の土から、生命が顔を出した。
膝の裏が震えた。立っていられないのは、安堵なのだろう。ただ足が笑っている。それだけで十分だ。
膝の土を払って立ち上がる。振り返ると、アルヴィンが作業小屋の前で同じものを見ていた。老庭師の目が潤んでいる。六十年の庭仕事の中で、何百回と芽吹きを見てきたはずの人が。
「奥様」
「ええ」
それだけで通じた。言葉は要らなかった。アルヴィンは私の横に来て、芽を覗き込んだ。節くれ立った指で土の表面を確かめ、水分量と日当たりの角度を見ている。庭師の身体が、声より先に動く。
「明日には二枚目の葉が出ます」
「そうですね。水やりの量を少し増やしましょう。この子は渇いています」
植物の話をしているとき、私たちは最も自然に笑える。人間の話より、ずっと簡単に。
◇◇◇
午後、作業場に戻ると、見慣れないものが増えていた。
木の柱が四本。その間に、麻布が張られている。日除けだ。朝はなかった。誰が立てたのかは明白で、柱の根元に新しい土が盛られている。素人仕事だが、頑丈だった。
「エーリヒ様」
伯爵は作業場の裏手で薪を割っていた。相変わらず貴族らしくない。額に汗が光っている。
「あの日除けは」
「……日に焼ける」
三文字。それだけ。斧を振り下ろす動作は止めないまま、こちらを見もしない。耳の後ろが赤いのは、労働のせいか、それとも別の理由か。
日に焼ける。あなたが、という主語は省略されている。この人はいつも主語を省く。「寒いだろう」は「あなたが寒いだろう」の意味だし、「昼だ」は「あなたは昼食を取るべきだ」の意味だ。十三年間ヴィクトルの言葉には裏がなかった。裏がないのではなく、表しかなかった人だから、エーリヒの省略された言葉の奥にある意味を読み取ることに、妙な新鮮さを覚える。
「ありがとうございます」
「……ああ」
斧の音だけが返ってきた。
◇◇◇
試験区画の拡張計画を練りながら、土壌のサンプルを分類していると、エーリヒが作業場に顔を出した。手にした書類を無言でテーブルに置く。地質調査の追加データだった。目を通す。的確なデータだ。私が次に必要とする情報が過不足なく揃っている。
「これは……三年分の蓄積があるからこそ取れるデータですね。正確です」
「……効率がいい」
褒められたのだと気づくまでに、数秒かかった。効率がいい。それが、この人の精一杯の賛辞なのだと。
ヴァイスフェルトでは、誰も私の仕事を見なかった。見ていないから、褒めようがなかった。ヴィクトルは庭を「趣味」と呼び、ベアトリーチェは「庭いじり」と呼んだ。十三年間、私の仕事に名前をつけてくれた人はいなかった。
「効率がいい」は、お世辞としては零点だ。花言葉にもならない。でも、この三文字の中に「あなたの仕事を見ています」「その仕事には価値があります」という意味が含まれていることは、わかった。
誰かに見てもらえることが、こんなに恐ろしいとは思わなかった。嬉しいのだろう。嬉しいのだ。でもその嬉しさを認めた途端、失ったときの痛みが襲ってくる。だから十三年間、何も感じないふりをしてきた。
「……ありがとう、ございます」
声が掠れた。変な間が空いた。エーリヒは何も言わず、データの補足を指で示して、そのまま出て行った。その背中を見送りながら、胸の底で何かが緩みかけて、慌てて息を止めた。
◇◇◇
夕方、事件が起きた。
試験区画の北端を確認しに行こうとして、道に迷った。
自分で描いた設計図を持っているのに、だ。方角がわからなくなる持病は子供の頃からで、実家でも庭の中で迷って母に笑われた。ヴァイスフェルトの庭は十三年通い詰めたから身体が覚えたが、ここはまだ三週間目。荒野はどこを見ても同じ景色で、目印になるものがない。
太陽の位置で南を確認する。でも雲が出ている。設計図を回転させてみるが、余計に混乱する。
私は今、自分の設計図を持って、自分が計画した区画の中で迷っている。笑えるほど情けない。
「……こちらだ」
振り向くと、エーリヒが五歩ほど後ろに立っていた。いつからいたのだろう。何も言わずについてきていたのか。腕を上げて、北を指す。
「ありがとうございます。その、実は方向音痴でして」
「……知っている」
知っている。三週間で見抜かれた。恥ずかしいはずなのに、なぜかその一言で肩の力が抜けた。「知っている」と言われたことが、責められている感じではなく、「だから見ていた」という意味に聞こえたからかもしれない。
私の思い過ごしかもしれない。植物の気持ちは読めても、人間の気持ちを読むのは昔から苦手だ。
エーリヒの背中を追って歩く。日が傾いて、荒野が橙色に染まっている。この荒野に緑が戻るのは何年も先のことだが、今日、最初の芽が出た。一つの芽。それだけの変化が、世界の色を少しだけ変えた気がした。
足元で小さな石に躓きかけた。エーリヒが半歩だけ身体をずらして、私の肘の近くに手を出した。触れてはいない。でも、転んだら支えるつもりでいたのだと、その手の位置でわかった。
「大丈夫です」
「……ああ」
何でもないやり取り。でも、ヴァイスフェルトで私が躓いたとき、手を出してくれる人はいなかった。そのことに気づいて、息を吐いた。比べるのはやめよう。比べ始めたら、十三年間のすべてが痛くなる。
作業場に戻ると、エーリヒが足を止めた。
「フローラ殿」
「はい」
「……明日も、ここで」
「はい。明日も、ここで」
それだけの会話。でも、「明日も」という言葉の中に、この場所で待っているという約束が含まれていることは、植物しか読めない私にも、わかった。




