第6話 母上は庭いじりしかしていませんでしたから
母のことを、ルートヴィヒは一度も考えたことがなかった。
正確に言えば、考える必要がなかった。母は庭にいる人だった。朝食の席に顔を出すこともあったが、大抵は日が昇る前に庭に出ていて、夕食の頃にはもう自室に引き上げている。存在感の薄い人。声の小さい人。父が語る華やかな社交界の話を聞きながら、隅で黙って薄荷茶を飲んでいる人。
それが、ルートヴィヒの知る母のすべてだった。
◇◇◇
その日の晩餐には、隣領のフリードリヒ男爵が招かれていた。領地間の木材取引に関する交渉の席で、ルートヴィヒは父に代わって挨拶を務めた。十七歳の嫡男としては上出来の社交だと、自分では思っている。
話題がヴァイスフェルト家の家族に及んだとき、フリードリヒ男爵が何気なく尋ねた。
「そういえば、奥方様はいかがされたのですか。以前お見かけしたとき、庭園の整備に熱心でいらした記憶がありますが」
「母上は先月、離縁いたしました」
ルートヴィヒは淡々と答えた。特別な感慨はなかった。
「庭いじりしかしていませんでしたから、いなくなっても何も変わりません。むしろ庭が馬場に変わって、騎馬の訓練ができるようになりました」
男爵が一瞬、口を閉じた。何か言いかけて、思い直したように杯を傾ける。
テーブルの隅で、給仕をしていたメイドのマルタが顔を曇らせた。唇が微かに動いたが、声にはならない。使用人が主の会話に口を挟むことはない。マルタは視線を伏せて、ワインの瓶を静かに下げた。
ルートヴィヒはマルタの表情に気づかなかった。気づく理由もなかった。
◇◇◇
食後、父の執務室に報告に向かう途中で、異変を耳にした。
厨房の前を通りかかると、下働きの少年が水桶を抱えて走ってきた。顔が青い。
「若様、井戸の水がまた減っています。朝は桶三杯汲めたのに、今は二杯がやっとです」
「干ばつだろう。父上もそう仰っていた。今年は雨が少ないだけだ」
「でも、去年の干ばつのときは、こんなに急には……」
「大丈夫だ。水などすぐに戻る」
少年は頭を下げて去ったが、その足取りは重かった。
ルートヴィヒは気にしなかった。水は天から降るものであり、井戸から汲むものであり、それ以上の仕組みがあるとは考えたこともなかった。蛇口をひねれば出てくるものだ。誰かが管理しているとも思わなかったし、まして母が毎朝四時に起きて庭で魔力を注ぎ続けていたなどとは、想像の外にある。
領民の顔が暗くなっていることにも、ルートヴィヒは気づいていなかった。馬場で新しい馬を試す方が、井戸の水量よりずっと大事だった。十七歳の世界は、まだそれほどまでに狭い。
◇◇◇
その夜、ルートヴィヒは偶然、母の書斎の前を通った。
普段は通らない廊下だ。厨房から回った近道を使おうとして、角を曲がり損ねた。この屋敷に十七年住んでいるのに、母の書斎のある西棟にはほとんど足を踏み入れたことがない。
扉が開いていた。
鍵がかかっていないことに、少し驚く。部屋の中は暗かったが、廊下のランプの光で輪郭が見えた。整然とした本棚。机の上には何もない。埃の匂いはしない。おそらくハンスが掃除を続けているのだろう。
引き出しに手をかけた。特に理由はなかった。ただの好奇心。
引き出しを開けると、革装丁の帳面が並んでいた。背表紙に「庭園管理日誌 第一巻」「第二巻」……と番号が振られている。最後は「第十三巻」。十三冊。
手に取ろうかと思った。が、興味が続かなかった。庭の記録など読んでも仕方がない。花の種類や水やりの時間が書いてあるのだろう。母が十三年間つけ続けた趣味の記録。
引き出しを閉じた。掌に革の感触が残る。使い込まれた革だった。何百回と手に取られた跡がある。でもルートヴィヒはそのことに意味を見出さなかった。母の執念の重さを、革の擦り減り方から読み取ることは、十七歳の彼にはまだできない。
振り返って書斎を出た。廊下の先から、父とベアトリーチェの笑い声が聞こえる。明るく、華やかな笑い声。ルートヴィヒは無意識にそちらに足を向けた。光のある方へ。
書斎の暗がりに、十三冊の日誌が残された。
◇◇◇
翌朝、ベアトリーチェが朝食の席で言った。
「ヴィクトル様、お水がもう少し欲しいのですけれど。朝の化粧水に使いたいの」
ヴィクトルは新聞から目を上げず答えた。
「干ばつだ。今年は雨が少ない。すぐに戻る」
「まあ。でも去年はこんなことなかったですわ」
「去年とは天候が違う。それだけのことだ」
ベアトリーチェは小首を傾げて、蜂蜜水をひとくち飲んだ。それ以上は言わなかった。美しい人だ、とルートヴィヒは思った。母とは違って華がある。部屋を明るくする人だ。
テーブルの向こうで、ハンスが水差しの残量を確かめていた。銀の水差しの中身は、昨日の半分ほどしかない。家令の顔に表情はなかったが、目が僅かに細まった。
「旦那様」
「何だ」
「念のため、先代の奥様が残された書類を、一度お目通しいただけませんでしょうか。庭園の管理に関して、何か重要な情報が含まれているかもしれません」
ヴィクトルがようやく新聞を下ろした。眉が寄っている。
「ハンス。あの庭はもうない。妻の趣味の記録など、今読んでどうなる。水不足は天候の問題だ。王都に雨乞いの魔術師の派遣を打診しろ。それが建設的だ」
「……かしこまりました」
ハンスは頭を下げた。ルートヴィヒはパンを千切りながら、この会話をほとんど聞いていなかった。母の書類。庭の記録。どうでもいいことだ。
水差しの中の水が、昨日より少し濁っていることに、ルートヴィヒは気づかなかった。ハンスだけが、それを見ていた。
◇◇◇
その週、領地の東端にある村から陳情が届いた。井戸の水量が著しく減少しているという訴え。ヴィクトルは「干ばつ」として処理した。
西棟の廊下を、誰も通らなかった。書斎の扉は開いたままだ。引き出しの中に十三冊の日誌が眠っている。読まれることもなく。
風が変わった。庭のあった場所、今は馬場になった土の上を、乾いた風が吹き抜ける。花の匂いはもうしない。土の匂いすら薄れている。地面が少しずつ、ただの砂に戻りつつあった。
それに気づく者は、もうこの屋敷には一人もいなかった。




