第8話 お姉さまのお花、お母さまの匂いがする
リーゼが庭に走ってきたのは、試験区画の端に薬草を植えている最中だった。
六歳の足音は軽い。砂利を蹴る音がして、振り向くと、息を切らせた小さな顔がこちらを見上げていた。手に何かを握っている。野の花だ。荒野に僅かに咲く、名前のない小さな白い花。
「お姉さま、見て。おはな」
「きれいね。どこで見つけたの」
「向こうの岩のところ。いっぱい咲いてた」
岩の陰。日当たりと水分のバランスが偶然整った場所に自生したのだろう。荒野でも命は見つかる。どこにでも、少しの隙間があれば、根を張ろうとする植物がいる。
リーゼが私の作業台に近づいて、鉢植えの花を覗き込んだ。試験的に育てている浄化蘭の苗。白い花弁が控えめに開いている。
「お姉さまのお花、お母さまの匂いがする」
手が止まった。
リーゼの母、エーリヒの亡き妻。三年前に病で亡くなったと聞いている。名前はカタリナ。それ以上のことは知らない。エーリヒはほとんど話さないし、私も聞かなかった。
「お母さまの匂い?」
「うん。お母さま、こういう匂いだった。甘くて、ちょっとだけ苦いの」
浄化蘭の匂い。確かに甘みのある香りだが、奥に微かな苦味がある。この匂いを「お母さまの匂い」と結びつけるリーゼの記憶の中に、どんな情景があるのだろう。母親が花を育てていたのか。それとも、母親の身体からこの匂いがしていたのか。
聞けなかった。聞いてはいけない気がした。
「そう。いい匂いでしょう」
「うん」
リーゼは鉢植えに顔を近づけて、深呼吸した。目を閉じて、少し笑った。何かを思い出している顔。六歳の子供が持つ記憶は曖昧で、すぐに薄れていく。でもこの匂いが、少しでも長くリーゼの中のカタリナを繋ぎ止めてくれるなら。
ポケットの中の銀木犀の種に、無意識に触れていた。匂いは記憶を運ぶ。母の匂い。土の匂い。私の記憶の中の母も、いつも土の匂いがしていた。
◇◇◇
昼食のとき、エーリヒがいつもより早く来た。
「……昼だ」
この人の語彙には「休憩しませんか」「食事の用意ができましたよ」といった丁寧な表現がないらしい。いや、あるのかもしれないが、使い方を忘れている。三年間、幼い娘と二人暮らしで、社交の言葉が錆びついたのだろう。
「ありがとうございます。すぐに行きます」
「……リーゼが」
「はい?」
「リーゼが、あなたの分も作ったと」
六歳の子が料理をするのか。驚いたが、よく見るとエーリヒの指先にパン粉がついている。作ったのはエーリヒで、リーゼは手伝っただけだろう。でもリーゼの手柄にしている。この人は、不器用に嘘をつく。
食卓に着くと、パン粥と山羊乳のチーズが並んでいた。パン粥は少し焦げていたが、チーズの切り方は几帳面だ。リーゼが得意げに「リーゼがきったの」と言った。チーズの厚さは均一で、六歳の手つきには見えなかった。
この食卓は嘘でできている。温かい嘘。
◇◇◇
その頃、ヴァイスフェルト領では。
東端の村、ノイブルクの共同井戸が完全に枯渇した。
村長のグスタフは朝一番で領主館に馬を走らせた。井戸の底が見える。もう一滴も出ない。昨日までは少量ながら水が湧いていたのに、夜の間に消えた。村の七十人の生活用水が絶たれた。
「旦那様、ノイブルク村の井戸が完全に枯れました。底が見えます。昨日までは細々と湧いていたのに、今朝は一滴も出ません。隣村から水を運ぶにも、片道半日の距離です。七十人の村です。至急の対策をお願いいたします」
ヴィクトルは執務机の書類から目を上げないまま答えた。
「王都に雨乞いの魔術師の派遣を申請中だ。それまで凌げ。井戸が一つ枯れた程度で騒ぐな」
「……かしこまりました」
村長は頭を下げて退出した。廊下で拳を握りしめていたことを、誰も見ていなかった。
村人たちは桶を持って隣村まで歩いた。女たちは子供を背負い、男たちは桶を二つ担いで、砂利道を往復した。朝に出て、夕方に戻る。汲んだ水は一日分にも満たない。
子供が泣いた。桶が重くて持てないと。母親が「もう少しよ」と言った。もう少し。もう少し。この「もう少し」が、いつまで続くのか。誰も答えられなかった。
◇◇◇
夕食の支度をアルヴィンと二人でした。
グリューネヴァルト領の食材は乏しいが、アルヴィンは限られた材料で素朴な料理を作る。大麦のスープに塩漬け肉を入れて、干し草のようなハーブで香りをつける。鍋の中で湯気が立ち、暖かい匂いが小さな厨房に広がった。
「ヴァイスフェルトの庭のこと、考えますか」
アルヴィンが鍋をかき混ぜながら聞いた。
「……考えないようにしています」
「でも、考えてしまう」
「ええ。考えないようにすること自体が、考えている証拠ですね」
アルヴィンが薄く笑った。この人は私の言い訳を見抜くのが上手い。二十年の付き合いだから当然かもしれない。
「あの庭の浄化蘭は、今頃どうなっているでしょう」
「根を掘り起こされたのなら、もう枯れています」
「……そうですか」
「でも、種は土の中に残ります。条件が揃えば、何十年後かに芽を出すこともある」
慰めだとわかっていて、それでも少しだけ胸が軽くなった。植物は人間より辛抱強い。人が壊しても、土が生きている限り、種は眠り続ける。いつか目覚める日を待って。
スープを器によそいながら、窓の外を見た。荒野の空に星が出始めている。ここの星は近い。手を伸ばせば届きそうなほど大きく、明るい。ヴァイスフェルトの空は、屋敷の明かりに邪魔されて、こんなに星は見えなかった。
ここの空は広い。何もないから、広い。ヴァイスフェルトの空は建物と木々に区切られていて、いつも四角い空だった。ここの空には枠がない。
寂しいのだろう。でも窮屈ではない。どちらとも決められないまま、温かいスープを一口すする。塩加減がちょうどよかった。アルヴィンの料理は、いつも少し塩が足りないのだが、今日は合っている。
「塩を足しましたか」
「リーゼお嬢様が味見をしてくださいました。『もうちょっと』と仰って」
六歳の味覚に助けられる六十歳の庭師。この食卓は、なんというか、変な人たちの集まりだ。でも、変でいい。ここは、変でいい場所だ。




