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『あの庭は妻の趣味だから潰せ』と仰ったそうですね。  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第9話 消耗品の補充、と彼は言った


試験区画が広がっていく。最初は一坪にも満たない小さな区画だったものが、今では十坪を超えた。深根樹の幼苗が三本、浄化蘭が七株、月光草が一群。荒野の茶色い大地に、緑の点が増えている。点と点が線になり、やがて面になる日を想像すると、胸の奥が熱くなる。


朝の巡回を終えて作業場に戻ると、テーブルの上に見慣れない箱が置かれていた。


木箱。蓋がない。中身は園芸道具だった。


剪定鋏が一丁。移植ゴテが二つ。土壌測定用の細い鉄棒。そして、革の手袋が一組。どれも新品だ。手に取ると、鋏の握りが手に馴染む。安物ではない。刃の研ぎ方が職人のものだ。


「消耗品の補充だ」


振り向くと、エーリヒが入り口に立っていた。壁に肩を預けて、こちらを見ていない。視線は窓の外の荒野に向いている。


消耗品。


確かに私の鋏は刃がこぼれていたし、手袋は指先に穴が空いていた。消耗品の補充。業務上の必要経費。合理的な判断。


でも。


「これは……王都の職人の品ですね」


「……たまたま商人が来た」


たまたま。グリューネヴァルト領に王都の職人の道具を扱う商人が「たまたま」来ることは、おそらくない。わざわざ取り寄せたのだ。どれだけの手間と費用がかかったか、この乏しい領地の経済を考えれば想像がつく。


消耗品の補充。そう、そうなのだろう。でも、こんなに丁寧に選ばれた消耗品を、私は知らない。ヴァイスフェルトでは庭園の道具は一括で発注されていて、誰かが私の手に合う鋏を選んでくれたことなど一度もなかった。


革手袋を手にはめてみる。指の長さがぴったり合う。私の手の大きさを、いつ測ったのだろう。いや、測っていないはずだ。見ていたのだ。作業中の私の手を。何度も、何度も。


胸の底で、何かが軋んだ。


「ありがとうございます。大切に使います」


「……消耗品だから、遠慮なく使え」


使えと言いながら大切に使えとは矛盾しているが、この人の言葉の矛盾を指摘するのは野暮だろう。「遠慮なく使え」は「あなたの仕事が滞らないように」という意味で、「大切に使います」は「あなたの気持ちを受け取りました」という意味だ。噛み合っていないようで、実は噛み合っている。


エーリヒは耳の後ろを掻いて、早足で出て行った。


◇◇◇


午後、商人がグリューネヴァルト領を通りかかった。定期的に巡回する行商人で、各地の噂を運ぶ。


「ヴァイスフェルト公爵領でえらいことになっていますよ」


アルヴィンが足を止めた。私も手を止めた。


「井戸が三つ枯れたとか。領民が隣村まで水を汲みに行っているそうです。公爵閣下は干ばつだと仰っていますが、隣の領地は普通に水が出ているんで、不思議がっている人は多いですね」


干ばつではない。私には原因がわかっている。深根樹の根が断ち切られ、浄化蘭が枯れ、水脈の浄化サイクルが停止した。汚染された地下水が井戸に流入し、使える井戸が減っていく。三つ枯れたなら、次は中央の大井戸に影響が出る。あと二ヶ月もすれば、領地全体の水供給に支障が出るだろう。


何も言わなかった。言っても仕方がない。


「それから、公爵夫人、いえ、元公爵夫人でしたか。お庭を潰したのと関係があるんじゃないかって、領民の間では噂になっているそうで」


アルヴィンが私を見た。私はアルヴィンを見なかった。浄化蘭の葉に視線を落として、指先で葉脈をなぞった。葉脈は細かく枝分かれして、水を末端まで運んでいる。人間の血管に似ている。この蘭が吸い上げる水は、根を通じて浄化され、地下に戻る。その循環が止まった。止まったことを私は知っている。知っていて、何もできない。


「もう関係のないことだ、と思っているわけではないんですね」


アルヴィンの声は穏やかだった。責めてもいない。ただ事実を確かめている。


「関係がないと思えたら、楽なんですけれど」


それだけ答えて、商人に薬草の種を注文した。仕事に戻る。手を動かしていれば、考えずに済む。


◇◇◇


その頃、ヴァイスフェルト公爵の食卓で。


ベアトリーチェが何気なく口にした。


「ねえヴィクトル様。ひょっとして、お庭を潰したせいで水が出なくなったということは……」


ヴィクトルの手が止まった。フォークがテーブルに当たって、小さな金属音が響いた。


「何を馬鹿なことを。庭と水に何の関係がある。あれは妻の趣味だ。趣味を潰したからといって、井戸が枯れるわけがない」


「そう……ですわよね。ごめんなさい、変なことを言って」


ベアトリーチェは微笑んで引き下がった。でもヴィクトルの声には、いつもの余裕がなかった。怒りの下に、何かが隠れている。不安、だろうか。自分でも薄々気づき始めているのかもしれない。庭がただの「趣味」ではなかったかもしれない、と。


認めるわけにはいかないのだ。認めれば、自分が十三年間、妻の仕事を見ていなかったことになる。無能さではなく、無関心を認めることになる。それは、ヴィクトルの自己像を根底から揺るがす。


だから「干ばつ」でなければならない。天候のせいでなければならない。庭と水は無関係でなければならない。


◇◇◇


夜、作業場の前に出て空を見上げた。


荒野の夜空は透明で、星が近い。北の空に青白い星が三つ並んでいる。この星座の名前を知らない。ヴァイスフェルトでは夜空を見上げる余裕がなかった。毎朝四時に起き、庭の手入れをし、日が暮れたら日誌を書いて眠る。その繰り返しの十三年。


ここの夜空には境界がない。広すぎて落ちそうになる。でも、壁に区切られた空よりはいい。息がしやすい。


ポケットの中の革手袋に触れた。新品の革の匂い。明日からこれを使って土を掘る。この手袋は消耗品だとエーリヒは言った。消耗品。つまり、使い切ったらまた補充してくれるということだ。


それはつまり、私がここに長くいることを、前提にしているということだ。


胸の底で何かが温まっている。根が水に触れたときの、あの微かな脈動に似た感覚。言葉にしたら壊れそうだから、今はまだそっとしておく。種のように。

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