第8話 十日間の旅路
馬車の揺れに慣れるのに、三日かかった。
ヴァイスフェルトからグリューネヴァルトへの旅は七日間だったが、あのときは馬車の中で泣いていたから揺れを気にする余裕がなかった。今回は泣いていない。泣いていないぶん、揺れが気になる。
エーリヒは大半の時間、御者台にいた。馬車の中は私一人。資料を読むには揺れが激しく、眠るには目が冴えていて、結局、窓の外を見て過ごした。
三日目の宿場で、初めて二人で食事をした。
宿の食堂は小さかった。農夫と商人が数人、大麦の粥をすすっている。エーリヒが黙って席を取り、私が向かいに座った。
「何を頼む」
「おまかせします」
エーリヒが店主に何かを言い、二皿の粥と焼いたパンと山羊乳のチーズが出てきた。質素だが温かい。旅の途中の食事は、味より温度だ。
向かい合って食べる。二人きりの食事。考えてみれば、グリューネヴァルト領ではいつもリーゼがいた。三人の食卓と、二人の食卓は、別のものだ。
沈黙が続く。エーリヒは黙々と食べている。粥の啜り方が丁寧だ。音を立てない。軍人時代の習慣なのかもしれない。
「エーリヒ様」
「ここでは、エーリヒでいい」
「……エーリヒ」
名前を呼ぶのに、まだ少し間が要る。「様」を取ると、距離が近くなる。近くなることに慣れていない。
「あなたのことを、もう少し知りたいんです」
口から出た。出してから、唐突だったかもしれないと思った。でもエーリヒは粥の匙を止めただけで、驚いた様子はなかった。
「何を」
「軍人だったと、聞きました」
「……ああ。二十歳から二十五歳まで。辺境の守備隊にいた」
「辞めた理由は」
長い沈黙。粥が冷めていく。
「父が死んだ。領地を継いだ。それだけだ」
それだけ。でも「それだけ」の中に、たぶん語られない何年分かがある。聞いていいのかわからない。聞かないほうがいいのかもしれない。
「人を斬ったことがある」
エーリヒが自分から言った。
「辺境で。盗賊だった。月が出ていた。半月。剣を振ったとき、刃に月が映ったのを覚えている」
具体的だった。あまりにも具体的で、嘘ではないとわかる。この人は、嘘が下手だ。そして本当のことを言うとき、余計な装飾をつけない。
「それ以来、満月の夜は眠れない。半月なら平気なのに、満月はだめだ。理由はわからない」
「理由がわからないことは、ありますよね」
「……ああ」
粥を食べ直した。冷めていたが、食べた。冷めた粥の味で、さっきまでの重さが少し薄まる。食事にはそういう力がある。
◇◇◇
五日目の夜、宿場の二階の部屋で眠れなかった。
隣の部屋にエーリヒがいる。壁一枚向こう。こんなに近い場所で眠ったことはない。グリューネヴァルト領では、私の部屋とエーリヒの部屋は廊下を挟んで反対側だ。
意識しすぎだ。三十四歳にもなって。十三年間の白い結婚を経験した人間が、壁一枚の距離で緊張している。
窓を開けた。夜風が入る。星が見えた。ヴァイスフェルトの空とも、グリューネヴァルトの空とも違う。旅路の空。どこにも属さない空。
「もし技術が否定されたら」
声に出してみた。小声で。壁の向こうには聞こえないはずだ。
「もし、禁術と認定されたら。魔法が使えなくなったら。私は何者になるのだろう」
植物魔法師でなくなった私に、何が残る。庭が守れない。土に触れても、根に魔力を注げない。深根樹の脈動を感じ取れない。
それは、目が見えなくなるのと同じだ。世界の半分が消える。
ノックの音がした。
壁ではなく、扉。
開けると、エーリヒが立っていた。外套を羽織っただけの姿。
「起きていたのか」
「……ええ」
「聞こえた」
壁が薄かったらしい。
顔が熱くなった。独り言を聞かれた。この人の前で弱音を吐いたのは、ヴァイスフェルトを出た夜以来だ。
「否定されない」
「どうしてそう言えるんですか」
「あなたの庭を見た。荒野が変わった。あの事実は、否定できない」
エーリヒが外套を脱いだ。私の肩にかけた。革と土の匂い。この人の匂い。
「……夜は冷える」
冷えていない。春の夜だ。でも、外套を返さなかった。前にも同じことがあった気がする。この人は「冷える」と言って外套をかける。私は「冷えていない」と思いながら返さない。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
扉が閉まった。足音が隣の部屋に消える。
外套を抱きしめた。温かい。エーリヒの体温が残っている。革の匂いの奥に、かすかに土の匂い。グリューネヴァルトの土の匂い。
この人がいるなら、王都でも大丈夫だ。リーゼの言葉を借りるなら、「おとうさまもいっしょだからだいじょうぶ」。七歳の信頼は、正しい。
◇◇◇
十日目。王都アウレリアが見えてきた。
白い城壁。大理石の塔が陽光を反射している。門の前に長い列ができていた。商人、旅人、巡礼者。この街の人口はグリューネヴァルト領の百倍だとエーリヒが言った。
門をくぐったとき、足が一瞬止まった。
石畳の感触が、靴の底を通じて伝わってくる。土ではない。石。冷たくて、硬くて、水を通さない石の上を、人が歩いている。ここには根が張れない。
「ここで、私は何を証明しなければならないのだろう」
呟いた。エーリヒが御者台から振り向いた。
「あなた自身を。それだけだ」
短い。でも、この人の言葉は短いほど重い。
馬車が石畳を走る。車輪の音が、荒野の砂利とは違う。硬い音。響く音。
ポケットの中に、荒野の土がある。一握り。何かあったら、この土に触れよう。根は張れなくても、土はここにある。




