第4話 交渉の席
マティアス・フォン・ラインハルトは、想像していたより小柄な男だった。
馬車から降りる姿を窓から見た。五十に近い年齢。銀混じりの髪を後ろに撫でつけ、眼鏡をかけている。体格は痩せ型。軍人ではなく文官の身体つき。手が白い。土に触れたことのない手だ。
ただ、目は鋭かった。エーリヒの館を見上げる目に、侮りはない。質素な石造りの二階建てを、一瞬で値踏みしている。建材の質、漆喰の状態、屋根の角度。この人は、数字で世界を見る人間だ。
エーリヒが応接間で迎えた。私も同席する。アルヴィンが荒野の薄荷茶を出した。マティアスは今度は一口飲んだ。
「……薄荷。水耕ではなく土耕ですね。根が長い」
茶の産地を味で判別した。この人は魔法は使えないが、水に関する知識は深い。水利局の長官が水の素人であるはずがない。
「おわかりになりますか」
「水利の仕事を三十年やっています。水の味は、わかります」
◇◇◇
交渉は穏やかに始まった。穏やかに始まるものほど、根が深い。
「フローラ殿。単刀直入に申します」
マティアスが茶碗を置いた。
「ヴァイスフェルト領の水脈崩壊は、国家レベルの問題です。あの領地の水は周辺三領の農業用水にも影響しています。崩壊から一年以上が経ち、被害は拡大している。復旧には、あなたの技術が必要です」
「それは理解しています」
「そしてあなたの技術は、王国で唯一のものです。王宮の植物魔法師四名にはこの技術がない。あなたを失うことは、国家的損失です」
失う。私は物ではない。失われるものではない。その言い方に、奥歯の裏が軋む。
「ですから、王宮直属として身分を保障し、相応の報酬を……」
「マティアス閣下」
遮った。丁寧に、でも明確に。
「私の技術は確かに希少です。ですが、技術は人に属するものであり、国家に属するものではありません。私を王宮に縛ることで技術を確保しようとするのは、問題の解決ではなく先送りです」
マティアスの目が細くなった。怒りではない。興味だ。
「先送り、とは」
「私が王宮で働いても、ヴァイスフェルトの水脈は直りません。復旧には現地での長期作業が必要で、王都にいては不可能です。そしてグリューネヴァルト領の荒野再生は中断されます。二つの問題を同時に解決したいなら、私をここに置くべきです」
自分でも驚くほど、淀みなく出た。十三年間、こんなふうに反論したことはなかった。ヴァイスフェルトでは「反論する権利がない」と思い込んでいた。でも権利がなかったのではない。反論を聞く耳がなかっただけだ。ここには耳がある。聞く人がいる。だから言葉が出る。
マティアスが腕を組んだ。
「論理的ですね。しかし、王宮としては管理下に置かない技術を野放しにはできない。前例がない」
「前例がなければ、作ればいい」
声が大きくなった。自分で気づいて、声を落とす。
「失礼しました。独立植物魔法師という制度を、提案します。王宮直属ではなく、王家の認可のもとで独立して活動する植物魔法師。技術は公開し、弟子も取る。属人化を防ぎつつ、現場で働ける体制です」
マティアスが沈黙した。長い沈黙。眼鏡の奥の目が、何かを計算している。
「……興味深い。しかし、あなたの技術が本物かどうかは、まだ王宮として確認していない」
「であれば、確認してください。試験でも、査察でも、受けます」
「学術委員会への出頭を求めます。そこで技術の安全性と公益性を審査する」
「受けます」
「拒否すれば、徴用命令は維持されます」
「拒否しません。自分の足で行きます」
◇◇◇
マティアスが去った後、応接間の空気が重かった。
エーリヒが窓際に立っている。背中が強張っている。拳が握られている。
「エーリヒ様」
返事がない。
「エーリヒ」
名前だけ呼ぶと、ようやく振り向いた。唇が一文字に結ばれている。
「あの男は、脅した」
「ええ」
「グリューネヴァルト領への支援停止を匂わせた」
「ええ」
マティアスは直接は言わなかった。でも、「あなたの領地の今後」という言い方で、充分に伝わった。フローラが来なければ、エーリヒの領地への王宮支援も危うい。人質に取られたのと同じだ。
エーリヒが壁に向かった。拳を振り上げかけて——止めた。止まった。
「……殴っても石が痛いだけだ」
自分に言い聞かせるような呟き。拳をゆっくり開く。手のひらが赤い。爪が食い込んでいた。
「待ってください」
作業場に走って、棚から軟膏を持ってきた。傷薬ではない。革手袋の下に塗る、手荒れ防止の軟膏。庭仕事で重宝している。
「手を」
エーリヒが戸惑った顔をした。手を差し出すのに、三秒かかった。
赤くなった手のひらに軟膏を塗る。この人の手は大きい。私の手が二つ入るくらい。土を運び、石を割り、壁を直す手。人を殴ることもできる手だ。でも殴らなかった。壁を、殴らなかった。
「壁は壊さないでください。直すのはあなたですから」
「……すまない。見苦しかった」
「見苦しくないです」
見苦しくはなかった。怒ってくれたのだ。私のために。自分の領地のために。怒りを飲み込めなかったのではなく、飲み込みたくなかったのだ。この人は三十三年間、感情を飲み込んできた。亡き妻を失ったときも、荒野で一人だったときも。
今日、飲み込まなかった。
それは弱さではない。




