第3話 水鏡が映したもの
リーゼが奇妙なことをした。
本格区画の端に、一本の苗木がある。先週植えた浄化蘭の幼苗で、根付きが悪く、葉が萎れかけていた。移植の衝撃が大きかったのだろう。明日、土壌を入れ替える予定にしていた。
朝の見回りでその苗を確認しようとしたら、リーゼが先に来ていた。しゃがんで、萎れた葉に両手をかざしている。触れてはいない。数センチの距離で、手のひらを向けているだけ。
「リーゼ?」
「しーっ。おはな、つかれてるの」
何のことだろうと思いながら、リーゼの手元を見た。
指先が、ほんの僅かに発光していた。
緑がかった淡い光。植物魔法の光だ。微弱だが、間違いない。私が深根樹に魔力を注ぐとき、指先に灯るのと同じ色。
声が出なかった。
リーゼは気づいていない。発光は数秒で消え、七歳の少女は何事もなかったように立ち上がった。
「お姉さま、おはなげんきになるかな」
「……どうかしら。明日、土を入れ替えてあげるね」
翌朝、苗を見に行った。萎れていた葉が、真っ直ぐ伸びていた。根が土を掴んでいる。一晩で回復した。ありえない速度だ。
偶然かもしれない。苗が自力で持ち直しただけかもしれない。
でも、リーゼの指先の光。あれは見間違いではない。
エーリヒの亡き妻。リーゼの母親。植物魔法の素養があったのだろうか。確かめる方法はない。亡き人に聞くことはできない。
ポケットの中で、手を握った。指先が温かい。安心、ではない。もっと複雑な何か。この子に植物魔法の才能があるなら、いつか教えることができるかもしれない。でも、今はまだ早い。七歳の子供に背負わせるには、この技術は重すぎる。
◇◇◇
商人のクラウスが月に一度の定期便でやってきた。帳簿の端に、最新の噂が挟まっている。この男は物を運ぶだけでなく、情報も運ぶ。
「ヴァイスフェルト領の件ですが」
「何かありましたか」
「王宮の水鏡魔法師が、公爵邸の庭跡を調査しました。いえ、正確には庭跡ではなく、馬場跡ですね。馬場に作り替えた土地を掘り返して」
クラウスが帳簿を捲る。メモが書き込んである。
「結果がすごかったそうですよ。地下に残っていた根の痕跡から、水鏡が映し出したのは『国家規模の水脈浄化システム』だと。水鏡魔法師が絶句したって話です」
国家規模。
私が十三年間、「趣味」と呼ばれながら維持してきたものの、正式な名前。
「ヴィクトル閣下……あ、もう閣下ではないですかね。ヴィクトル殿が王宮に報告していた『自分の施策による領地の繁栄』が、完全な虚偽だったと認定されたそうです。公式に。王璽付きで」
肩甲骨の間がぎゅっと硬くなる。怒りの反応だ。十三年前から知っていた。あの人が私の仕事を自分のものとして報告していたことを。知っていて、何も言えなかった。言う立場にいなかった。
今、王宮が公式に認めた。「あの庭は国家級のインフラだった」と。
嬉しい、のだろうか。認められたのだから。十三年間求め続けた「正当な評価」が、ようやく。
いいえ。違う。
認められて嬉しいなら、胸の底がこんなに重くはならない。今更認められたところで、戻らないものがある。十三年分の朝がある。誰にも見られなかった十三年分の、毎朝四時の作業がある。水をやり、魔力を注ぎ、根の成長を記録し、日誌を書いた。その一日一日を、王璽付きの公文書一枚で「正当に評価しました」と言われても。
「フローラ様?」
クラウスが顔を覗き込んでいた。
「ああ、すみません。ありがとう。他には」
「それと、ルートヴィヒ若様が庭の復元を続けているそうです。元の庭師の下で。若いのにえらいですよね」
ルートヴィヒ。十八歳になった義理の息子。先妻の子。私が二十歳で嫁いだとき、四歳だった男の子。
血の繋がりはない。でもこの子が泥だらけの絵を描いて「おかあさまのつち」と笑った記憶は、血よりも確かに私の中にある。
「えらい子ですよ。昔から」
そう答えた。声が少し揺れたかもしれない。
◇◇◇
夕食の席で、リーゼがいきなり聞いた。
「お姉さまはおとうさまのおよめさんになるの?」
エーリヒが箸を落とした。大麦のスープが少し跳ねた。
「リーゼ」
「だってみんないってるもん。メイドのヒルダがね、おねえさまはきっとおくさまになるよって」
エーリヒの耳の後ろが赤くなった。こういうとき、この人は何も言えなくなる。箸を拾い直す手が、僅かに震えている。
私も答えに詰まった。「およめさん」という言葉が、二十歳のときとは全く違う重さで響く。二十歳のとき、私は「およめさん」になった。白い結婚の、形だけの。
「どうかしらね」
曖昧に答えた。リーゼは「ふうん」と言ってスープに戻った。七歳児の関心は、大人の恋愛より大麦のスープの方が勝るらしい。
エーリヒは食事の残りを黙って平らげ、「……ごちそうさま」と小声で言って席を立った。背中が妙にまっすぐだ。意識してまっすぐにしている。この人の背筋が伸びるのは、緊張しているときだ。
一人になった食卓で、冷めたスープを啜った。
リーゼの質問は無邪気だったが、核心を突いていた。答えを先延ばしにしていることに、七歳の子供が気づいている。
大人二人が気づいていないわけがない。ただ、名前をつけるのが怖いだけだ。「恋人」とも「婚約者」とも呼べないまま、蜂蜜を入れたり帽子を拾ったりしている。
この関係に名前をつけるのは、まだ先でいい。
本当に?
テーブルの上の蜂蜜壺に、蝋燭の光が反射している。エーリヒが毎朝、この壺から匙で一掬い。それだけの動作に、名前はいらないのかもしれない。名前がなくても、味はわかる。甘い。確かに甘い。




