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『あの庭は妻の趣味だから潰せ』と仰ったそうですね。  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第2話 断る理由、断れない理由


翌朝、使者は帰った。「ご検討ください」という言葉を残して。検討。猶予を与えてくれたのか、それとも「どうせ断れない」という余裕なのか。


書斎で王命の文面をもう一度読む。末尾に但し書きがあった。


「本任命を辞退する場合、王宮植物魔法師資格の停止および魔法行使の制限を課すものとする」


資格の停止。魔法行使の制限。つまり、植物魔法を使えなくなる。


呼吸が浅くなった。舌の付け根が苦い。この苦味は知っている。ヴァイスフェルトで予算を打ち切られたときと同じ味だ。


十三年間、趣味と呼ばれた。断ったら今度は、資格を取り上げられる。


「奥様」


アルヴィンが書斎に入ってきた。手に分厚い本を抱えている。王国魔法法典。いつの間に手に入れたのだろう。


「王宮徴用令の条文を確認いたしました。第四十二条に例外規定がございます」


頁を開く。アルヴィンの節くれだった指が、一行を指し示す。


「『貴族の配偶者は、家門の権利を侵害するため、徴用の対象としない』」


貴族の配偶者。つまり伯爵夫人になれば、徴用は法的に無効になる。


エーリヒの顔が浮かんだ。すぐに打ち消す。そういう理由で結婚するのは、あの人に対して、というより、あの人との関係に対して、不誠実だ。


「ありがとう、アルヴィン。覚えておきます」


覚えておく、とだけ答えた。使うとは言わなかった。


◇◇◇


「視察に行く。来てほしい」


エーリヒが朝食の片付けの最中に言った。視察。本格区画の予定地だ。


本当は、二人きりで話がしたいのだと思った。この人が「視察」と言うとき、大抵は視察以外の目的がある。園芸道具を「消耗品の補充」と呼ぶのと同じ文法だ。


荒野を歩く。春の風が乾いているが、去年よりも湿り気がある。試験区画の深根樹が地下水脈を引き上げ始めた影響だろう。数値にすればわずかな変化だが、頬に当たる風で私にはわかる。


エーリヒは半歩前を歩く。背が高い。歩幅が大きい。私が追いつこうとすると、こちらを見もせずに少し速度を落とす。気づいている。いつも気づいている。


「ここが本格区画の北端だ」


エーリヒが立ち止まった。指で地平線を示す。褐色の大地が続いている。でもよく見ると、地面の色が少し変わっている場所がある。土壌の水分含有量が上がっているのだ。


「いい土地ですね。粘土層が薄い。根が通りやすい」


「そうらしいな。アルヴィンも同じことを言っていた」


風が強まった。帽子の縁が持ち上がる。押さえようとした瞬間、風が帽子をさらった。麦わらの日除け帽が、荒野の風に乗ってくるくると転がっていく。


「あ」


間の抜けた声が出た。追いかけようとした足を、エーリヒが追い越した。長い脚で三歩。帽子を拾い上げて、戻ってくる。


差し出された帽子を受け取ろうとしたとき、指が触れた。


エーリヒの指先は、いつも思うより温かい。土を運び、石を砕き、壁を直す手。荒れていて、硬くて、でも温かい。


二人とも動かなくなった。帽子を挟んで、指が触れたまま。風の音だけが聞こえる。


エーリヒが先に手を引いた。


「……風が強い」


それは天気の話ではない、と私は思った。たぶんこの人も、天気の話をしているつもりはない。


◇◇◇


帽子を被り直して、歩きながら話した。


「エーリヒ様。王命の件で、お話があります」


「聞いている」


「拒否する方法を探しています。でも、法的に拒否すれば魔法行使の制限が……」


「知っている。条文は読んだ」


この人も読んでいたのか。


「アルヴィンが見つけた例外規定も」


「……それも」


沈黙。風。砂の音。


「法的に戦う方法はある」


エーリヒの声が低くなった。「伯爵夫人になれば、徴用は無効になる」


やはりそこに行き着く。私が言葉を探している間に、エーリヒが先に着いていた。


「それは政略婚と同じではないですか」


口から出た。出してから、少し後悔した。直接的すぎた。でも、嘘はつきたくない。この人には。


エーリヒが足を止めた。横顔が見える。顎が強ばっている。怒ったのではない。言葉を探しているのだ。この人は言葉を探すとき、顎に力が入る。


長い沈黙。


「……そうだな」


それだけだった。


それだけ言って、また歩き始めた。否定しなかった。否定できなかったのか、否定する気がなかったのか。


背中を追いながら考えた。この人は正直だ。「違う」と言えるなら言っていた。嘘が下手な人が黙るのは、図星だからではない。答えがまだ見つからないからだ。


◇◇◇


夕方、作業場で一人になった。


窓の外、荒野の夕焼けが赤い。ヴァイスフェルトの夕焼けは金色だった。ここの夕焼けは赤い。土の色が空に映るのだと、エーリヒが以前言っていた。


ここにいたい。


そう思う。でも、なぜここにいたいのか、うまく言葉にできない。庭があるから? 仕事があるから? エーリヒがいるから? リーゼがいるから? 全部だ。全部だけど、全部を足しても「なぜ」の答えにはならない。


私は十三年間、理由があるから居場所にいた。政略婚だから。庭を守るために。息子がいるから。理由が消えたとき、居場所も消えた。


今度は、理由なしでここにいたい。


理由がなくても「いていい」場所を、私は三十四年間、一度も持ったことがない。


マティアスという男の真意がわからない。国益のために私を使いたいのか、王宮の失態を隠すために私を取り込みたいのか。あの男が何を考えているかを知らなければ、戦い方が決まらない。


テーブルの上に王命の文書が置いてある。蝋印の水滴紋章が、蝋燭の光で揺れている。


この人は悪い人ではない。


いや。悪い人ではないからこそ厄介なのだ。悪意なら断りやすい。善意と合理性で自由を奪いに来る相手には、善意と合理性で返さなければならない。


使者に言った言葉を思い出す。「私は王宮の道具ではなく、この土地の植物魔法師です。それを証明する機会をください」


証明。


また証明しなければならないのか。十三年間証明し続けて、誰にも見てもらえなかったのに。


でも、今度は違う。今度は、見てくれる人がいる場所で証明する。


窓の外の赤い夕焼けが、少しずつ紫に変わっていく。荒野の向こうで、深根樹のシルエットが風に揺れていた。

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