感度3000倍なんて怖くない!
バルティゴ都市国家連邦歴18年5月29日黄金の日。
イチは依頼主から話を聞くためにバウム魔法学院のスウィートバウム校に来ていた。
魔王大戦と呼ばれる魔王軍と全種族との戦いの後、世界は急速な復興と近代化により福祉の水準が急激に上昇した。
都市を中心に大病院や冒険者ギルドの施設が建てられはじめ、学校もこの時代に数を増やしていた。バルティゴ都市国家連邦が存在している時代では、教育に関する法は各都市国家の法によって違うが、都市国家バルティゴにおいては義務教育とまではなっていないがイチ達が冒険者として活躍した19世紀は庶民が学校に通うのも珍しくなくなってきた頃であった。
しかし、6年前に荒野で記憶を失った状態で見つかったイチには学校に関わった記憶がある訳もない。
なので、イチにとって魔法学院に招かれたのはちょっとした社会科見学気分を味わえた。
「すごいな。学校ってのはこんな感じなのか!」
この時代からすでに学校の一般的な形は固まりつつあった。
バウム魔法学院スウィートバウム校の校舎間取りは現代の大学と比べて見れば、コンクリートはまだなく外壁がレンガとモルタルで作られていたし、電気設備もなく、連邦の人口も現代より遙かに少なく生徒数も揃っていなかったので校舎の大きさも小規模だった。
しかしながらイチは初めて見る学院の景色に心が躍った。
校門から校舎内まで依頼主であるカスツールの案内を受けながらイチは、魔法の研究や魔法の修行に真面目に取り組む学生の姿に特に関心を持った。
「そんなに珍しいですか?」
カスツールは笑ってイチに問いかけた。
依頼主のカスツールはこの学院で教授の立場にいる人族の男で、背も高く顔も整っている。今日もいつものように少しくたびれたキャメル色の背広を着て、整髪料で茶色い髪をオールバックに固め銀縁のメガネをかけている。
今まで魔法の研究に人生を捧げて来たのだろう。歳は40を超えているようだが、年齢よりも枯れて見えた。
40を越えるという事は、彼は魔王大戦を生き抜いた人物という事である。
彼自身が魔王に抗う為の連合軍に従軍した記録は残されていないが、戦後その能力を認められて教授の職に就いているという事は一角の人物である事に間違いはないだろう。
「私は学校に通ったことがないからな。教室の中で本当にみんな並んで座ってノートをとってるんだな。眠くなったりしないのか?」
学校に通った事のないイチからすると勉学の為にずっと椅子に座り講義を聞くという世界が想像できないらしい。
「まあ、まれに眠ってしまう学生もいますが基本的にはみな真面目ですよ」
「しかし、制服っていうのはあれは学校から貰えるのか?」
「いえ、みなさん自腹で購入していただいております。何か気になる事でも?」
「あ、いや、なんでもない」
実はイチは制服に憧れていた。普段はゴツゴツとした素材の無骨な冒険装束ばかり着ているがそれは必要だからで、できれば可愛らしい制服を着てみたいと思っている。なんなら自腹でも良いから一着欲しいな、などと思っていた。
そうとはわからず不思議そうに笑うカスツールであったが、イチが学院内の色んな施設に(特に学院の食堂に酷く)興味を惹かれていたので早いところ要件伝えたほうが良いと思い、案内をそこそこにして彼の研究室に招く事にした。
◆
カスツールはイチを研究室に招くと、紅茶を簡単に出し、まずは彼女に自分の研究内容を理解させようと思いイチに顕微鏡を覗くよう促した。
イチは顕微鏡など見た事がないので仕組みがわからず、何か遠眼鏡のようなものかと思い中を覗きこむとレンズの中にとても細かい銃弾のようなものが不規則に動いていた。
実はこれは細菌なのだが、この時代は細菌という概念そのものがまだなかったのでイチはそれが何かわからず首を傾げた。
「なんだ? このなんか妙な黒いのがモゾモゾしてるのは。虫かなにかか?」
これは電子顕微鏡以前からあった旧時代的な光学顕微鏡であったが、カスツールの『光を集める魔法』により電子顕微鏡には及ばないまでもなんとか細菌を肉眼で見る事ができた。
「それは狂熱病そのものですよ」
「きょ__________!?」
カスツールの言葉にイチはまるで猫のように飛び跳ねて言葉を失った。
狂熱病とは17世紀後半から18世紀初頭にかけてバルティゴ連邦の存在するカンティネント大陸で猛威を振るった熱病である。
これに罹患したものは気が狂わんばかりの高熱にうなされ、酷い場合は発狂し生命を落とす。
現在でこそ対策が知られているが当時の致死率は6割ほどとも言われており、治療法のない不治の病であった。
イチが飛び上がるほど恐れるのも無理はない。
「ご安心を、こちらは我々の研究によって毒を弱めた狂熱病です。しかもシャーレ(ガラスの入れ物)に密封していれば感染する事はありえません」
そうは言われても死の病である狂熱病である。イチは「ほんとか?」「本当に大丈夫なんだな?」と何度も念を押して、それでも最後まで狂熱病に対する恐れはなくならず二度と顕微鏡に近づかなかった。
当時、知識層の中でも細菌やウィルスの感染により病を発症するメカニズムは知られていなかった。
何か呪いや魔術とも思われる事が多かったので、当時を鑑みればイチの反応はごく自然である。
「私とヘンナーは共同である研究をしていました」
いつのまにやら額に汗を浮かべているイチにカスツールは話はじめる。
「狂熱病の研究か?」
「正確に言うと違います」
カスツールはイチの質問を短く遮ると続けた。
「私たちの研究は狂熱病の特効薬です」
「特効薬だと! すごい研究じゃないか!」
「まだまだ未完成ですが、ね」
これが今日、狂熱病やバンドウウィルスを防ぎ数々の生命を病疫から救う『ワクチン』の原型となるものとはイチもカスツールもこの時はまだ知らない。
「正確には、完成直前でした。一度狂熱病に罹ったものは二度と狂熱病に罹らないのはご存じですか?」
「そんな話も聞いた事があるな」
「私とヘンナーはその不思議に着目し、狂熱病を乗り越えた者の体液が薬の材料になるのではないかと考えました。そこで連邦内の狂熱病を乗り越えた者を呼び、培養した狂熱病にその体液を与えたところ面白い事がわかったのです」
そう言うとカスツールは机に引き出しから数枚の絵を取り出すと広げた。
そこには鉛筆で写生された細菌が描かれていた。
「こちらがイチさんに先ほど見ていただいた狂熱病」
ヘンナーが指差した絵は確かにイチが先ほど顕微鏡で見た狂熱病の絵であるとわかる。
「こちらは狂熱病を克服した人族の体液を吸わせた狂熱病です」
先に見せられた絵とあまり変わらないが、後に見せられた絵はよく見ると銃弾のような粒の先端にあたる部分に尻尾のような線が生えている。
「私達は狂熱病を乗り越えた者の体液が狂熱病に影響を与える事を知り、トロルの子供を用いた実験によりやはり狂熱病から生き残った者の体液が狂熱病の症状を和らげる事を知りました」
トロルは病気に罹りやすいが生命力が強いため、今でも実験動物として扱われる事がある。
「すごいじゃないか」
実はイチはカスツールの話す内容に理解が追いついておらず、わかったふりをして頷くだけだった。
当時の時代背景とイチが教育を受けてない事を鑑みれば仕方がない。
ただ、なんとなく目の前の人物が大変に優れた研究者で狂熱病の薬を生み出そうとしている事は理解している。
「そして私達はついに、狂熱病を己に感染させ、体液から作った狂熱病の試薬を自分たちの身体で試したのです」
カスツールの言葉にイチは唾を飲み込まずにいられなかった。
自分自身を狂熱病に晒すなど正気の沙汰でない。
「結果は、成功と言えました」
カスツールはどこかハッキリとしない物言いをした。
と言うのも、カスツールらの実験は確かに成功し狂熱病に身体を蝕まれる事を回避したのである。
成功はしたが、体液投与後の副作用か、二人の身体に異常が発生した。
それは今であればワクチン投与後の副作用とわかっていたが当時そのような医療知識は生まれていない。
それ故にカスツールは恐れた。
身体に異常が現れた事よりも、カスツールとヘンナーでその異常の内容がまるで違った事のほうを恐れた。
「そしてその事が私とヘンナーの間に軋轢を生みはじめました」
カスツールは生み出された試薬について慎重であった。
更に実験を重ね、少なくとも薬の投与後の異常の正体を突き止めるべきだと主張し、ヘンナーも一旦はそれに同調した。
したが、ヘンナーは一刻も早く薬を実用化しようと焦っていたとカスツールは言う。
ヘンナーは兄弟を狂熱病で失っている。それ故に、薬を一刻も早く狂熱病に苦しむ患者に届けたかったのだろう。
「そして、初めのうち我々は地道に実験を続けましたが徐々に私とヘンナーとの間にある溝が浮き出てきました」
そして決定的な出来事が起きる。
スウィートバウムからそう遠くないとある村で狂熱病に罹患した子供の話を聞いたヘンナーとカスツールは現地に赴き、親の同意を得たうえで試薬を試した。
しかし、結果として試薬は効果を発揮せず、子供は病に命を奪われた。
この日からヘンナーは狂気に飲まれていった。
ヘンナーは試薬の強化に没頭するあまりカスツールと衝突するようになり、また行き過ぎた実験は試薬の強化のみならず、元の狂熱病よりも更に毒性の強い細菌をも生み出してしまったというのである。
「そして、ヘンナーは失踪しました」
彼が生み出した強毒の狂熱病と、試薬を持って。
「イチさん、ヘンナーを捕らえ狂熱病と試薬を取り戻してください」
このようにしてイチは狂熱病ワクチンの祖となった天才、カスツールとヘンナ―との戦い。そして狂熱病との戦いの中に巻き込まれていくのであった。




