変化
ネブロンの町は、年中雨だ。
時折曇りの日はあるが、天候は崩れやすく小雨程度なら傘すら持たないものが多い。
今日は、珍しく晴れの日だった。
港は海に出る人がまばらにおり、早朝だというのに忙しない。明かりは点在しそこそこ道が明るい為、深夜よりも治安が落ち着くのだ。
(出かける姿を見られても、基本スルーなのが有難いな)
フラン家のことは当然知られている。そして、私が関わりがあることも噂にはなっているだろう。興味深そうな視線がチクチク刺さるのはどうしようもない。
淡い光を放つ手持ちのカンテラが、カラン、と音を立てる。
懐中電灯でないのは、彼女がこっちの光のほうが好き、と言ったからだ。
(......しかし随分気に入っているな)
隣で歩くヴィレナさんをちらりと見上げる。
首元はいつもの緑のショールで、軽く方リボン巻をしていた。何度か気にするように触っていたが、その仕草が年相応に見えて随分可愛らしいなと思う。
(気に入ってくれたなら、やった甲斐がある)
彼女は視線に気づいて小首を傾げ微笑んでくる。しかし、周囲が気になるのかすぐに視線は外され、明かりのもとで作業する船乗りたちの動きをじっと観察していた。
「こんな朝早くからお仕事があるのですね」
「はい。魚も朝早くは寝ているので、取りやすいんですよ」
あまりにも彼女がじっと見つめるので、失礼を承知で軽く腕をトントンと叩く。あまり人を凝視するものではない。
「朝日を見逃しますよ、行きましょう」
彼女はすぐに目線を外し、一つ頷いた。持ってきた日傘をギュッと握りしめ、前を向く。
本当に聞き分けがいい。見違えるようだ。
カツン、カツン。
未だ湿気る道路に、二人分の革靴の音が鳴る。
街頭は点在し、淡い光を放ち道を照らす。
(.......いつ、謝ろうか)
道中、昨日のことがずっと頭から離れない。朝の彼女も随分落ち込んでいた様でずっと雰囲気が暗かった。
リボンに巻いてあげたら少し機嫌が直ったまでは良かったが、そこから先は何となく、気まずい。
(朝日が見終わったあと?朝食のとき?使用人がくる前には伝えなくては)
厚手のコートのポケットから懐中時計を確認すると、今は丁度朝の7時頃。見晴らし台につくと、まだ太陽は顔を出していなかった。頬を撫でる潮風が髪を揺らすのが擽ったくて、頬を擦るとその冷たさに肌がヒリヒリした。
「間に合いましたね、ヴィレナさん」
カンテラの明かりを消して、準備を整えた。
ほぅっと吐く息が白く、自然と空気に溶けていく。
「寒くないですか?」
「......ええ」
何か、少し返事が弱い。不思議に思って彼女の顔を見上げる。癖のある黒い髪は風に靡いて、彼女の顔を隠しており上手く見えなかった。
まっすぐ、正面を向いて彼女は微動だにしない。手に持った日傘を杖代わりにして、しゃんと立っていた。
少し、肩に力が入っている。なんでだ。
(まあ、朝日でも見たら彼女も少し気が紛れるかな)
その時、白んだ地平線上から、一筋の光が顔を出す。
(......眩しい)
神の目がこちらを静かに見つめ返す。
揺蕩う水面は煌めき、ざぁ、という波音は朝の静寂の中に溶け込んでいく。真っ白なカモメがキャアキャア鳴いて、羽ばたいていくのを眺めていた。
「ヴィレナさん、あの」
冷たい潮風の匂いを感じながら、貴重すぎる朝日を浴びてとても気分が良かった。だからこの清々しい気分のまま、一言謝ってしまおうと思った。
しかし。
バサッ。
「?」
彼女は日傘を、まるで日光から隠れるように差した。黒い手袋をはめた手が、ぎゅっと日傘の柄を握りしめる。一瞬見えた彼女の瞳は、苦しそうに歪んでいた、気がする。
「ヴィレナさん?どうしたんですか......?」
「すこし、眩しかっただけですわ」
にこ、とヴィレナさんが笑う。
ただいつもの雰囲気とは違い、僅かに引きつった顔。
(なんだ、この違和感)
彼女は顔以外は全身の露出がないうえで、日傘までしている。もはや傘ですっぽり顔さえ隠してしまっているので、日の当たる場所がない。
(......そういえばなんでこの人、朝日を見に来ているのに日傘持っているんだ?)
何かがおかしい。違和感がずっと脳裏をよぎり、しかしそれを正確に言葉にすることができない。もどかしさを感じていると、一瞬光がキラリと目の奥を刺す。ついそちらを見れば、神の目は私たちをじっと見つめていた。
熱烈なまでの光に、目が、離せない。
「うっ!」
暫く目を離せない時間が続き、気づいた時には目が乾いてついキツく目を閉じた。瞼の奥で奇妙な光のモヤが万華鏡のように広がっている。
痛い、眩しい。何で直射日光を熱心に見つめてしまったんだろう。
「は、あ......」
「?」
何か妙な声が聞こえ、隣をみる。目に入ったのは、ヴィレナさんが胸に手を当て浅く呼吸をしている姿。
「......ヴィレナさん?」
彼女の身体は震え、ついにしゃがみ込んでしまった。慌てて背中をさするが、酷く辛そうな様子はかわりない。呼吸も荒く、ぎゅう、と目を瞑っている。
「ヴィレナさん、どうしました!?」
「熱い、熱い、うぅ......!」
「ヴィレナさん、喋らなくていい。呼吸をしてください、深呼吸を、ゆっくりで大丈夫です」
首元に巻いた緑のショールを、彼女は命綱のように握りしめている。日陰のベンチに誘導し、時間をかけて息を整えていくと、彼女はようやく落ち着いてきたようだ。
浅かった呼吸も深くなり、黒い瞳が僅かに開く。
「ヴィレナさん、大丈夫ですか」
「申し訳、ありません、私」
「いいえ、体調不良は万人に起こること。問題ありません。大丈夫、私が側にいます」
この様な症状が急に出るなら、何か切っ掛けが必ずある。
しかし、思い当たらない。彼女の手足を軽く見てみたが、虫に刺された様子もない。ショールをずらして首元を確認してみたが、湿疹や炎症もない。
「私、太陽が、駄目なんです」
「いつもはどう対処されていましたか。して欲しいことは」
「はぁ、いいえ。このまま、日が当たることが無ければ、自然に、治ります」
これは日常的な発作か?アレルギーのような皮膚反応はない。なら精神的なものか?使用人に過去の症状聞いてみなければいけない。
このまま放置して日常を送らせてしまうのは危険だ、家に帰ったら必ず調べなければ。
けれどその前に、最優先すべきことは。
「ヴィクトル......?」
ショールを解いて頭から被せ、完全に視覚情報を無くす。
とにかく、自然に治るというのなら、早く彼女を安心させてやらねばならない。そのまま抱き寄せて、背中を擦る。慣れている人間が近くで感じられるほうがいいだろう。特に心臓の音は、安堵感を感じやすいと聞く。
「ヴィレナさん。大丈夫ですよ、少し気を張りすぎたんです」
「私、あなたに、喜んで貰いたかった、だけで」
「ええ、ええ。もう充分です。落ち着いたら、すぐに家へ帰りましょう」
彼女が完全に収まるまで、暫くその場に留まる。
カモメがケラケラ鳴く音が煩い。波の音さえ耳に響くようだった。
神の目は、変わらずじりじりと世界を照らす。
彼女を守るための影は酷く不安定な気がした。
──同日 午前8時 ヴィクトルの家
2階の、マンサード屋根の寝室。敷かれたベッドの上にいる彼女は、少し物憂げな顔をして考え込んでいた。
手元には、いつものキャッツアイのブローチが転がっている。
「ヴィレナさん、体調は?」
「問題ありません、旦那様」
屋根は布で遮られ、カンテラの揺らぐ橙色のあたたかな明かりが、彼女の白い肌をぼぅっと光らせる。
よかった。呼吸も安定しているようだ。あれから発作が起こることもない。
「手首を借りますね」
「はい」
素直に差し出された手を持って、脈を測る。
指先から伝う体温は、氷のように冷たい。まるで元々体温なんてないような。まさかな。まだ布団に入って間もない。冷えただけだろう。
「脈が弱いのは、元々ですか?」
「......ええ」
弱い、というより感じられない。
手が冷えているせいか?たまにそういう事はある。
「ヴィレナさん、失礼ですが首元の脈を測らせて頂きたい」
「旦那様、私は問題ありません」
「いえ、でも」
「問題ないですから」
ガシ、と強い力で伸ばした手を掴まれる。
痛みさえ感じる力に少し驚いたが、彼女を刺激する意味は今はない。これほど元気なら様子見のほうがいいだろう。彼女の雰囲気も、これ以上の接触は拒絶している。
「分かりました、もし悪化するようでしたら言ってください」
「大袈裟です」
「それぐらいが丁度いいんですよ、夫でしょう、私は」
「......」
ヴィレナさんの瞳が少し揺らめいた。手は私の手は掴んだまま、毛布のかかった膝上へ落ちる。力が、入っていない。
(......さすがに、今のはズルかったか)
彼女が常に言う言葉を返したら、反論できないと分かってて口にした。汚い大人だ。
流石に中腰はきついので、断ってベッドの上に座らせてもらう。彼女はずっと、口を開かない。温かなランプの光は彼女の顔を半分照らすが、その分影は濃く落ちる。
(彼女が少し、子供みたいだ)
彼女も大変なのだろう。強引に始まった生活とはいえ、元の生活よりもずっと不便は多いはずだ。知らぬ間にストレスを抱えることは想像がつく。特に年頃の女性としたら、尚更だ。
(あの子も、眠れない日はこういう顔をしていたな)
この部屋は狭い。カンテラの炎は温かく私たちを照らしている。
物語に出てくるブギーマンのような怪物が、入る隙はないのだ。だからそんな、不安そうな顔をする必要はない。
「ヴィレナさん、昨日の件なんですが」
「......はい」
カンテラの炎が、その身を揺蕩う。
「怒鳴ってしまってすみませんでした、混乱してしまい、決して本意では無かったんです」
「それは、ええ」
「もう、あの部屋には入らないでください。本当に鍵をつけます。あなたは軋んで開いた扉を閉めようとしてくれただけ。そうでしょう?」
「......」
こくり、とヴィレナさんが頷く。
黒髪がはらりと肩から滑り落ち、白い毛布の上を泳ぐ。
「正直に伝えなかった私が悪かったです。許してくれますか?」
「......こちらこそ、勝手に入ってしまい申し訳ありませんでした」
しゅん、と落ち込んだ様子の彼女が、不意に過去の記憶と重なった。空いた方の手が彼女の頭に伸びて、無意識に撫でる。柔らかく絹のような黒髪なのに、その一本一本が酷く冷え切っている。
「......?旦那様?」
「!っい、いえ。何でもありません」
ドキッと心臓が跳ねた。慌てて、手を引っ込める。
私は一体、何をしているんだ。必要もないのに、女性の髪を触るなど非常に宜しくない。
ヴィレナさんは、不思議そうな顔をして私を見ている。そりゃあそうだ、とにかく話題を変えなければ。
「な、何か、飲みますか?」
「......」
「え、ええっと」
「白湯を、一杯」
白湯か。温かな物を飲めば確かに落ち着くだろう。特に彼女の身体は冷え切っている。いい選択だ。タバコでも吸っている間に直ぐに作れるだろうし。
ミネラルウォーターはまだあったか、記憶をたどる。多分、あった気がするが。
「ヴィクトル」
「はい?」
扉を開ける瞬間、彼女の声に手をとめる。
振り返れば、彼女がカンテラの光を反射した黒い瞳で、じっと私を見ていた。
「何故貴方は、人に手を差し伸べるのですか?」
自分でも、眉間にシワが寄るのを感じた。
その問いに即答できるほど、私は清い人間ではない。
人に手を差し伸べるどころか、誰一人救うことなど出来ていないのだ。救おうとして、手を伸ばして、掴んだと思ったら掌から零れ落ちていく。
「私は、私が出来ることをしているだけですよ」
「......そうですか」
彼女はそれ以降、口を開かなかった。
パタン、と木製の扉を閉める。
彼女が少し変なのは、もう日常になってしまった。
(ただ、そろそろ落ち着いてくれたらいい。ついていくのが大変だ)
階段をギシ、ギシ、と踏みしめて降り、キッチンへ向かう。窓を少し開けると、小雨が降っている事に気づいた。はぁ、と息を吐くと温かい空気が漏れて窓の外へ消えていく。
結露で濡れた指をキッチンタオルで拭いながら、残念な気持ちが隠せない。
(やっぱり、短い時間だったな)
ポッケから取り出したタバコをくわえ、愛用のライターで火をつける。シュボ、という赤い熱と共に燃え移り、空気を餌に煙が上がる。
なんだかんだこの熱を感じる瞬間が、一番好きだ。
「ふぅ......」
溜息と共に、今度は健康に悪い白色の煙が窓の隙間から漏れていく。朝から色々と忙しかったが、ようやく一息つけた気がした。昨日の件も片付いたことで、肩の荷が下りた。
もう、元通りだろう。
『貴方は、まだ医者としての誇りが死んでいない』
2カ月前、彼女に言われたあの言葉が、私の心を撫でる。複雑な気持ちだった。あれだけ医者の自分を売り込んでおきながら、医者としての誇りが自分にあるか、なんて分からない。
とにかく必死で生きてきて、今ここにいる。本当に大事なものは護れずに、手先にいる健常者たちには『白い夢』を与え、己の良心は臭い物だと蓋をした。
そうしないと、生きてこれなかった。
未だに、娘の亡くなった時の記憶が脳裏にこびり付いている。
あれは今日みたいな晴れの日だった。
娘が、ニーナが、一緒に出かけようと私を誘って。
長靴で楽しそうに水溜まりを踏み抜き、飛び上がった水滴が朝日を浴び虹色に煌めいて、綺麗だったのを覚えている。
風に靡く柔らかなストレートの黒髪が、彼女の頬を撫でていた。
『────!』
確かに、楽しそうな雰囲気で何かを言っていた気がするのだ。
人間は、死人の声から忘れていく。
もう、あの子の声が、分からない。
カサッ
「......?」
視界の端で何かが動いた気がして、ふと我を取り戻す。
なんだ、と思って視線を動かしてみると、何か妙なものがコーヒーカップの中にいた。
「......蜘蛛?」
覗き込むと、酔っ払ったようなおかしな動きをした茶色の蜘蛛だった。毛がざわざわと蠢いて、4対の細い脚がぎこちなく藻掻く。
朝日を見に行く前、私が飲んだ後のコーヒーのカップ。飲みきってはいるが、濯ぐのを後回しにしたせいでまだ内容物が少し残っている。
蜘蛛はカフェインで酔うらしい。
なるほど、これを舐めたか。
(変な動きだ)
蜘蛛は必死に歩こうとしているが、フラフラと溺れるような動きしか出来ていない。濡れたカップの縁を登ろうとして、水滴が絡み、脚を滑らせズルズルと落ちる。悔しそうに脚がバラバラに蠢き、勝手に転ぶ。
何度も、何度も、無駄なことを繰り返す。
身体は泥にまみれたように茶色く汚れ、酷く苦しそうだった。
そのうち段々と動きが鈍くなっていき、ついには完全に止まる。時折、ピク。と動くから、死んではいないようだが。諦めたのか?
ベシャッ
カップを逆さまにすると、蜘蛛は背中からシンクに落ちた。衝撃に蜘蛛はまた少し動いて、失敗しながらも必死に身体を起こす。そして、あの筒状の地獄から解放されたことに喜んでいた。
気の所為、かもしれないが。
「......」
特別、何も考えてはいなかった。
ただ、弱くて、ふらついて、必死にもがこうとしても逃げられないその命が、酷く惨めに思えてしまった。
だから、短くなった煙草を持って、熱を持った先端を。
蜘蛛に、押し当てた。
──ジュ。
と、焦げる音が鳴る。小型の蜘蛛は一瞬大きく震えたが、次の瞬間には焦げた死体が残るばかりだった。放して、チョン、と突っついてみても動かない。
頭に何か模様があったようにも見えたが、もう焦げ跡と煙草の灰でよく分からなくなっていた。
(なんだ、こんなもんか)
毒があるといけないので、ティッシュで何重にも包んで捨てた。
そういえば、キッチンでの喫煙があの使用人にバレたら、軽い叱責が飛んでくる。気をつけなければ。私が家主なのに。
「カップは捨てておこう、気分が悪いし」
記憶を洗い流すように、蛇口を捻って冷たい流水を出した。
私は彼女のために、白湯を作らねばならないのだ。不潔な節足動物に構っている暇はない。
──同日 9時
「リベール、少しいいですか?」
「はい、勿論」
ヴィレナさんを診る為、今日は臨時休業となった。
出勤してきたいつもの使用人、リベールは、主人の状態を聞くと即座に協力を申し出てくれた。助かる。
「お嬢様が太陽が駄目?まさか、むしろ太陽を心待ちにする方でしたよ!」
使用人の彼女は高く結われた赤毛を揺らしながらそう言った。応接間のソファに座りながら、そばかすをぽりぽり掻き、灰色の目は二階の方を見る。
「こんな湿気た町から出て、太陽の下で過ごしたいってずっと言ってました」
「そうですか、発作のようなものは見られましたか?」
「旦那様、私はお嬢様が幼い頃からお仕えしています。でも、お嬢様はそんな素振り見せたことないです」
「貴方はどの程度彼女の世話を?」
「もう、全部ですよ。郵便も、お仕事の手配も。もちろん、ほかのメイドにも手伝ってもらってましたけど」
「嘘はありませんね」
「こんなくっだらない事で嘘ついてどうするんですかっ」
それなら、長年仕える使用人に隠し通すのは不可能だろう。発現は最近のはずだ。特に私の家に来てからだろう。
(調べなければ、何かあるはずだ)
「旦那様?」
リベールが恐る恐るといった風に声をかけてくる。
よほど、怖い顔をしていたのだろうか。眉間を解して、彼女に笑いかける。
周囲を不安にしてどうするんだ。
「はい、何ですか」
「旦那様はお嬢様のこと、恨んでないんですか?」
「なんですか、藪から棒に」
驚いて彼女の目を見れば、じっと私の目を射抜いてくる。この目は知っている。人懐っこそうな顔つきの彼女だから分かり辛いが。
これは人を、計る目だ。
「私、知っています。お嬢様が旦那様にしていた色々なこと。とても苦しくて、痛くて、辛かったはず」
「......それで?」
「今、お嬢様は弱っています。この際、少しだけ苦しめる、なんてしてもバチは当たらないんじゃないんですか?」
灰色の瞳は、私の顔の僅かな変化さえ見逃すまいと、じっと見つめてくる。彼女の言っていることは理解できた。
殴るものは殴り返される覚悟があるものだけがすること。
それが、この町の暗黙のルールだ。けれど。
「私は」
はく、と一瞬喉が詰まる。
「私は、手を貸しているだけです。出来るだけ」
殴られたとして、殴り返し続けていたら意味がない。人には、肉体の傷を癒やす場所が必要だ。
たとえその患者に過去何があったとしても、縋ってきた相手の寝首をかくようなことは私はしない。誰にでも平等な治療を受ける権利はある。
「彼女にも似たような事を聞かれました」
「それにはなんて答えたんです?」
「同じように」
「ふぅん」
もう隠すこともなく顔がにやついている。リベールはずいぶん好事家らしい。むしろこれだけのしたたかさがある方が、フラン家でやっていけるのだろう。
「ヤブ医者のくせに?」
一瞬、心臓がドキリと跳ねた。うっかりすれば、喉から出てしまうのでは、と言うほどに。
努めて冷静に、彼女を見る。強気のふりをしなければ、灰色の目双眼に怯え、震えてしまいそうだった。
「知ってたんですか」
「お嬢様が結婚するお相手です。当然でしょう?」
なるほど、だからこんな風に仕掛けてきたのか。
当然フラン家に信頼されているとは思っていない。ヤブが相手ならなおさらだ。リベールは彼女の使用人でもあるが、監査員としての役割もあるのだろう。
「私、人の嘘がわかるんです」
笑顔のまま、彼女はゆっくりと言う。
まだ、じっと私を見ている。輝く灰色の目の裏で、彼女が何を考えているのかは分からない。けれど、なんだか目を離してはいけない気がして、じっと我慢していた。
数秒後、彼女の双眼が、ふっと細められる。
「旦那様は、ねじ曲がってますね」
「......なんですか」
「いいえ?でも、私ねじ曲がった人好きなので。それに、不器用で酷くねじ曲がってるだけで、芯は腐ってなさそうですし」
「はぁ、酷い言いようですね」
「褒めてるんですよ〜!」
うふふ、と楽しそうに無邪気に笑う彼女は、一体私の何を見ているのだろうか。立ち上がって応接室を出ようと、彼女はドアの方へ向かう。高く結われた赤髪が、ゆらゆらと揺れている。
「あ、でも」
不意に思いついたように、彼女が綺麗にくるりと振り返る。
「なんか旦那様って、すぐ騙されそうですね」
「はい?」
「あはは、甘えられたらころっと行っちゃいそうですよね〜」
「何を、変なこと言わないでください」
「すみませぇ〜ん!」
全力で舐めてます!という態度でケラケラ笑いながらリベールは扉の向こうへ消えていった。あれが本性なのだろう。
とても楽しそうで、自由で、この家には似つかわしくないような気がした。
──1週間後 夜21時
ヴィレナさんはその日のうちに回復した。
本人曰く、帰ったあたりからもう普通に動けていましたよ。と小首を傾げられたが、自分の対処は合っていたと思っている。
調べていたら、このように特定のトリガーを踏んでしまった場合に、発作のようなものを起こす人もいるらしい。
まだ名前は正式に決まっていないが、一般的には不安神経症の一部、と言われているようだ。
(やっぱり、ストレスが原因か?)
このような病状が時折見られるのなら、彼女の父親が彼女を「病弱」と思うにも無理はないかもしれない。しかし彼女の様子を記録でつけていたが、あれから目立った病状はない。
(しばらく、様子見だな。太陽だけじゃなくて、強い光に反応するのかもしれないし。だから、懐中電灯よりカンテラを好んだ、というのはありそう......)
港での彼女のひと言が、脳裏をよぎる。
つい先程まで、頭から抜けていた彼女の明確な主張。
(熱い、って、何だ?)
神経不安症に、そんな症状あっただろうか。
彼女の事を考えれば、あまりジロジロ見られるのは嫌かもしれない。負担にならない程度に、観察を続けなければ。彼女は不安定な要素が多すぎる。
(そろそろ、彼女に寝る時間を知らせに行こう)
診察室の電気を消して、キッチンを経由し二階へ上がる。階段は明かりがないから、懐中電灯を持って。彼女が寝ている姿は見たことがない。こんな時間でも、部屋をノックすれば必ず「はい」と鈴のような声が聞こえてくる。不眠なのだろうか。
(睡眠不足、という事もあり得る。睡眠が確認できるまで側に、いや、気が散るか?)
悩みながら、寝室の前にいく。
元々は私の部屋だったのに、もうすっかり彼女の存在が馴染んでいる。
ちらり、と左奥の部屋を見た。
近々、使用人の彼女に頼んで鍵をつけて貰う予定だ。
あそこだけは、停まった時間で無ければいけない。
ふる、と頭を震わせ、思考を霧散させる。
今は、彼女に用があってきたのだ。
「ヴィレナさん、そろそろ寝る時間ですよ」
ノックと共に声をかける。
彼女はきっと、カンテラの明かりを頼りにまた本を読んでいるのだろう。たまに話を聞かせてもらうが、彼女は色々な小説を読んでいた。
今度はなんだろう、前に聞いたフランケンシュタイン博士の話は悲しい終わりをしたから、もっと楽しげな話も読んでほしいけれど。
「......ヴィレナさん?」
返事がない。今日は疲れて眠ってしまったのだろうか。安全を確認したい気持ちと、少しの好奇心が混ざったまま、失礼します、と声をかけて扉を空けた。
「あれ?」
彼女がいない。
ベッドの上はもぬけの殻で、あのカンテラは彼女と共に姿を消していた。ということは、部屋を出たはずだ。
(どこへ?裏口から外へ出た?)
いや、ありえない。裏口は鍵がかかっているし、その鍵は常に私の部屋にある。
「.......あの部屋?」
二階の奥の部屋。娘の部屋の前に急いで行ってみるが、取っ手に薄く撫で付けた小麦粉が乱れていない。こういう細工は妙な所で役に立つ。
「どこにいったんですか、ヴィレナさん......!」
出口は診療所の玄関しかない。
となれば彼女はまだ家を出ていないはず。こんな時間に一人で外出するのはとても危ない。
家の全て明かりをつけて、見て回ったがどこにもいない。玄関の鍵も閉まっている。以前持っていた合鍵は、使用人の彼女に渡していたはずなので今の彼女は持っていない。
外に出たなら、鍵が空いているはずだ。
地上にはどこにもいない。家から出てもいない。窓も一つも空いていない。
最悪の想像が脳裏をよぎる。
「まさか、地下......?」
考えた瞬間、全身が冷水を浴びたように一気に冷えた。
「.............」
脳に水面のような静けさが支配していく。
全身から血の気が引いていくが、冴えた頭は理屈を飛ばして、既に身体へと命令を下していた。
キッチンの奥から果物ナイフを取り出して、ポケットに隠し地下室への階段へと向かう。
一連の動作に、何の躊躇もなかった。
二階の階段の側。静かに開くと、地下に続く階段の奥から、明かりが漏れている。
(ヴィレナさんは、どうして約束を守らないんだ)
カツン、カツン。と己の靴音が階段に響く。
いないでくれ。私が電気を消し忘れたのだと、そうだと言ってくれ。脳の一部でそんな声が聞こえるが、視界は驚くほどクリアで彼女を探している。
「──ヴィレナさん、ここは降りてはいけないと、言ったでしょう?」
階段を降りきった先、裸の豆電球が揺れる狭い地下の空間に、彼女はいた。癖のある黒髪は背中を流れ落ち、彼女の顔は見えない。
「ヴィクトル・フラン」
彼女の声が、いつもより、重い。
当然だろう、そんなものを見てしまっては。
「これは、どういうことだ?」
彼女が振り返る。
黒い瞳は無機質で、相変わらず感情が読めない。
ギラリ、とキャッツアイのエメラルドブローチが反射で光ったような気がした。
「見てわかりませんか?」
彼女の目の前あるのは、大きなガラスの、筒状の機械。
中は擬似羊水で満たされ、その白い体の構築を助けている。まだ、身体が完全じゃない。外見だけで、脳や臓器はできていない。不完全な身体。
「娘のニーナです」
私は、出来かけの娘の体を前にして、力なく笑うしか無かった。




