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 「盲点でした」


 お行儀よくキッチンの安物椅子に座った彼女は、困ったように小首を傾げた。装飾の無いこの場所が、彼女の存在だけで妙に華やかに見える。

 

 「まさか、この国が原則は夫婦別姓だなんて」

 「.....この国に何年住んでらっしゃるんですか」

 「誕生は19年前ですね。五月で20年になります」

 (19かー、若いなー)

 

 もはや現実逃避の思考しか出てこない。

 この国の成人は21だ。大人の卵とはいえ、法律上では未だ未成年扱いの彼女が世間知らずでも無理はないのだろうか。

 シトラスの香りをさせていた頃の彼女が、時折異性がどうのと話していたので、知っていると思っていたが。


 「しかし、結婚で来たので問題ありません」


 シンプルな銀の結婚指輪が彼女の指でキラリと光る。

 今、書類上私たちは夫婦。障害が取り払われた後は行動が早く、いつの間にか手続きが済んでしまっていた。あの額でフラン家が「ヴィクトルという町医者」を買い上げたようなものだ。

 現実感がなさすぎる。


 「フランさん」

 「何故、妻をファミリーネームで呼ぶのですか?」

 「えっ」

 「ヴィレナ、と呼んで頂いた方が自然かと」

 「ヴィ、ヴィレナ、さん」

 「ええ、それでよろしいです、旦那様」


 当然といった雰囲気で、彼女は軽く頷いた。

 どういう情緒しているのか本当に知りたい。彼女は少し前には私を痛めつけて遊んでいた女だ。それがどうして今、私が呼ぶ名前を修正して、嬉しそうに笑っているのか。


 「では、できる限りフランを名乗ってください」

 「えっ、どうしてですか」

 「そのほうが仲の良い夫婦として自然でしょう」


 何も自然じゃない。けれど拒否する理由もない。

 いやしかし、最近の彼女は少しなら私の意見を聞いてくれる傾向があるから、もしかしたら。


 「公的な名前はそのままで構いません。裁判所を経由するのにも時間が掛かる、それは面倒です」

 「あの、フラ......ヴィレナ、さん。そんな事をしたとこで、あまり意味は」

 「貴方はヴィクトル・フラン。いいですね」

 「あ、はい」


 彼女はもう一度頷いて、キッチンの窓を見た。

 レースカーテンは閉め切られているが、雨とはいえ昼間なので多少の光が漏れる。それを酷く眩しそうに、少し不愉快そうに見る彼女は印象的だった。


 (彼女は少し、変だ)


 唐突に結婚を言い出したあの日から、ずっと変だ。

 フラン家の屋敷にて、当主と地獄顔合わせをした後、彼女の希望で結婚式は行われなかった。


 『夫とあの家で静かに過ごしたいので、日の下で綺羅びやかな結婚式は不要です』


 その一言があまりにも衝撃的だったのか、近くの使用人がぎょっとした目で彼女を見たのを思い出す。告げられた当主も一拍の間、目を丸くしていた。すぐに調子を戻したが。


 (......元々派手好きの筈だ、彼女は)


 ずっと、違和感が拭えない。

 香水を変えたのも、白いスーツドレスが黒のドレスになったのも、言葉遣いの丁寧さも、妙な聞き分けの良さも、派手好きが息を潜めたのも。

 

 (この人は、本当にフランさんなのか?)

 

 出されたお気に入りの紅茶にさえ、彼女は一度も手を出さない。以前は当然のように嗜んでいたのに。

 それに、どうしても気になることが一つ。

 

 「あの、フラ、ヴィレナさん」

 「はい」

 

 ファデルさんの件ですが。

 喉元まで出かかった言葉を、飲み込んだ。


 アンバー・ファデル。私の前妻。

 彼女は新聞に載る前日、1月10日に、腐敗した状態で自宅で見つかったそうだ。警察の捜査と町の噂によれば、直接の死因は己の吐瀉物での窒息死だった。近くには割れた酒瓶が転がり、家はゴミ屋敷で腐敗した身体に無数の虫が集っていたらしい。

 大酒飲みで泡商売をしていた彼女は、異常なほどに己の美しさを気にしていた。金の髪を靡かせて、美しく無ければ意味がないとさえ言っていたのに。

 その最期はあまりにも酷い。


 (フラン家は、何も、していないんですよね?)


 あまりにも突然で自然な死に方。

 いつ死んでも分からないような女性だった事は確かだ。私も彼女に良い思い出は無い。

 だからといって、人の死を悼まない理由はない。

 たとえ彼女が、自分の娘の世話をすべて放棄するような、最悪の女性だったとしても。


 「何か」


 雨音を遮り、凛とした鈴のような声が響く。そこで、一気に現実に引き戻された。


 「いえ、その......」

 

 目の前の黒い瞳は、感情がわからない。

 以前の嗜虐的な光さえ灯さず、ただ黒いガラス玉が付いているだけのようだった。

 人形を相手にしているようで、気味が悪い。


 「ね、寝る場所が、ないんですよ、この家」

 「......寝る、場所?」


 思い切りねじ曲げた話題は、明後日の方向へ着地した。

 住居スペースになっているこの家の2階は、あまり広くはない。

 改装された屋根裏の部屋が2つと、備え付けの小さな洗面所があるだけ。

 

 「部屋は、余っていないのですね」

 「上にある部屋は、2つありますけど、一つは」


 一瞬、雨音が消えた。

 口が固く凍り、息が詰まる。

 瞬きをした瞬間には、言い訳は完成していた。


 「......ただの、倉庫です」

 「倉庫でも構いませんよ、私は」

 「駄目です」


 初めて彼女がぱちぱちと瞬きをした。

 自分の口が、感情なく淡々と言葉を続ける。


 「私の部屋を使ってください。整えておきます。私は一階の薬の保管庫を使います。簡易ベッドがありますので、問題ないでしょう」


 彼女は不思議そうに、私の目を覗き込む。

 湿気た冷たい空気と濃艶なアンバーの香りが、じっとりと肌の上を撫で上げた。

 不愉快だ。本当に。

 

 「倉庫は鍵を無くしてしまいました。だから入れません」

 「それは、不便ではないですか?」

 「いいえ。大したものは入っていません、色々なものが転がっている筈ですので、鍵を見つけても入らないでください」


 自分の部屋は衣類が散らかっているから、さっさと一階に持っていかなくてはならない。保管庫は薬の盗難防止のためにある部屋だったが、この際構わないだろう。耳栓さえしてしまえば、少しはマシになる筈だ。

 

 「......なるほど、事情は分かりました」

 

 少し考え込んだあと、彼女は一つ頷いた。

 緊張が走っていた全身が解れ、気付かれないようほっと息をつく。一気に周囲の音が戻り、激しい雨音につい窓を一瞥した。

 本当に、彼女は何を言い出すのかわからない。


 「ですが、通いの使用人を一人つけます。宜しいですね」

 「へっな、何故」

 「何故?当然でしょう?」


 立ち上がって、彼女はキッチンを軽く歩き回る。

 冷たい銀の蛇口に、青白い指を滑らせた。


 「あなたの性格上、水回りは清潔ですが......少し清潔すぎる。食事をまともに取っていないでしょう?栄養面も偏っているようで」


 つい、炎症の残る右頬のニキビを触る。

 彼女の言っていることは図星だ。仕事の忙しさにかまけて、自分の管理はできていない。

 食事はほとんどは既製品で、栄養面を突かれたら何も反論ができない。


 「それと、掃除も。パット見は綺麗にできていますが、四隅に埃が溜まっている」

 「うっ」

 「しかし、貴方も忙しい身。むしろある程度清潔に保てている事自体が素晴らしい。尊敬に値します」

 「は、はあ......」


 褒め言葉を口にする彼女。

 フォローのつもりか?と盗み見るように顔を見上げれば、無表情の彼女と目が合った。黒くて底が見えないのに、打算も策略もない真っ直ぐな目。


 「貴方は私に住居を与え、貴方の生活を私が支える。それが健全な夫婦というものではないのですか?」

 

 どうしよう。物凄くまともな事をあのヴィレナ・フランが言っている。


 あの無茶苦茶で、気分屋で、時々変なことを言い出す彼女が。しかも特に取引などなく、真っ直ぐな瞳で。

 返事に迷っていると、いきなり目と鼻の先まで顔を近づけられた。


 「ッ!?」

 

 ぐい。

 と、彼女が私のあごを持ち上げる。それだけで首を絞められたように息が詰まり、全身が硬直した。

 彼女の驚くほど冷たい手からは逃げられず、漆黒の瞳から目線を外すことができない。彼女の身体で部屋の光は遮られ、アンバーの香りは狭い空間をふわりと漂う。

 お互いの吐息がかかるほど、近い。

 

 「お返事は、ヴィクトル」

 

 コクコク、と頷くだけで精一杯だった。

 彼女が口角を上げる瞬間が、スローモーションで見える。きっと一瞬の事ではあった筈が、私にとってはずっと長く感じられた。

 視界は黒と白で埋め尽くされ、大きく開かれた虹彩の皺一つまで視認できるほど、近い。


 「よろしい、良い子ですね、旦那様」


 満足したのか、彼女はすぐに手を離すと軽やかに自分の席へと戻っていった。

 

 「っは、ぁ......!」


 彼女が離れたことで、冷や汗が一気に噴き出す。

 思い出したように手が震え、四肢は枷が嵌められたようにずっしりと重くなる。

 逃げたい。でも、逃げる気が根こそぎ奪われていくような。逃げるための熱を、脳から吸い上げられて行くような。


 (気味が悪い、ずっと、気味が悪い......!)

 

 暴力と痛みで教育された恐怖は覚えている。でも、昔の彼女はもっと感情的で、無理やりで、こんな『懐柔』という言葉が似合う支配はしてこなかった。

 支配の質まで、何もかも、何もかもが違いすぎる。


 「あなた、誰、ですか?」


 もう精一杯で、言葉を包む余裕もなかった。

 ただ思った疑問を言葉にして、彼女にぶつける。

 きっとシトラスの香りをさせていた頃の彼女は、少し拗ねたり怒ったりして私への罵倒を吐くはずだ。


 「貴方の妻ですわ、旦那様」


 アンバーの香るヴィレナ・フランは、ただふわりと笑うだけだった。

 

──1966年 3月


 「2階の倉庫には行かないでください、診療所と、それと地下にも。あそこは1階とは別に保存用の薬があるので、触れられると困ります」


 使用人と彼女にそう告げてから数ヶ月が経った。

 彼女の言う通り、家は充分回るようになった。使用人は家事だけして本当にさっさと帰っていく。

 一方の彼女といえば、静かに読書をするだけで派手に遊び回ったりもしない。


 (ヤブとは口が裂けても言えないな)


 フラン家は私を買い上げた。

 正直に言うと、私は資格など持ってないし、知識は全て数年間の師事をした時に得た物だ。この町は秘密を抱える者ばかりであるし、何とかバレずには済んでいる。

 本当は大学に行って資格を取りたかったが、そんな時間も資金も、とてもじゃないが無かった。


 「やあ、ヴィクトル先生」


 カルテを記入しながら待っていると、ノックもせずに入ってきたのはスーツを着た身なりのいい壮年の男。帽子は頑なに脱がず、幽霊のような生気のなさに上がる口角は相変わらず。

 『常連』だ。

 カルテの名前も丁度書き終わった。彼は予約の時間はマチマチだが、必ず5分前に来る。

 遅れたことは一度もない。


 「元気ぃ?」

 「お陰様で」


 機嫌が良さそうな声で語りかけてくる。『キャンディ』がよく売れたようだ。彼が当たり前のように対面の椅子へ座ると、やたら診療所が狭く感じる。

 体格が良いというのも、窮屈で大変そうだ。

 

 「面白い話を持ってきたんだけど──」

 

 いつも通り注文を受ける。特に注文には変わりない。

 席を立って、あれを持ってくる。今回は少し特殊だ。


 「はい、こちらです」


 持ってきた紙をみて、彼は不思議そうに首をひねった。

 いつもならここで『処方箋』の小袋を手渡して終わりなのだが、彼に渡した紙に書いてあるのはただの住所だ。


 「これは?」

 「最近、患者さんが増えたので薬剤師を雇いまして。今度からは処方箋はこちらでお渡しいたします」

 「へぇ......?」

 「こちらではお子さん用のお菓子も用意していますから。直接お求めいただけますよ。うちではもう置いてないので」


 暗に、ここではもう薬の販売をしない事を告げる。

 男は思案するように顎に手を置いて考えていたが、一つ大きく頷いてにやりと笑った。

 狼のような大きな犬歯が見えたが、見なかったことにしておこう。

 秘密の追及など、この町ではセンスがない。

 

 「そっか。ヴィクトル先生も忙しいもんね。商売繁盛で何より何より」

 「何を冗談言ってるんですか、全く」

 「診察はここ?」

 「いえ、向こうで直接お願いします」

 「分かったよ〜」

 

 この男には、よっぽどの事がない限りもう会わないだろう。彼は自分の持つ狼印の懐中時計で時間を確認しながら、何度か頷いた。帰る時、帽子のツバを摘んで会釈しながら、彼は変わらない声で笑う。


 「じゃあ、さよならヴィクトル先生」

 「ええ、二度と来ないでくださいね」


 パタン、と音がして扉が閉まる。

 診療所は相変わらずの落ち着いた空気に支配され、ふぅ、と一つため息をついた。

 これはヴィレナさんからの指示だ。流石にフラン家の婿が手を染め続けるのはマズいとのことで、別の債務者に窓口が移った。


 (今更だ。足を洗ったとして手は汚れたままだし)

 

 言葉遊びを一人でして、ふん、と鼻で笑う。

 私の犯した罪が消えるわけではない。私の売った薬で苦しむ人々も、きっとこの町にはいるだろう。

 だが、それを気にする余裕は私には無い。

 そこまで聖人君子でいられるほど、出来た人間ではないのだ。


 (とりあえず、カルテをまとめて閉め作業に入ろう)


 もうすっかり日は落ちた。白熱電球の明かりを頼りに、小さなラジオを棚の奥から出して、テキトウにチャンネルを合わせてみる。丁度良くスローテンポのインストの曲が流れていたので、少し気分が良かった。歌詞のない曲は何も考えずに済む。


 曲が暫く続いた後、一拍の無音。

 低く落ち着いた男性の声。


 「こちらは、ラジオ・クロノ」


 わずかな間。


 「4回目の合図のあと、丁度19時になります」


 ぴ、ぴ、ぴ、ぽーん。


 「ラジオ・クロノ。今日も正確に19時です。こんばんは、皆様。明日は晴れ。よい天気になるでしょう!さて次の音楽は、多くの若者を魅了しているアーティストの──」


 カチン、と最後に玄関の鍵をかけた。

 カーテンはすでに閉め切っているから、このままでもいいだろう。白衣は脱いで丁寧に掛けておき、書類をすべてまとめて、診療所の電気を消す。

 ラジオはまた明日聴いたらいい。止めて、また棚へ戻す。

 

 「あら、お疲れ様でした、旦那様」


 キッチンに続く扉に手を掛けようとして、急に内側から扉が開く。彼女の使用人が丁度出ようとしていたようで、丁寧な所作で一礼をする。モノトーンの落ち着いたメイド服は、フラン家の財力を感じられる。

 多分私の服よりいい生地を使っている。


 「ええ、お疲れ様です。彼女は?」

 「お嬢様は既にお席につかれております。食器の洗い物は──」

 「やっておきます、そのまま帰宅していただいて構いません」

 「畏まりました、それでは私はこれで失礼いたします」

 「ああ、待って。電気をつけますね」


 使用人を見送った後、再度電気を消してキッチンから漏れる明かりの方に目をやった。木製の扉を開くと、白熱電球に照らされた部屋が眩しい気がして少し目を細める。

 いい匂いだ。後ろ手に扉を閉めながら、椅子に座って本を読み耽る彼女に声をかける。


 「ヴィレナさん」

 「はい、お仕事は終わったのですか?」

 「ええ、不足なく」


 キッチンの机のうえにあるのは、丁寧に焼かれたオムレツとグリーンサラダ。野菜のスープに白パン、そして小さなチーズ。

 非常に美味しそうな夕食だ。以前とは比べられないほどまともである。そして品数が多い。とても嬉しい。

 ただ、やはりおかしな点が一つ。


 「やはり、食べないのですか?」

 「ええ。私は軽く頂きましたから」


 料理があるのは1人分で、彼女の目の前にはミネラルウォーターが入ったカップが一つ。初めて食事を共にする時は驚いたが、ヴィレナさんは問題ない、と言い、使用人の彼女も首を傾げるばかりだった。

 人に食事を取る所を見られるのが恥ずかしい。との事だったが、それで理由が付くものだろうか。

 拒食や偏食は健康を害する。一度診察を、と申し出たが笑顔で断られてしまった。


 「本当に、食べていますか?」

 「はい。問題なく」


 彼女はこちらを一瞥もせず、本のページをペラリとめくる。ここ数ヶ月のことでいい加減慣れはしたが、一人での食事は味気ないものだ。書類は棚の隅におく。ここなら濡れない。

 手を洗って席に着くと、ヴィレナさんがじっと私の方を見つめていた。


 「なんでしょう」

 「お構いなく。私はあなたが健康的に食事をしている姿を見たいだけなので」

 「あの、気まずいのですが」

 「......繊細ですね」


 自分のことは棚に上げているくせに。

 少し抗議をしていたら、渋々と言った様子で本に目を落とした。時折見られてはいるが、ある程度はマシになったろう。

 キッチンに響くのは、2人分の食器の音。ヴィレナさんが時々紙のページをめくる音。時折、窓の外から車が水をはねる音も混ざる。


 (重いなあ、空気が)


 食事を飲み込む音さえ気を使う。お互いは無言で、対面に座るだけ。アンバーの香りはもうしない。彼女は此処に住み始めてからまた変わった。


 (なんか、ラフになったなヴィレナさん)

 

 格好も灰色のハイネックに黒のフレンチスカートになり、高く結い上げていた黒髪は流すようになった。ハイヒールも疲れる、という理由でヒールの低い黒の革靴に変わった。

 変わらないのは、キャッツアイのブローチ。そして光のない黒い瞳。それと膝上に掛かった緑のショールぐらいか。

 返してくれないかな、あれ。


 「あの、ヴィレナさん」

 「はい」

 「何を、読まれているんですか?」


 目に入った本が、いつもの厚い本とは違い雑誌だった事もあって声をかける。

 彼女は不思議そうに小首をかしげた。


 「料理の本です」

 「料理?」

 「ええ。私も何か作りたいと思って」


 彼女が?料理?

 とてもじゃないがイメージが沸かない。作ってもらうのが当たり前、の振る舞いのほうが想像ができる。


 「作るって、何を?」

 「決めていません。ですが、妻が夫へが料理を振る舞うのは自然なことでは?丁度、教師役もいますし」


 彼女が言うのは使用人のことだろう。今食べているこの料理は確かに美味しい。あの使用人がどれほどフラン家に仕えているのかは知らないが、熟練した技術によるものだとは私でもわかる。


 「悩んでいるんです、旦那様は何が食べたいですか?」

 

 ここで断ったら無言で睨みつけられそうだ。

 少なくとも昔の彼女はそういう振る舞いをしただろう。

 いまいち、今の彼女の性格が分からず過去基準ではあるが。


 「えっと、卵料理とかは、好きです」

 「卵」

 「ええ。昔よく作りました、簡単ですよ」

 「お料理ができるのですか?」

 「ええ、まあ。娘が好きで──」


 そこまで言って、はっと息が詰まる。

 彼女の前で言うつもりはなかった。だからコホンと一つ咳をして、笑って誤魔化す。


 「娘さん」

 「はは、すみません。忘れてください。料理の話を」

 「2階の、奥の部屋に住んでいた方ですか」


 カチン。と。

 一切の時間が止まったようだった。身体は硬直し、彼女のほうに顔を向けるのも、油をさしていないブリキの人形のような動きだった。

 2階。奥の部屋。なぜ。


 「どうして、それを」

 「倉庫と聞いていましたが、鍵がついていなかったので」

 「入ったのですか」

 「ええ」


 頭の整理がつく前に、カッと頭に血が上っていく感覚がした。視界が一気に狭まっていく。


 「なぜ、なぜ入ったんですか」

 「扉が開いていたからです。老朽化で扉の立て付けが悪くなって、閉めようと思って──」

 「そうじゃなくて、どうして!どうして入ったんですか!!!」

 

 信じられない。どうしてもあの部屋だけは閉めて置かなければいけなかったのに。何故勝手に入った。どうして彼女は約束を守らない。

 手が震える、喉が引きつり、息が浅くなる。


 「旦那様......?」

 「そのおかしな呼び方をやめてください!どうして貴方は小さな約束一つも守れないのですか!!どうしていつも私の大切な場所に土足で入ってくる!!!」

 「私は──」

 

 彼女の声が脳に届くたび、怒りが燃え上がる。

 一部の理性が駄目だと叫んでいるのに、慣れない怒りに振り回されている。自覚があるのに、焼けるような痛みが胸を焦がして止められない。


 「──ッ゛!!」


 唇を必死に噛んで、言葉を遮る。

 落ち着け。これ以上の言葉は彼女を酷く傷つける。

 大丈夫。大丈夫。落ち着け。とにかく、まずは。


 「旦那様、あの」

 「.......席を、外します」


 足早にその場を去る。

 彼女の顔など全く見れず、暗い診察室に飛び込んだ。奥にある保管庫へ入ると、乱暴に扉を閉める。

 あの部屋は、娘の存在を唯一証明する部屋だ。

 

 彼女の、生きていた証を。

 証明してくれる、部屋だ。


 それを、彼女は勝手に空けて。


 「はぁ、はぁ......!」


 ドク、ドク、と鳴り響く心臓を必死に落ち着ける。

 簡易ベッドに横たわれば、ようやく少し余裕ができた。

 突然大声を出したせいで喉は痛みを主張し、落ち着くまで時間がかかる。

 タバコを吸おうとして、場所が場所なのでやめた。暗くて見えないし、今は夜だ。外に出るのも少し危ない。


 (大丈夫、判断はできている、問題ない)


 おでこに手を置くと、少し熱っぽくなっていた。

 この部屋は毛布に包まらない限り寒さが身を撫でる。今の自分にはちょうど良かった。彼女は決して自分で開けた訳じゃない。開いた扉を閉めようとしていただけど、言っていたじゃないか。


──それに、地下には踏み込まれていない。


 暫く、息を整えていると、ゆっくり身体の緊張がほぐれていく。浅かった呼吸は深くなり、ぐったりとした疲労感が全身を襲う。

 怒るのは、慣れない。

 

 「......疲れた」


 目の端に溜まった水を拭って、毛布を手繰り寄せる。

 暗い密室で1人きり。緩やかに眠りに落ちていった。


 ...........

 

 「さむ」


 ぱっと目を覚ますと、薄暗い部屋。

 小さな窓ガラスはあれど、まだ暗い。


 「今、何時だ」


 手探りで懐中電灯を探し出し、持ち込んだ時計をみる。

 午前5時。まだ薄暗い。


 「......シャワー浴びるか」


 流石にこのままだと不潔だ。

 のそのそと起き出して、着替えを持ち懐中電灯片手に一階のバスルームへと向かう。キッチンを経由する必要はあったが、電気をつけても彼女の姿はなく皿は片付けられていた。

 昨日の光景がフラッシュバックする。

 彼女はどんな表情をしていただろうか。


 「気まずい......」


 シャワーを浴びながら、清潔に体を洗っていく。

 温かいお湯に打たれていると少し気分が軽くなる。彼女が起きてくるまで時間があるだろう。改めて、昨日大声を出してしまったことは謝る事が最優先だ。


 (歯も磨いてしまおうか)


 すぐに朝食を食べるから意味ないか。と一瞬脳を過ったが、気分的に良くない。体を拭いて着替え、歯磨き始める。


 (顔色が少し、変わったか?)


 整えられた食事のおかげで顔色は確実に良くなっている。右頬のニキビはすっかりなくなり、髪の艶もいい。クマはもう色素が沈着しているのか治る気がしないが、充分眠れている。

 多少やつれてはいるものの、健康的という言葉が似合う顔色をしていた。

 

 春と言えど、まだ寒さが身に沁みる。

 少し重めのニットを着てしまえば問題はない。明るい色の服を選ぶと気持ちが楽になる。なんて昔ラジオで言っていたのを思い出して着てみたが、やつれてるなぁという感想以外出てこなかった。

 まあ、2ヶ月程度では治らないだろう。もうこればっかりは仕方がない。


 (コーヒーでも飲むか)


 寒い空気に触れれば、やはり温かいものが欲しくなる。棚を開ければ、最近ようやく買えたコーヒーが一瓶ちょこんと置かれていた。

 コンロで火を沸かし、ふと外を見れば雨がやんでいる。薄く白み始めている空を見ても、雲が少ない。


 (......晴れ、か?珍しい)


 そういえば、昨日ラジオで言っていた気がする。どうせ天候はすぐに変わると聞き流してしまったが、晴れはこの街ではかなり珍しい。

 ゆっくり注がれるコーヒーが、白いカップに茶色の渦を作っていく。湯気が昇り、芳ばしく深い香りがキッチンにふわりと広がった。


 (美味しい......)


 ふう、と一つため息をついた。

 コーヒーの味が舌に染み渡り、熱いものがのどを通る感覚。

 彼女が紅茶を飲まなくなってから、アールグレイの消費は緩やかだった。精々、私といつも来る使用人に振る舞う程度。だが在庫ももう少ない。


 (彼女が起きた時に出したら、少しは喜ぶだろうか)


 私は今の彼女の好みを、あまり知らない。


 「旦那様」

 「っ!?」

 

 いきなり背後からの声に、全身がビクッと震えた。

 振り返ると、音もなくヴィレナさんが後ろに立っていた。

 昨日の格好のままだ。いや、似たような服、と言うだけか。少し服の装飾が違う。

 俯いているせいで目元には濃く影が落ち、生気の無さは常連の男に少し似ていた。

 少しカサついた唇から、抑揚のない声が紡がれる。


 「朝日を、見に行きませんか?」


 朝日、と口のなかで繰り返した。

 早朝でも、港にそこそこ人はいる。車の通りもある。深夜ほどは危険がないだろうが、何故。

 聞き返そうとして、彼女の顔を見て思い留まった。

 どうして貴方が、そんな迷子のような顔をしているんだ。


 「ヴィレナさん」

 「......はい」


 壁掛け時計を確認すると、午前6時。まだ、日の出を見るには1時間ほど時間がある。


 「コーヒー、飲んでからでも良いですか」

 

 ヴィレナさんがようやく、顔を上げる。視線が合うが、真っ黒な目は少しばかり光を反射して、わずかに輝いていた。

 はい。と彼女の声が鈴のように溢れる。

 肩に羽織った緑のショールを、彼女はぎゅっと掴んでいた。

 

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