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交渉

 窓から見えるのは灰色の空。

 長雨は止まず、部屋の空気は相変わらず不快な程度に湿気ている。

 黒衣を身に着けた彼女の肌は、白熱電球の光に照らされ生気のない白を浮かび上がらせていた。艶冶えんやなアンバーの香りが、部屋の空気に重く絡みつく。

 急いでつけた石油ストーブが暖まるまで、時間がかかりそうだ。


 「結婚してくださらない?」


 そんな気狂いのようなことを宣ったフランさんは、今は昨日と同様応接室でソファに腰掛けていた。出したアールグレイには手もつけず、腰掛ける私を黒い瞳で正面から射抜いている。

 なんだか、昨日以上に瞳が黒々としている気がする。

 さっきから一度もまばたきしていない。怖い。


 「あの、フランさん。先程は何とおっしゃいました?」

 

 彼女と私は債権者と債務者の関係だ。

 私は借金返済の為にフラン家が卸す「キャンディ」の窓口をやっていて、彼女は取り立てと同時に注文を受ける役割のはず。

 オマケに彼女の性格はサディストで、私のような立場の弱い人間を痛めつけ喜ぶ事はあっても、対等になろうとはしないだろう。

 

 そんな彼女が私と結婚? 

 聞き間違いな気がしてきた。


 「結婚してください」


 聞き間違いじゃなかった。

 

 彼女はどうやらご乱心のようだ。先ほどから一切の身じろぎが見られないし、声の震えもないが。むしろ、こちらのほうが動揺して落ち着かず、頭痛が酷くなってくる。

 眉間に手を当てて揉みほぐすが、何度考えても理解ができない。


 「ええっと、まず。フランさん、結婚の件についてですが」

 「ヴィクトル・ラヴェニ」

 「ッ゛、はい」


 いきなりフルネームで呼ばれ、ピンと背筋が伸びる。こんなのいきなり処刑台に立たされたのも同然だ。

 

 (私は一体何をやらかした?!)

 

 昨日よりずっと冷や汗が止まらない。震えを抑えるのに必死で、膝に乗せた手を痛みが感じるほどに強く握り込む。


 「私は貴方を高く買っております」

 「え、あの、はい?」

 

 何でもないように話を進め、彼女の微笑む顔からは一寸の感情も見られない。

 黒の瞳は、いつものような嗜虐的な光を宿しておらず、ただ淡々と事実だけを紡いでいるようだ。


 「あなたも、ネブロンの町の現状はお分かりでしょう。この町は過去、よく栄え活気がありました。けれど今はどうでしょう?」

 「今......」

 「過去も今も、霧や雨は変わりません。けれど、人間の質は変わってしまった。例え怪我をしたとして、まともな医療を受けられるような環境ではない」


 それは当然。過去の栄光で流通があるとは言え、医療品は基本高額だ。簡単な手当て用品なら安価で手に入るはずが、吹っ掛けてくる者も中にはいる。

 よくある手口だ。こんな場所では騙される方が悪いのだと、胸糞悪い理論がまかり通る。

 

 いや、それにしても。


 「湿気も多く不衛生、人によっては衛生観念も最悪。こんな場所では信頼できる医者、というのは限りあると思いませんか?──ヴィクトル・ラヴェニ」


 とにかく、話が、入ってこない.......!

 

 「そこで今回は──」

 「ッ、あの!フルネームで呼ぶの止めていただきたいのですが......!」

 「はい?」


 仰々しくフルネームで呼ばれるなんて、居心地が悪すぎる。とくに相手が彼女となれば、呼ばれるたびに無意識に身体がビクつく。


 「なぜ?」

 「気が取って話が入ってこないんですよ......!普通にいつも通りヴィクトルではだめなんですか.......!」

 

 悲鳴のように出た懇願。当然、受け入れられる訳がないのだが。


 「わかりました。ヴィクトル」

 「えっ?」


 私からの願いをあっさり聞き入れたことに、ぎょっと彼女のほうを見る。いつもなら「生意気」という理由で踏みつけられてもおかしくはないのに。


 (なんだ、なんなんだ、本当に、何がしたい?)


 彼女の表情は特に変わらず。雨音を背景音にして私を真っ直ぐ射抜いてくる。ずっしりと重い空気は私の肩にのしかかり、鉛を背負っている気分だった。


 「結論から申しますと。優秀な医者であるあなたを、私は手放すのが惜しい。だから、あなたを迎えたい。分かりますか?ヴィクトル」

 「......はぁ」


 絶対裏がある。

 今までフラン家は散々私を利用してきたのにも関わらず、突然掌返しは余りにも怪しすぎる。


 「この町には、貴方の存在は非常に貴重です、ですが私の父はそれに気づいていませんでした」


 彼女の瞳は私を貫く。

 そこに、愉悦やからかいの光は一切ない。


 「その手のあかぎれや、荒れ模様は清潔さを意識して何度も手を洗っているから、ということもよく知っております。白衣の裾が汚れることさえ、貴方はひどく嫌う」

 「いつ、見ていたんですか?」

 「あなたとは数年の付き合いでしょう、知らないほうがおかしい」


 この町はフラン家の手が往々にして伸びている。

 まさか、家の中まで、なんてことはないと思うが。どこで何をするか、常に見られているという感覚は気味が悪いものだ。

 

 「あなたは医療品の管理、保管、すべて完璧に行っている。住人の足元を見ることさえしない......そんな医者が他にいるでしょうか」

 「.......買いかぶりすぎだと、思いますけどね」

 「いいえ。私は正当な評価を下しているだけ。どれだけ理不尽な目に遭おうが、瞳の奥の灯火は未だ消えずに揺らめいている」

 「はは、何のことですか。全く検討もつきませんね」


 誤魔化そうと、愛想笑いを浮かべるが。


 「あなたは医者としての誇りが死んでいない」


 一瞬、目に痙攣が走る。

 この女、何処まで私を見通しているつもりだ。

 

 「そんなもの、ありません。普通の事を、普通にやっているだけです。ほかの医者と同じですよ」

 「その普通、をどれだけの町医者が出来ているのか、貴方はご存知ですか」

 

 彼女は引かない。

 私がどれだけ否定しても、一切の弱腰を見せない。まるで大木のようで、どれだけ叩いても靡かない。


 「今、貴方の立ち位置は、今非常に不安定。ですがフラン家に入れば、ある程度命の保証はされるでしょう。それは嫌ですか?」

 「.......嫌、ではないですが。私に命の保証を与えるほど、フラン家にとって価値があるとは思えない」

 「価値はあります。先ほどご説明をいたしましたが、貴方はこの町では貴重なまとも寄りのお医者様。優良な医療とはつまり生存への直結。それが安価で手にはいるならば、我々にとって利益でしかありません」


 彼女はふぅ、と呆れたようなため息をついた。

 

 「幸運だったのは、貴方が逃げ出す意志がなく、未だ留まってくれていたこと。父は分かっていなかった」


 利益。利益か。

 確かに今のまま放置され、ある日突然始末されるぐらいなら、保証がある方が生きられる可能性は高い。それも、フラン家のお嬢様である彼女が提案しているのだから、嘘ではないのだろう。

 ──しかし、私は。


 「.......どうしても結婚を拒否するというのなら、立場は少し弱まりますがその誇りを買って、私専属の医者、という案もありますのよ」

 「専属の医者?」

 「聡い貴方であれば我が家の実態はお分かりでしょう?黒黒とした背景ゆえに当然、私もそこそこ危ないのですよ」


 冷め始めたアールグレイを見つめながら、声色は震え、はく、と口が一度空気を吐いた。


 「毒でも飲まされたら、一体医者がくるまでにどれだけ時間がかかると思います?それでしたら、貴方を抱え込んでしまったほうが、家の体裁としても申し分ない。貴方も堂々と日の下を歩けましょう?」


 それに、私。

 と彼女の瞳が僅かに揺れる。


 「毎回見知らぬ殿方に身体を見られるなんて、嫌です」

 「ッ......」

 

 たしかに、この年頃の女性が治療のためとはいえ、人様に肌を晒すのは抵抗があるだろう。特に、お嬢様となれば、尚更だ。


 (だ、だけど、それがなんだというんだ、私には関係ない......!)

 

 本音と建前が入り乱れる、説得に近い形の交渉。

 私にも利益はある。だがフラン家に入るということは、つまり一生首輪を繋がれるという事に他ならない。

 そんなこと、望んではいない。


 「勿論、専属の医者になるならば我が家は此処からは少し遠いので、この家を離れて頂くことにな」

 「それは駄目です」


 頭で考える前に、言葉が口からついて出た。

 言った後ではっと我に返るが、もう遅い。

 彼女は小首を傾げて、私を見ていた。言葉の真意を探るように。


 「なぜ?」

 「......この家は、私の大切な記憶が詰まっています。貴方にとって価値はないのかもしれませんが、私にはある。家を離れるというのなら、今のままで私は構わない」


 これだけは、これだけは譲ってはならない。私はこの家にいなければいけない。

 名も知らない患者?異様な常連?医者としての誇り?くだらない。キャンディが何だ、犯罪がなんだ。フラン家が何だというのだ。


 私には、やらなくてはいけないことがある。

 

 目の前の悪魔のような支配者に、逆らうことになったとしても。

 恐怖で逃げ出したいと身体が悲鳴を上げても。

 医者としての私を踏み躙っても。

 真っ直ぐ彼女の目を見て、告げる。


 私は生きて、この家にいなければ。


 「どうぞ、今のまま私を使ってくださって構いません。私は今でも完璧に仕事をしています。常連の相手も、「キャンディ」の管理も、貴方がたを裏切ったことは一度もありません。信頼していただけていることは喜ばしいと感じ入ります」


 引いてはいけない。

 彼女の瞳の漆黒が、私を飲み込まんばかりに射抜こうと、いつの間にか彼女の顔から笑顔が消えていようと。

 私は絶対に引いてはいけない。

 

 怖い。足が竦む。手が震える。肌が粟立つ。口内が渇いて、本能が彼女の命令を拒むなと必死に訴えてくる。

 握り込んだ爪が掌に刺さる感覚で、必死に脆い理性を繋ぎ止めていた。

 

 「ですが、私はこの家にいなければならない。この家だからこそ、安心して治療を行えるのです。首輪をかけて連れて帰りたいというのであれば、今後、指先が鈍るやもしれません」 

 「......随分、情緒的な言い訳ですね」

 「契約上、私は貴方に逆らう事は出来ません。それは重々承知しております。ですが、あなたの明瞭な聴覚へ訴える事は許されるでしょう、フランさん。貴方が欲しいこのヴィクトルは、この家にいるからこそなのです」

 「何故」

 

 彼女の目が、すっと細められる。


 「何故、そこまでこの家に執着を?記憶だけで、そこまで意固地になる理由でも?」


 ここで下手に嘘をつけば、彼女はすぐに気付くだろう。

 わざわざ己の首を締めるような真似はしたくない。

 

 「......お答え、できかねます。しかし、貴方のいう情緒的な理由と解釈して頂いて構いません。フラン家に損害を与えるような事ではない、ということだけは保証します」


 沈黙。

 

 ざぁぁと強くなる雨は窓を打ち、時折コツン、コツン、と固いものが当たるような音がした。アンバーの艶冶えんやな香りが私の首に纏わりつく。

 モノトーンの視界の中、キャッツアイのエメラルドが異様に光り輝いて私を睨みつけている様だった。


 「この家に、居られればよいのですか?」

 「え?」


 唐突な確認に、思わず声が出た。

 宝石に飛んでいた目線を上げると、彼女は小首をかしげていた。絹のような黒髪が、肩からするりと落ちていく。


 「問題なく診察出来ることも、必要ですよね」

 「え、ええ、まあ」

 「しかし、今のままではいつ切られてしまうか分かりません」

 「......そういう物だと覚悟しています」

 「それではその危険が無いほうが、安心できますか?」

 「そりゃあ、まあ......」


 彼女はふっと、女神のように微笑んでみせた。


 「では、結婚しましょう」

 「だからどうしてそうなるんです!?」


 思わず大声が漏れた。

 先ほどまでの話を、彼女は聞いていたのだろうか?


 「合理的な判断の上ですよ、ヴィクトル。私も貴方も、お互い利益を得る関係にあるべきです」

 「結婚したところで、そんな関係にはなりません。私は意地でもここから離れませんよ」

 「ええ。ですから、私がここに住みます」

 「はい?」


 何を言ってるんだこの女は。

 わざわざ綺羅びやかな生活を手放して、このボロ屋に住むだと。

 

  美しい装飾もない。快適なベッドもない。高い香料もあるわけがない。

 ここにあるのは、シンプルな壁。固く古いベッド。鼻をつく薬品の匂いだけだ。


 「じょ、冗談言わないでください。貴方が此処に住む?」

 「ええ。結婚すれば貴方はフラン家に始末されずに済む。診察も今までどおりできる。そして私の夫として側につきながら、この家を守れる。買収はしません、ご安心を」

 「い、いえ、ですが、そもそも私は!」


 この女の夫など冗談ではない。

 いくら条件が良くても、こんなことが受け入れられるはずがない......!!!

  

 「借金」


 ビク、と身体が跳ねる。

 彼らとの契約上、私は拒否する権利がない。何をされようと、どう処分されようと、文句が言えないのだ。


 「帳消しに、してあげますよ?」


 にこ、と天使のような笑みで悪魔が笑う。

 あの膨大な額が消える。

 一瞬あっけにとられるが、徐々に徐々に腹がむず痒くなってくる。

 

 「あっはは、何言ってるんですか」

 「どうかしましたか?」


 つい、笑いがこぼれてしまった。あり得ないのだ。このフランという家が、どれだけ金問題に厳しいのか。彼女はただの女性だ。

 こてんと小首を傾げた彼女は、まだ若い箱入りのお嬢様。父親に頼み込めばなんでもできると思って、自由に動いてしまう危うさを持っている。若いゆえの万能感とは、恐ろしいものだ。


 ああ、危なかった。

 彼女の声は重く、まるで真剣なように聞こえてしまう。

 

 「フランさん、無理ですよ。借金を帳消しにする?それはあなた個人で判断できることではない」

 「はい」

 「フラン家当主であるあなたのお父上から許可が必要です。特に金銭面に関しては厳しく取り締まるお方だ。ここで口約束をするにも、難しいと思いますよ」

 「許可は頂いておりますわ」

 「だから──え?」


 今彼女はなんて言った?

 

 「許可は頂いております。まだこちらに住むことは伝えていませんが、問題ないでしょう。もとより、父の目から見たら虚弱、と言われましたので、医者の側へいられることは好意的でした」


 待て、手が早い。早すぎる。

 なぜ外堀が埋まってるんだ。昨日の今日だろ。

 なぜ当主が好意的なんだ。

 

 「待て、待ちなさい、いつ説得を!?」

 「今朝ですね、朝食のタイミングで」

 「あなたが!?」

 「ええ、私から直接お話いたしました」

 「どうして!?」

 「あなたに価値があるからですよ、ヴィクトル」


 白熱電球が、一瞬、チカ、チカ、と瞬いた。

 それをものともせず、彼女は一切姿勢を崩さずに私の瞳だけを視線で貫いている。逃す気はないと言われているようで、背筋にゾッと冷たい悪寒が走る。


 「は、はは。でも、無理ですよ」

 「何故?」

 「私、妻帯者ですから。この国では多重婚は認められていません」

 「え?」


 初めて、彼女がキョトンとした年相応の顔をした。

 当然だ、昨日今日で話が進んでいるのだとしたら、調べられている訳がない。わざわざ市役所に金を払って債務者の婚姻履歴を確認するなど、彼らにとってメリットがない。


 ──アンディ・フィデル。私の書類上の妻の名だ。


 最初から夫婦仲なんてものは無く、書類上の関係だけ。

 この町に来てから見ることはなくなったが、とにかく美に執着している女性で碌な人柄ではなかった。

 しかし、こんな形であの存在が役に立つとは思わなかった。


 「お引き取りください、フランさん。私はあなたの願いは叶えられない」


 借金帳消しや安全保証は魅力的だが、法律上の問題は流石に彼女も手が出せない。可愛い娘が内縁の妻など、当主は絶対に認めないだろう。

 

 「どなたですか?」

 「言うわけないでしょう?ともかく、お引き取りください。法律がある限り、私はあなたと結婚なんてしませんし、あなたの医者にもなりません」

 「......」


 冷めたアールグレイをじっと見つめたまま、フランさんは考え込むように唇を指でなぞった。

 凍える雨の中、わざわざ来訪して貰って申し訳ないが、お互いこればかりはどうにもできない。

 石油ストーブはもう温まり切っている。ずいぶん長いこと話し込んだ。


 「紅茶、淹れ直しましょうか」


 話は終わりだ、と話題を切り替える。

 これ以上彼女のわがままに付き合ってはいられない。音の少ない壁掛け時計を見れば診察開始の十時はとっくに過ぎていた。


 「フランさん?」

 「......あなたは、障害が無ければ私と結婚してくれますか?」

 

 目線を上げないまま、ポツリと声が漏れた。

 どうしてそこまで私に執着するのか分からない。昨日までの彼女とは全く別物で、手折れば死んでしまうような。

 深窓の令嬢、という言葉がよく似合う、庇護欲の湧いてしまうような幼い少女の顔だった。

 見ていられなくて、思わず視線を反らしてしまう。


 「......フランさん、お父上が心配されます。もう帰ったほうがよろしいかと」


 その言葉に小さく、はい、と返事をしフランさんは驚くほど素直に立った。ヒールを履いてない今でも私より背の高い彼女だが、ここまで分かりやすく落ち込まれては小さく可愛らしい、と感じてしまう。

 放っておけない当主の気持ちは、少し理解できる気がする。


 (待て、待て。彼女はサディストだぞ、何が深窓の令嬢だ。嗜虐の悪魔の間違いだろ)


 玄関まで誘導する中、彼女の上着を着せながら軽く頭を振った。一時の感情に流されれば、碌なことにならないのはよく知っている。

 扉を開ければ黒塗の車が当然のように停めてあり、彼女の姿をみると使用人たちはすぐ駆け寄ってきた。

 雨は強まり、傘だけでしのぐのは難しそうだ。

 

 「フランさん」

 「はい」 

 「これを」


 安物で申し訳ないが、簡単な雨よけ程度にはなるだろう。深緑のショールを受け取って、不思議そうな顔をする。


 「雨除けに使ってください、要らなければ捨ててもらって構いません」


 今の彼女が雨に打たれれば、風邪を引いてしまうのではという気持ちはあった。多少優しくして、罪悪感を軽くしたいという下心もあったかもしれない。

 ただ、このまま彼女を送り出すのは良心が咎めた。

 それだけだ。


 「......ありがとうございます、ヴィクトル」


 ショールを羽織ると、彼女はふっと笑って使用人たちと車に乗り込んでいった。排気ガスを吸い込む前に、咳のフリをして白衣の裾を口に当てながら、車を見送った。


 扉を閉めれば、アンバーの残り香が暖まった空気に混ざって鼻をかすめた。冷めきった紅茶をシンクに流し、洗剤を含んだスポンジで洗っていく。


 「........................」


 彼女は、一度も瞬きをしなかった。

 

──1966年 1月11日 ネブロンの町 朝9時

 

 公現祭エピファニーの熱も通り過ぎ、平和な日常が戻ってきた頃のこと。郵便ポストに、新聞が投げられる音がした。

 珍しく雨が止み、曇りではあるが気分のいい朝だった。

 気が抜けた気分でタバコを吸いながら玄関に出ると、ある程度の人通りが伺える。


 目が合った近所の人と挨拶を交わし、ポストから新聞を取り上げる。裏口から入り、キッチンの窓を僅かに空けて煙を吐き出しながら空を見た。冷たい潮風が頬を撫でる。


 (本当にいい天気だ。曇りだが)

 

 使い古された銀のヤカンに水を入れ、カチ、と音をさせてガスコンロに火をつける。今日は風もあるからコインランドリーに行かなくても洗い物が乾くだろう。大変助かる。


 暫くのんびり窓の外を眺めていると、ヤカンがピーと音を出して限界を知らせた。タバコに水をかけて消す。

 紅茶の練習用にやり始めた習慣だが、そこそこ慣れた。今ではそれなりに美味い紅茶を作れるようになったと自負している。

 最も、彼女に出すのはカルキの匂いが抜けない水道水ではなく、高価なミネラルウォーターで作ったものだが。


 (あっアールグレイが切れてる)


 気づいてよかった。アールグレイは彼女のお気に入りの茶葉のはず。彼女が来たタイミングで切らしていたらどんな罵倒がとんでくるか分からない。後で買っておかなければ。

 代わりに間違えて買った別の茶葉を手に取る。水道水で作ったお湯は、多少カルキが抜けているとはいえそのままでは飲みづらい。


 (紅茶なんてアールグレイ以外名前知らないからな、コーヒーのほうが好きだし)


 隣にある、暫く空けられていないコーヒーの瓶を名残惜しく見つめる。彼女がくる前は眠気覚ましとして常用していた。消費期限はいつだったか。2年ほど前に飲んだのが最後だったかもしれない。


 (もうこれは飲めない、あとで捨てておこう)


 そういえば、彼女もしばらく顔は出していない。年明け前のあれが異常事態だったわけだ。姿が見えないということは、受理されなかったのだろう。

 

 アプリコットとラベリングされた瓶から茶葉を出す。紅茶を無心で淹れ、使用済み茶葉を捨てながら一口飲んでみた。


 (甘いが酸味があるなこれ)


 パッケージを見ても消費期限は大丈夫そうなので、こういう味なのだろう。このまま飲むのは行儀が悪い。椅子に座って、新聞を広げるとインクの匂いがふわりと香る。紅茶を飲みながら文を追っていくと、ふと違和感を感じて止まる。

 脳が理解をする前に、何か見知ったものが通り過ぎた気がした。それを探そうとして、じっと文をなぞっていく。


 訃報公告。

 あまり見たくない、新聞の小さな一角。

 そこに載っていた、一つの名前。

 

 「えっ」


 アンディ・フィデル。

 妻の、名前だ。


 コン、コン。

 玄関にノック音が響く。私が動かずにいると、カチャン、と鍵を回す音がした。そのまま革靴の足音が近づいてきて、探し回るようにうろついたあとで、奥から現れた彼女。


 美しい黒の外出用のドレスを身にまとい、胸元のキャッツアイのエメラルドブローチが怪しく光る。

 艷やかな髪は肩からするりと滑り落ち、未だ光を映さない黒い瞳は、私をまっすぐ射抜いていた。


 「ヴィクトル」


 凛とした、鈴のような彼女の声がキッチンに重く響く。


 「これで、結婚できますね」


 肩にかけた深緑のショールを撫でながら、ヴィレナ・フランが、嬉しそうに微笑んだ。

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