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狂言

 「私と、結婚してくださらない?」


 雨音が響く玄関前の庇の下。黒のドレスを身に纏った麗人が美しく微笑む。

 ヴィレナ・フラン。彼女は気に入らないことがあればすぐに手が出る女王様のような令嬢だ。

 私も散々足蹴りにされてきた。


 そんなプライドの高い彼女が、結婚の申し出などあるわけがない。


 「......は?」

 

 だから、こんな間抜けな声が出たのは、きっと私のせいではない。


 ────


 

「近所の菓子屋があるだろう、あそこはうちのチビが好きでね。色々揃ってるから」


 スーツを着た身なりのいい壮年の男が、診察室の天井からぶら下がる豆電球を見ながら、ぼんやりとつぶやいた。

 薄暗く、カーテンさえ締め切られたこの部屋は息苦しい。そうですか、と相槌を打ちながら一瞥だけして診察表に彼の名前を雑に記入した。

 

「ヴィクトル先生は、キャンディやクッキーは食べないのかい?」

「口寂しければタバコで充分ですよ」


 それもそうか〜、とおかしそうに男が笑う。室内なのだから帽子ぐらい脱げばいいものを。

 光が帽子に遮られ、彼の表情は窺えない。ただ、ぼんやり笑っているのだけはわかる。幽霊と見紛うほど生気がない。

 当然だろう、こんな仕事をしていれば誰だってこうなる。


「私も子供に連れられて行くんだけどね。あのちっちゃなキャンディって一個5gとからしいよ?豆知識だねぇ〜」

「へぇ、知りませんでしたね」

「あんな砂糖の塊よく食べるなって思うんだけどさ、チビってのはそういうもんじゃん?僕はコーヒーの方が好きだから理解できないけどさぁ」

 

 先ほどから話すのは他愛無い雑談ばかりで、彼の素性を追求するつもりもない。

 常連の注文を聞いて、品物を用意するだけ。もう手慣れた工程だ。


「来月の頭には、ちょっとしたご褒美とかで買ってやろうかなって思うんだよ、2つくらいまとめてさぁ」


 じろりと睨みつけると、男が肩をすくめてまた笑った。

 流石にこの窓口で一度に渡すには難しい量だ。商売繁盛はいいが、欲を出しすぎだろう。

 

「多いですね、虫歯になりますよ。痛い目を見ます」

「やっぱそうかなぁ、月を分けたほうがいい?」

「ええ」

「じゃそうしようかなぁ〜」

 

 薬を5gよこせ。これはそういう指示だ。

 まとめて10gなど、それだけ欲しいなら「大元」に直接行ったらいい。

 飴玉2つ分でどれほどの絞首台が用意できるのか、この男は理解しているのだろうか。


 「冗談も程々に」

 「健康のプロのアドバイスは実に為になるよ、はっはっは」


 気の抜けた声だ。たった5gでも、どれほどの人間の人生が狂うのかこの男は自覚がない。

 考えたくなかった。自分が自分の思うように、真っ当に生きられない苛立ちも。

 最初の頃は手が震えていた己が、今はすっかり自然に振る舞えてしまう事実も。

 

 喉が痛いんだ、という彼のカルテに「シロップ剤 5ml」と書き込んで、"処方箋"を出すために立ち上がる。

 

「悪い子はブギーマンに、攫われちゃうからねぇ」


 現実味のない声が、背中から聞こえてきたとして。この男がどこまで正気かなど私の知ったことではない。

 私は、言われたことをこなすだけだ。

 たとえ、どれだけ自分の心が悲鳴を上げていたとして。


 それに構う余裕など、無い。


 …………


 ネブロンという小さな町がある。

 

 昔は栄えていた筈の港があり、海から流れる西風は塩の匂いを帯びて冬の骨身に染みて行く。

 常に不気味な霧が街を覆い、雨がしとしと降り続ける。ここは神の目も届かない。

 よそ者が多く入り浸り、私のような訳ありにも丁度良い街だった。

 ひどく憂鬱な天気に釣られてか治安もそれなりに悪いが、助けを求めて私の家の扉を叩く者もいる。この小さな町に、医者というのは私しかいないからだ。

 

 おかげで仕事には困らない。体格の小さな私でも、この希少な身分に縋っていればある程度は安全に過ごしていける。

 もっとも、仕事は千差万別ではあるが。


「……帰ったな」


 消えて行く男の背中を窓から眺めながら、息をつく。

 湿った革靴と車が水を跳ねる音、土埃を含んだ雨やカビの匂い、肌に纏わりつく不快な湿気。もう慣れたものだ。

 

 25の時にここにきて、もう6年になる。

 

 人を頼ってこの町に来たばかりのころは、まだ何の悪事にも手を染めていなかった。ただ、自由に息ができればそれでいいと思って。自分はこんなことに手を出すわけがないと、青臭く思っていた。

 

 5年前に、あの本さえ手に取らなければ。

 もしかしたら今も。


(疲れてるみたいだな、顔でも洗うか)


 黒いカーテンを閉め、陰鬱な空気を遮った。

 二階にある狭い居住部分。そこの洗面所の電気をつければ、切れかけの白熱電球がチカチカと瞬き悲鳴を上げている。そういえば少し前からこんな様子だった。

 

 すっかり忘れていた、寝不足の目には少しきつい。イラつきながら目を擦り、鏡の前に立てば目の前にはくたびれた白衣を着た小柄な男が立っている。


(なんて酷い顔だ)

 

 パサついた黒い髪、光のない青い目。クマがあるのは不眠のせいだろう。医者の不摂生という言葉が頭をよぎるが、さんざ揶揄われてきた童顔がマシになるのは良いことだろうと、嘲りに似た笑いが鼻から漏れた。


(......なんだこれ)

 

 右頬の下部にニキビができているのが見えた。

 黄色く大きく化膿したもの、小さめだが赤くなり始めたもの。それが小さい範囲だが、ぽつぽつと。

 食生活なんてものは乱れ切っているのだから当然だ。

 

 (気持ち悪いな)

 

 触ると痛みが走るから放っておかなければならないのに、一度気づいてしまえばつい気になって仕方がない。

 顔を水で洗った後も、タオルが擦るたびピリッとした拒絶の痛みが走るのに、つい指で弄ってしまう。そのうちぼろりと皮が剥がれて、酷い痛みと共に血と黄色い膿が流れ出す。こうなっては取り返しがつかない。

 不快感に苛立ち、眉を顰めた。


「いってて、ああもう......!」


 コン、コン


「!」


 玄関から響く、軽いノック音。

 この町の人間は予約なんて取りはしないから、突然の来訪はよくあることだ。しかし、大抵は焦ったような大きな音か、怖がるような控えめな音のはずだ。


 (今日、何日だ)

 

 嫌な予感が頭を掠め、急いで顔を拭き絆創膏を貼って玄関へ向かう。まさか「彼女」にこんな傷を見られてしまったら、きっと悪化させられるに違いないからだ。

 急ぎながら壁にかけてあったカレンダーをチラリと見る。

 

 間違いない、今日は「徴収の日」だ。


──1965年 12月23日 クリスマス前夜 


 「……ど、どうも、フランさん」

 「ごきげんよう、ヴィクトル先生」


 扉を開けた先。雨音と共にまず鼻を掠めたのは、鋭いシトラスの香り。

 見上げると、艶々とした黒い髪を持つ美しい女性が私を冷たく見下ろしていた。


 ヴィレナ・フラン。高利貸しの娘。

 

 真っ白なスーツドレスは彼女よく似合い、キャッツアイのエメラルドがついた金のブローチが胸元で誇るように輝いていた。真っ黒なその瞳で私を見下ろし、嘲るように微笑む姿は背筋に悪寒を走らせる。


 チラリと後ろを見れば、黒塗りの車が一台止まっている。使用人の腕が見えるので、おそらくあれを使ってきたのだろう。


 「今月も"パーティ"に招待してくれて、感謝いたしますわ」

 

 鈴のような凜とした声で、彼女は声を紡ぐ。

 素晴らしく陰鬱とした暗い日常だったのに、突然毒々しい一輪の白椿が輝くように咲き誇ってしまった。

 目を刺すような眩しさに、身じろいでしまう。


 「……中へ、どうぞ」

 「ええ。もちろん。こちら差し入れです」

 

 会話はそれだけだ。

 手提げを受け取り、玄関を開ける。

 さも当然のように進む姿は、まるで家主の帰還のよう。

 こんなしみったれた古い家は華々しい彼女には似合わない。彼女がいるだけで首が締まるような清潔さを感じてしまう。ハイヒールの堅い音が雨音さえ掻き消し、存在を主張するように私の耳へこびり着く。


 雨水を吸った扉は重く、ギィ、と悲鳴を上げるようにその身を閉じた。

 

 …………


 「お茶は妥協点かしら」


 当然、という顔で応接室のソファに座った彼女は、これまた当たり前、という顔で私の淹れたアールグレイのお茶を嗜んでいる。

 まるで清廉な少女のような笑みなのに、少し気を抜けばどんな地雷を踏むかわからない。


 女王とでも形容したくなるほどの堂々とした彼女。その対面のソファに座るよう指示をされ、腰を下ろしているが酷く落ち着かない。


 「……光栄です」


 初めて紅茶を淹れた時は「しぶい」「ぬるい」「まずい」と散々文句を言われて、最終的にご自慢の白いハイヒールで酷い体罰と罵倒を受けた記憶がある。

 練習しないわけがない。私だって痛いのは嫌いだし、無駄な治療に備品を使いたくない。


「あら、ヴィクトル先生、何か暗い顔をしていらっしゃる?」

「……いえ、そんなことは。フランさんの美しさに圧倒されていただけですよ」

「不器用な言い訳ね。本当に頭のよいお医者様なの?」


 くすくすと困ったように笑う彼女の一挙動は美しい。フラン家が成り上がりの家とはいえ、彼女の教養の高さはどれだけ鈍くても理解させられる。

 

 しかし言葉は背筋がゾッとするような重さを含む。シトラスの香りは薬品と混ざると氷のような冷たさを感じられ、首にナイフを向けられている気分だ。

 いつもは必死に回す頭も、この女性を前にすると恐怖で鈍くなる。


 「.....は、ぁ」

 

 この家の空気が重苦しく感じ、バレないように深く呼吸した。心臓さえ掴まれている気がして、視線を逸らして声が震えないようにすることに必死だった。


「ねぇ、先生。あなた何か私の変化に気づいた?」

「えっ」


 唐突な話題。何のことだと一瞬呆気に取られたが、すぐに姿勢を整える。いつものお遊びが始まったのだ。

 ただ、テキトウに答えてしまえば、経験上「嘘つき」のひと言で根性焼きをさせられるだろう。

 舌の上で。私のタバコをわざわざ使って。

 

 虫の居処が悪ければ、指が一本折れて逝く可能性だって当然ある。だからこそ無礼を承知で彼女を必死に観察する。

 

 絹のような黒髪。エメラルドのブローチ。いつもの真っ白なドレススーツ。細められた黒の瞳は楽しげだが、いつ感情の色が引いてしまうかわからない。


「え、と……」

「もう、即答できないの?」


 冷や汗が背中を伝い、びっしょりと服が濡れている。

 震えそうな手を必死に握り、過去の彼女の姿と照らし合わせていくがどこにも違いがわからない。

 変わったことといえば、彼女が少し不機嫌そうに眉を顰めたということだけ。


「ヴィクトル先生?」

「……ッ!」


 否応なしに体が跳ねた。

 凜とした、しかし甘さも含んだその声が本心なのか。私には本当にわからない。

 

「――す、みま、せん。私には、わかりません。何も、何も、変わらないように、見えます」


 ピシ、と空気が凍った。

 気温が数度、下がった気さえする。


 「………………」

 

 布ズレ一つの音さえ許されない気がして、全身が硬直して力がはいる。顔からは冷や汗が止まらず、心臓がバクン、バクンと鼓動する大きな音さえ彼女の地獄耳に届いてしまうのではないかと思うほどの緊張。

 窓を打つ雨音が容赦なく鼓膜をたたき、刻一刻と刻む時間に、身体が震えてしまう。

 

「まったく仕方のない人だわ」


 耳が痛くなるほどの静寂の中、彼女の凜とした声が響く。

 張り詰めていた空気が、少し緩んだ気がした。


「でも私たちには”正直な人”が必要なの。だから、許してあげるわ。その粗末なオツムで、忘れないようにね?」

 

 絹のような黒髪を耳にかけながら、彼女は紅茶に口をつける。少し不機嫌そうな声色は、次はないと言われているかのようだ。彼女に見えないように頬の汗を拭う。

 なんだこの理不尽ゲームは。結局何が正解かどうかも分からない。


 (.......早く、帰ってほしい)

 

 分かっている。彼女が人を気まぐれで制御することに、楽しみを感じる性格だと言うことは、重々分かっているのだ。だが、この空気を1秒でも早く終えられるのなら、彼女に蹴られても罵倒されても受け入れてしまう気がする。


 (逆らうことなんてしないから、早く帰れ......!)


 この思考こそ、彼女の「教育」が成功しているという証明に他ならないことも、分かっている。承知の上で終わりを願わなければ、手の震えを抑え込めないのだ。

 情けなさに目が眩むが、そんなもの些細な事だった。


「さて、お遊びはここまで。私がここにいる理由を、ヴィクトル先生は分かっているわよね?」


 嗚呼、ようやく、私にも理解できる話題が来た。

 全く良い話ではないが、気紛れが終わったことにほっとする。断りを入れて、別室から分厚い封筒を持ってきた。

 彼女の目的はこれだ。


「どうぞ。きちんと、利息もつけて入っています」


 彼女の前に差し出せば、白い手袋をはめた指を伸ばして、それを受け取る。中の金額を確認し、ふと目を細め満足そうに頷いた。


 「結構。情弱な庶民から巻き上げる術を、貴方はよく知っているようで」


 鈴のようにころころ笑って、彼女は手提げのバッグにそれを雑に押し込んだ。お前たちが卸している「キャンディ」の成果物だろ、と毒づきながらも、反抗的な目をすることは許されない。

 

 「それと、フランさん。これを」

 「いつもの招待状ね」

 「はい、来月分です」


 これは「キャンディ」の発注書だ。あの男以外にも客はいる。

 フラン家にあてたパーティの招待状。当然、そんなものはしない。あるのは表向き「高利貸しが客から金を回収する」というよくある構造だ。


 (招待状なんて、本当にくだらない)


 中身は華やかなことしか書かれていない。

 "軽やかに、ひと口で楽しめる程度にお菓子をご用意しております"なんて文言を怪しむものは中々いない。


 (ひと口の白い粉で人生を軽やかに転落できます、の間違いだろ.....)

 

 フラン家は、表向きは金貸しの家として生きているが、その実態は幾つもの犯罪に手を染めている。麻薬の密売はその一つに過ぎない。

 金貸しをして、首がまわらなくなった人間を引き込み、バレそうになったらあまりにも清く尻尾切り。

 それが、彼らの手口だ。


 「......招待状、ね」


 彼女はただの手紙にしか見えないそれを、少しの間見つめて、笑った。見なかったふりをして、目を伏せる。今月は痛みを感じずに済みそうだ。


 「お父様に届けておくわ、確実にね」

 「はい、お願いします。フランさん」

 「ドレスコードの変更があれば来月の15日までに仰って。レディのお洒落は一朝一夕のものではないの」

 「畏まりました」


 毎回同じ服のくせに。と内心思いながらも顔に出すことはない。恭しく座ったまお辞儀をすると、機嫌の良さそうな彼女の含み笑いが降ってきた。

 ただの嘲笑など、軽い。

 受け流せば良いだけなのだから。


 「残念、もう時間だわ。楽しい時間は去るのが早いわね」


 彼女が立ち上がるのに合わせ、掛けてあったスーツドレスのジャケットを持って玄関に送る。この数年で彼女に仕込まれた動きは、自分でも嫌になるほどに自然に動く。


 「フランさん、腕を」


 彼女が袖に腕を通して着用すると、簡単に襟を直し、それが済んだら玄関の扉を空け、外へ促そうとして。


 「っ!」


 目の前に、黒い傘を持った大男が待ち構えていた。

 身なりを見るに、彼女の使用人に間違いはない。


 「あら、そうそう、ヴィクトル先生」


 驚く私をよそ目に、まるで何事もなかったように彼女が振り返る。シトラスの香りが鼻を掠め、喉元を撫でられた様な気分だった。


 「な、なんでしょう」

 「レディの変化に気づかないなんて、やっぱり底流階層は駄目ね」

 「へっ」


 嘲るような一瞥。間髪入れずに私の右頬に腕が伸びる。

 突然の事に反応できない。白い手袋をはめた彼女の指が、何かを摘んで。


 ビリッ!!


 「い゛っ!」


 鋭い痛みが走り、思わず声が出た。

 赤く腫れたそこに手をやってみると、ぬるり、と嫌な感触がする。

 

 「今回はこれで許してあげる。貴方は正直者だから」


 彼女の手を見れば、血が滲んだ絆創膏が一つぷらんとぶら下がっていた。彼女がくる前に、潰してしまったニキビを保護していたものだ。

 ジンジンとした痛みに、生理的な涙が滲むがぐっとこらえる。


 (本当に、何を考えてるんだこの女.......!)

 

 ふと目線を上げれば、彼女はじっと私を覗き込んでいた。目の奥にある愉悦の光を、隠そうともしない。その真っ黒な瞳に捉えられたら、逃げる事など不可能だ。

 身体が教え込まれた恐怖を思い出し、硬直してしまう。


 「......ふふ、それでは、また来月。ヴィクトル先生?」


 ぐしゃっと絆創膏を雑に丸め、私のポケットに突っ込むと彼女はさっさと玄関から出て行った。

 彼女が使用人に導かれ車に乗り込み、黒塗りの車は発進する。最後にちらりと私がまだ見送っていることを確認して、彼女は満足そうに笑い、車内のカーテンを閉じた。

 

 ブロロロ、と音を立て黒い彼らは去っていく。


 「けほっ......」


 巻き散らかされた排気ガスに咳き込みながら、とりあえず嵐が去った事を確認し、安堵のため息を漏らす。大きく鳴っていた心臓の音は静まり、ようやく雨の音が耳に届くようになった。


「あれ、ない......」

 

 血が垂れた傷を清潔なハンカチで傷を抑えようとして、白衣のポケットを弄った。しかし、いつも入れている筈の青い布切れがない。左も探ってみたが、見つかったのはさっきのゴミだけだ。


 (入れ忘れたのか?駄目だ、本格的に疲れている。雨の音で頭も痛い)

 

 眉間を押さえて頭を振るが、疲れが取れるわけではない。

 玄関に入って鍵を閉め、振り返れば古い家の中が多少なりとも明るく見えた。

 いつもの薄暗い部屋、いつものじめっとした湿気。あのシトラスの残り香さえなければ、息がしやすいような気がする。空気が軽い。


 「はぁ......もう暫くは見たくない」

 

 緊張の糸が切れたせいか、ずるずると玄関ドアを背に座り込みかけてしまい必死に耐える。医者が汚れた白衣でうろつくなど、あってはならない。


 ヴィレナ・フラン。

 あの女は生まれながらの支配者だ。悪夢の化身だ。

 はっきり言って、フラン家に借金さえなければ関わりたい種類の人間ではない。


 ぼんやりとした視線は揺らいで机のうえにある「差し入れ」を捉えた。彼女の"納品"は終わっているのだ。仕事をしなければいけない。

 

 (仮眠をとってからでいいか)


 鉛のような体を引きずって「差し入れ」は金庫にしまい、最後の意地で白衣を脱げばそのままベッドに倒れ込む。

 壁掛け時計は16時37分を指している。日入りが早いこの町はもう、夕暮れだ。


 (少し早いがどうせすぐ目を覚ますし、今はこのまま.......今日は疲れた......)


 横にあったタオルで雑に頬を拭い、柔らかな枕に頭が沈み込む。靴を雑に脱ぎ捨てて毛布を引き寄せれば、珍しいほどにあっさり意識が落ちた。


..............


 「.......ん」


 泥濘に沈んだ頭が、光を察知してゆっくりと浮上した。目の前には薄いカーテンが静かに鎮座し、透けた弱い朝日が漏れていた。窓からは外の雨音が微かに聞こえている。

 

 顔を上げ、目を擦って時計をみると、針は8時半を指している。視界には入っているのに、その意味が上手く理解できず、暫く眺めていた。


 「......ずいぶん寝たな?」


 16時間。

 どおりで全身が悲鳴を上げ、脳の覚醒が遅れているわけだ。回復より先に重くのしかかる疲労が来るのは、年のせいか。関節の節々が痛んでうまく動かない。時間がたち覚醒するにつれ頭まで痛みだし、ようやく水を飲まなければと動こうとして。


 「うわっ」


 ドスン、と寝台から崩れ落ちた。

 これは重症だ。寝台を支えに何とか起き上がって、未だぐらつく頭を支える。頭痛は薬でも飲んでおけばすぐ治るが、身体のだるさはどうにもならない。


 (薬のためにはまずは水を用意して、ああ、その前に湯を沸かして......面倒くさいな)


 ゆっくりと慎重に階段を下りて、キッチンで水道からやかんに水を入れる。カルキの匂いがキツイが、ここは腐っても過去どこよりも栄えた港だ。他の都市部よりもインフラは整っている。ガスコンロに火をつけて、その青い火が揺れるのをぼんやり眺めていた。


 (顔でも洗おうか)


 流石に患者を前にだらしない寝起き顔を晒すわけには行かないだろう。水道水から水を出し、顔を洗うために両手に貯める。

 

 冷たい。


 両手はあかぎれやひび割れがひどく、氷のような水に触れるだけで痛みが走る。新しい水が入るたび入るたび、清らかな熱が私を責める。それを理由に指を解く気にはなれなかった。

 医療に携わるものは、常に清潔でなければいけない。いつか本で読んだ一小節を反芻する。

 クリミアの天使は、患者に誠意を見せ続けた。


──私は?


 パシャっ


 何度か水で顔を洗い、拭う。右頬のニキビは血が止まっていたが、冷たい水はまだ染みた。


 「はぁ......タオル、どこだ」


 手の水分を拭いながら、お茶を淹れるためのカップを取り出す。ここにはあの女に出す高価なカップ以外は、大概安物の陶器ばかりだ。

 外は雨の音がする。厚い雲が張っているせいで雲を貫く日の光は弱いが、夜の闇よりは心地がいい。

 

 本当は、雲より青空のほうがいい。ぐずぐずと泣き降る雨より美しく照る陽光が好きだ。そんなもの、この町に来た時点で諦めてはいたのだけど。


 コン、コン。


 「?」


 玄関の方からノック音。落ち着いたリズムに首を傾げる。

 準備を終え、座ろうとしていたところへの呼び出しに、気を抜いていたせいか少し驚いた。


 「全く、診察は十時からだと言っているのに.......」

 

 結局、一口も口をつけないままお茶を放置して、急ぎ足で玄関へ向かう。急患であれば大変だ。すぐにでも診なくてはいけない。それか「常連」か。来る予定のある者は、今月はもういないはずなのだけど。


 冷え切ったドアノブに手をかけ、音を立てて扉を開ける。


──ズキッ


 (うっ......!)

 

 瞬間、頭痛が強く響き思わずこめかみを抑え眉をひそめる。そういえば頭痛薬を飲まなくては。まあ、とにかく、自分のことは後でいい。

 今は来訪者の対応だ。

 

 「失礼。少し頭痛が。それで一体どうし──」


 ヒュッ。と喉が鳴った。

 黒。艶やかな黒。こんな雨の日であるのに、絹のような美しい黒。冷酷な黒の視線は私を見下ろし、ふっと美しく微笑んだ。

 黒い外出用のドレスを身に着けて、胸にはキャッツアイのエメラルドが付いた金のブローチがキラキラと輝いている。

 

 「ごきげんよう、ヴィクトル・ラヴェニ」


 鈴の鳴るような声色なのに、重さを感じる恐ろしい声。

 わざわざ少し腰を折って、彼女は目を見開いたまま硬直する私を覗き込む。


 どうして。なんで。

 彼女はフラン家の規律に厳格だ。

 月イチのペースは今まで絶対に崩さなかったのに。


 はく、はく、と声を出そうにも喉が痙攣して話すことができない私の目の前で、形のいい唇が言葉を紡ぐ。


 「私と、結婚してくださらない?」


 彼女が好まないような、アンバーの重い甘い香りが、熱を持ってふわりと鼻腔をかすめた。

 

 「……………………………………は?」


 玄関のひさしに雨音が打ち付ける音だけが、このときは耳を劈くように響いた。


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