1-1 聞こえてる?
ここから、湊と凪の話が始まります。
最初は、四人で遊んだ夜の、ごく小さな声から。
画面の右上には、四つの名前が並んでいた。
声がしていたのは、三人分だった。
「このゲーム、走ると見つかるらしいぞ」
「先に言えよ。さっきから全力疾走してたわ」
「だから警報鳴ってたんじゃない?」
「俺のせいなの、これ」
坂口と牧野が、誰に頼まれたわけでもなく騒いでいる。
俺たちが遊んでいたのは、閉鎖された研究施設から記録媒体を回収する、四人用の協力ゲームだった。施設の中には、暗い廊下と、開かない扉と、こちらを見つけると妙に速く走ってくる何かがいる。
坂口に誘われるまま買ったばかりで、俺を含めて全員がほとんど初見だった。
もう一人、坂口が連れてきたのが凪だった。
水瀬凪。
その名前は、ゲームを始める前の短い挨拶で一度聞いただけだった。画面では、アルファベットでNAGIと表示されている。
最初に「よろしくお願いします」と言ったあとは、彼女の名前の横にある音声マークはほとんど光っていなかった。
坂口と牧野は以前からの知り合いらしく、二人だけで成立する冗談が多かった。俺は何度か一緒に遊んだことがあるので、その中に適当に言葉を挟める。
凪だけが、会話の少し外側にいた。
無視されているわけではない。
誰も無視しているつもりがないまま、三人分の会話だけが先へ進んでいた。
声だけで集まる場所では、黙っている人は簡単にいなくなる。
対面なら、言葉を挟みたそうに少し開いた口や、誰かと目が合うのを待つ視線が見える。オンラインでは、それらは名前の横にある小さな音声マークへ置き換わる。何かを言いかけても、別の声と重なれば、円が一瞬光って消えるだけだ。
凪の円は、それまでに二度ほど光っていた。
一度目は坂口の笑い声に、二度目は牧野の説明に重なった。何を言ったのかまでは聞き取れなかった。二人は気づかず、そのまま次の話へ移っていた。
それは、誰かを仲間外れにするような、はっきりした出来事ではなかった。
だからたぶん、放っておけば、最後まで誰も気づかなかった。
「とりあえず入るか」
坂口が施設の扉を開けた。
錆びた金属音がして、画面が暗くなる。
「凪さん」
返事はなかった。
俺はもう一度、今度は少しだけ声を大きくした。
「凪さん、こっちの声、聞こえてる?」
一拍遅れて、NAGIの横に小さな円が灯った。
「聞こえてます」
初めの挨拶より、少し低い声だった。
「よかった。マイク壊れてるのかと思った」
「壊れてるのは、会話に入るタイミングのほうかも」
思っていたより早く返ってきた言葉に、俺は笑った。
「それはたぶん坂口が壊してる」
「なんで俺なんだよ」
「一人で二人分くらい喋ってるから」
「じゃあ人数としては五人じゃん。得したな」
「ホラーゲームで余計な一人が増えるの、だいたい得じゃないだろ」
凪が、小さく笑った。
声を抑えようとして、最後のところだけ少し漏れたような笑い方だった。
扉の先は、受付らしき場所につながっていた。倒れた椅子と、ひびの入った案内板が懐中電灯の光に浮かぶ。正面には上り階段があり、その脇に地下へ続く扉があった。
『関係者以外 地下立入禁止』
「二階から行こうぜ」
牧野が言った。
「いや、こういうのは地下だろ」
坂口が反対する。
二人はそれぞれ、たいした根拠もなく自分の意見を押し始めた。
俺は画面の端を見た。
凪のキャラクターは、少し離れた場所で案内板を読んでいる。
「凪さんは、どっち行きたい?」
また一拍あった。
「地下」
「理由は?」
「立入禁止って書いてあるから」
「禁止されてるけど」
「ゲームの立入禁止は、入ってくださいって意味でしょ」
「確かに」
「多数決、地下二票な」
「俺まだ二階に一票入れてねえよ」
「さっき入れてただろ」
四人で地下へ降りた。
それから凪の音声マークは、少しずつ光るようになった。
一度会話の中へ入ってしまえば、凪にはもう遠慮がなかった。
言葉が少ないのではなく、最初の一言を置く場所がなかっただけらしい。こちらから何かを尋ねれば、考え込んで会話を止めることも、周囲の顔色をうかがって答えを変えることもなかった。
話し始めた凪は、特別よく喋るわけではなかった。誰かの言葉が終わるのを待ってから、必要なところへ短く返す。坂口の冗談には、半分ほど呆れた声で突っ込みを入れた。
説明された操作が分からなければ、「それ何?」とすぐに聞いた。
教えれば、「ああ、そういうことね」と一度で先へ進んだ。
遠慮がちなのかと思えば、慣れてきた途端に牧野を囮に使った。
「なんで俺にだけ化け物押しつけた?」
「いちばん足が速そうだったから」
「俺が?」
「化け物が」
俺が吹き出すと、凪も今度は声を隠さず笑った。
暗い廊下を、四本の懐中電灯がばらばらに照らしていた。
そのとき、凪の音声マークが一瞬だけ点いた。
坂口と牧野は、見つけた鍵を誰が持つかで揉めている。
「凪さん、今なんか言った?」
「言った」
「何?」
「後ろにいる」
「何が?」
「たぶん、聞かないほうがよかったやつ」
振り向くと、懐中電灯の光の端に、白い顔が浮かんでいた。
次の瞬間、坂口が叫び、牧野が坂口を置いて逃げ、俺は逃げ道を間違えた。凪だけが笑いながら正しい階段を上っていった。
結局、俺たちは記録媒体を一つしか回収できず、全員そろって施設の外へ転がり出た。
「いや、無理だろこれ」
「最後、湊が逆走してたの面白すぎた」
「あれは逃げ道を増やそうとしてた」
「自分が逃げる道、減ってたけど」
凪が言った。
「初対面の人にそこまで言う?」
「初対面だから、まだ加減が分からなくて」
「じゃあ仕方ないな」
何が仕方ないのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、その頃にはもう、画面の右上に並んだ四つの名前と、聞こえてくる声の数が同じになっていた。
一時間ほど遊び、日付が変わる前に解散した。
凪が先に「お疲れさまでした」と言って通話から抜けた。続いて牧野も消え、画面から二人分の名前がなくなる。
坂口が、急に静かになった通話の中で言った。
「凪、今日やっぱ静かだったな。人見知りするから」
「そうか?」
俺はゲームを終了しながら答えた。
「後半、普通に喋ってたけど」
「お前がいちいち拾ってたからだろ」
「聞こえたから聞いただけだよ」
「ふうん」
坂口は、何か知っているような声を出した。
俺には、その含みの意味が分からなかった。
ヘッドセットを外すと、さっきまで四人分の声がしていた部屋に、パソコンのファンが回る音だけが残った。
俺は空になったペットボトルを片づけ、明日の予定を確かめた。初めて遊んだゲームは思っていたより面白かった。次にやるなら、地下へ降りる前に逃げ道くらい覚えておこうと思った。
その日の感想は、その程度だった。
凪を特別扱いしたつもりはなかった。困っているように見えたから助けたわけでも、女の人だから気を遣ったわけでもない。
四人いるのに、三人だけで話が進むことが、単純に気持ち悪かった。
会話の人数と、画面の人数が合っていない。
ただ、それだけだった。
その夜、俺は凪の声を初めて聞いた。
凪のほうは、自分の声を聞こうとした人がいたことを覚えていた。
第一話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話では、湊にとっては当たり前だった公平さが、凪の中へもう少しはっきり残っていきます。




