第71話 閉じた扉
部屋は静かだった。
静かすぎるほどに。
窓の外では風が吹いている。
遠くから隊員たちの声も聞こえる。
誰かの笑い声。
剣がぶつかる音。
魔法の炸裂音。
アルビオンは今日も動いている。
けれど。
リゼアにはそれが遠い世界の出来事のように感じられた。
ベッドに腰を下ろしたまま。
何もしていない。
何も出来ない。
机の上には開きかけの参考書が置かれていた。
三日前から同じページのまま。
一文字も頭に入らない。
魔法理論書も。
戦術書も。
訓練記録も。
何も読む気になれなかった。
机の横には魔導杖が置かれていた。
掌で半分覆われるほどの長さしかない小さな杖。
アルビオンへ入る前から。
毎日のように握っていた相棒だった。
訓練の時も。
勉強する時も。
魔力制御の練習をする時も。
いつも傍にあった。
けれど今は。
見るだけで胸が苦しくなる。
食事だけは取っていた。
アイリスが何度も持ってきてくれるから。
食べなければ心配される。
それだけだった。
味なんて分からない。
遮光カーテンはしっかりと閉められ、部屋の小さな明かり以外は感じられない。
朝なのか昼なのか夜なのか。
そんなことも曖昧だった。
ただ。
時間だけが過ぎていく。
ベッドへ座る。
窓を見る。
横になる。
また起きる。
それだけ。
そんな日々だった。
ふと。
視線が机の上へ向く。
そこには端末が置いてあった。
何件か通知が届いている。
ガルド。
アイリス。
クロエ教官。
何度も連絡をくれていた。
心配してくれているのは分かる。
でも返せなかった。
何を書けばいいのか分からなかった。
大丈夫です。
そう返す資格なんてない。
頑張ります。
そんな言葉も吐けない。
結局。
既読すら付けられなかった。
その時だった。
端末が震える。
ぶるり、と机の上で小さく跳ねた。
リゼアは視線を向ける。
動かない。
また通知だろう。
放っておけばいい。
そう思った。
だが。
少しして。
また震えた。
ぶるり。
沈黙。
ぶるり。
ぶるり。
「……何よ」
小さく呟く。
鬱陶しい。
今は誰とも話したくない。
放っておいてほしい。
けれど。
しつこく震える端末を無視し続けることも出来なかった。
リゼアは重い身体を起こす。
机へ歩く。
端末を手に取る。
表示された名前を見て。
僅かに目を見開いた。
『カナト』
胸がざわつく。
何故。
今。
カナトが。
心配しているのだろうか。
慰めるつもりなのだろうか。
そんなことして貰う資格、私にはないのに。
あの日。
患者を死なせかけた。
土砂崩れを起こした。
皆に迷惑を掛けた。
そして。
最後はカナトに助けてもらった。
会わせる顔なんてない。
そう思いながらも。
指は自然と画面を開いていた。
そして。
メッセージを読む。
一行。
二行。
三行。
沈黙。
数秒。
いや。
十秒以上固まっていたかもしれない。
リゼアはもう一度読む。
さらにもう一度読む。
そして。
「…………は?」
間抜けな声が漏れた。
画面にはこう書かれていた。
『蒼炎程度で満足しているのか』
『お前は弱い』
『俺がそれを徹底的に教えてやる』
『今日の夕方の刻』
『第三訓練場で待つ』
『来なければお前は所詮、その程度だったということだ』
『カナト』
沈黙。
リゼアは瞬きを繰り返した。
もう一度読む。
意味が分からない。
何度読んでも意味が分からない。
「……何これ」
思わず声に出る。
意味が分からない。
本当に意味が分からない。
カナト?
あのカナト?
患者を助けることしか頭にない。
訓練中ですら人の心配ばかりしている。
あのカナト?
そんな人間が。
こんな挑発を?
「馬鹿じゃないの……?」
呟く。
だが。
画面を閉じられない。
また読む。
そして。
段々と。
込み上げてくるものがあった。
「蒼炎程度……?」
あれだけ苦労したのに?
あれだけ努力したのに?
血が滲むほど魔力を練って。
何度も失敗して。
何度も立ち上がって。
ようやく届いた力なのに。
それを。
蒼炎程度?
「ふざけないで……」
胸の奥が熱くなる。
数日ぶりだった。
怒り。
悔しさ。
感情が動いている。
「何が分かるのよ」
端末を握る手に力が入る。
「何も知らないくせに」
カナトは知らない。
ヴォルト家を。
期待を。
重圧を。
知らない。
知らないはずだ。
なのに。
勝手なことを言う。
蒼炎程度?
私が弱い?
教えてやるですって?
「何様なのよ……!」
思わず声が大きくなる。
部屋に響く。
そして。
そこで。
リゼアは気付いた。
呼吸が荒くなっている。
胸が上下している。
感情が動いている。
ここ数日。
何も感じなかったはずなのに。
何もしたくなかったはずなのに。
今だけは違う。
腹が立つ。
本当に腹が立つ。
そして。
その怒りの奥で。
ほんの少しだけ。
違う感情が生まれていた。
部屋の外へ行って言い返したい。
カナトに文句を言いたい。
殴りたい。
燃やしたい。
その衝動だった。
リゼアは呆然と立ち尽くす。
数日前なら考えられない。
誰にも会いたくなかった。
部屋から出たくなかった。
何もしたくなかった。
なのに。
今は。
第三訓練場へ行って。
あの馬鹿を問い詰めたいと思っている。
「……最低」
誰に向けた言葉か。
分からない。
カナトか。
自分か。
それとも両方か。
リゼアはゆっくりと視線を上げる。
机の横。
置かれた魔導杖。
三日間。
一度も触れなかった相棒。
見たくもなかったそれ。
しばらく見つめる。
胸の奥が痛む。
土砂崩れ。
悲鳴。
蒼炎。
失敗。
全部が蘇る。
それでも。
視線を逸らさなかった。
ゆっくりと歩く。
一歩。
また一歩。
そして。
魔導杖の前で立ち止まる。
震える指を伸ばした。
握る。
冷たい感触が掌に伝わる。
その瞬間。
胸の奥で何かが小さく動いた気がした。
まだ分からない。
何も解決していない。
苦しいままだ。
怖いままだ。
でも。
今だけは。
この怒りに従ってやろうと思った。
リゼアは魔導杖を握り直す。
そして端末を睨み付けた。
「……上等じゃない」
低く。
静かな声だった。
「後悔するわよ、カナト」
数日ぶりに。
リゼア・ヴォルトは自らの意志で部屋の扉へ手を掛けた。




