第63話 選ぶ前に
空洞の中へ重い沈黙が落ちた。
湿った土の匂い。
岩肌から滴る水滴の音。
遠くから聞こえる微かな崩落音。
それら全てが妙に大きく聞こえる。
「このまま引き抜いたら死にます」
カナトの声は空洞の中へ静かに響いた。
誰もすぐには言葉を返さなかった。
男性も。
ギルフォードも。
ただカナトを見ていた。
男性の顔色が変わっていく。
助かった。
そう思った直後だった。
救助隊が来た。
もう終わったと思った。
なのに。
「……え……?」
掠れた声。
「死ぬ……?」
震えていた。
当然だった。
希望を掴んだ直後に突き落とされたのだから。
カナトは視線を逸らせなかった。
治癒師だから伝えなければならない。
現実から目を背けてはいけない。
ギルフォードが脚を見る。
土砂の下。
潰れた右脚。
そして再びカナトを見る。
「説明しろ」
短い言葉だった。
責める響きはない。
ただ事実を求めている。
カナトは息を吐いた。
「脚が長時間圧迫されています」
魔眼が映す景色を言葉へ変える。
「今は岩が押さえているせいで均衡が保たれています」
「均衡?」
「はい」
カナトは頷く。
「このまま岩を退かせば、圧迫されていた場所の異常が一気に全身へ回ります」
説明しながらも違和感があった。
言葉が足りない。
見えているのに説明できない。
魔眼は結果を告げている。
危険だと。
死ぬと。
だが理由の全てまでは言語化できない。
「心臓が耐えられません」
ギルフォードは黙って聞いていた。
男性の顔は青ざめている。
「じゃあ……」
唇が震える。
「俺は助からないのか……?」
その言葉が胸へ刺さる。
助けを求める声だった。
諦めたくないという声だった。
だがギルフォードは目を逸らさなかった。
脚を見る。
岩を見る。
患者を見る。
そして判断する。
救助隊長として。
「切断する」
静かな声だった。
だが迷いはなかった。
男性の目が見開かれる。
「な……」
「脚は失うが生存率は上がる」
ギルフォードは続けた。
「現状で最も確実な方法だ」
空洞の中が静まり返る。
誰も間違っていない。
それが苦しかった。
ギルフォードは正しい。
救助隊長として人命を最優先に考えるなら。
脚より命。
その選択になる。
男性は言葉を失っていた。
唇が震え、目には涙が浮かんでいた。
怖いのだ。
当然だ。
助かる代わりに何かを失う。
その現実が目の前にある。
カナトは拳を握った。
正しい。
それは分かる。
分かるからこそ苦しい。
その瞬間だった。
脳裏に浮かんだのは崩落現場ではなかった。
試験会場。
アルビオン入隊試験。
白い教室。
静かな空気。
セリナ・アークライト。
アルベリウス・ノクス。
そして一枚の問題用紙。
『二人の患者がいます』
『どちらか一人しか救えません』
『君はどちらを選びますか』
あの日。
誰もが答えを選んだ。
どちらを救うか。
どちらを切り捨てるか。
だが。
カナトだけは違った。
『僕は諦めません』
『選ぶ前に方法を探します』
『それが治癒師だからです』
理想論だと言われた。
綺麗事だと言われた。
現実を知らない子供だと。
確かにそうだった。
あの頃の自分は何も知らなかった。
死も。
後悔も。
責任も。
知らなかった。
だが。
今は違う。
目の前に本物の患者がいる。
本物の命がある。
それでも。
それでも。
あの日の答えを曲げたくなかった。
「待ってください」
空洞の中へ声が響く。
ギルフォードが振り返る。
男性も見る。
カナトは二人を見返した。
ギルフォードの視線が鋭くなる。
「何か方法があるのか」
カナトは一瞬だけ言葉に詰まった。
正直に答える。
「……確証はありません」
「ですが、可能性があります」
カナトは自然と右眼に手を添えた。
沈黙。
空気が張り詰める。
男性の表情が曇る。
当然だ。
希望にも絶望にもなれない言葉だった。
だがカナトは続けた。
「これから方法を探します」
ギルフォードは何も言わない。
否定もしない。
肯定もしない。
ただカナトを、そしてカナトの右眼を見ていた。
その視線は重かった。
理想論を語る子供を見る目ではない。
本気で命を預けるか判断する目だった。
数秒。
永遠みたいに長い沈黙。
やがて。
「何分必要だ」
ギルフォードが言った。
カナトは息を呑む。
否定されると思っていた。
切断を命じられると思っていた。
だが違った。
隊長は可能性を捨てなかった。
「五分」
カナトは答えた。
「五分ください」
ギルフォードは少しの間思案するように眼を瞑った。
「…分かった」
短い返事だった。
「五分だ」
その一言で十分だった。
カナトは目を閉じる。
そして。
魔眼を解放した。
激痛。
右眼の奥が焼ける。
頭痛。
吐き気。
視界が揺れる。
だが止めない。
もっと深く。
もっと先へ。
視ろ、診ろ、見つけろ。
助けるために。
世界が変わる。
血流、筋肉、骨、壊死した組織が見える。
そして。
全身へ繋がる張り巡らされた血管循環が見える。
情報が流れ込む。
洪水のように。
脳が悲鳴を上げる。
視界の端が白く飛ぶ。
色彩が反転する。
耳鳴りが響く。
右目から血が流れ落ちる。
鼻血も落ちた。
足元が揺れる。
それでも視る。
諦めない。
脚を切れば助かる。
それが最適解。
だが。
その先を探す。
もっと先。
もっと奥。
助ける方法を。
脚も。
命も。
両方救う方法を。
限界はとうに越えていた。
だが、限界を越えないと見えないものがある。
助けられない命がある。
それなら僕はーー
そして。
見えた。
いつも魔眼が見せる知らない世界の知識。
運び込まれた患者は大量に薬剤を投与されている。
そして、体内の成分と循環の調整を行い、圧迫部位を開放している。
ーープレハイドレーション、イオンバランス操作
手持ちの医療道具では足りない。
それならどうする?
ーー魔法で補えばいい。
だが、ひとつの術式では足りない。
血流を制御する術。
循環を支える術。
毒素の拡散を抑える術。
これらを組み合わせれば。
ーー救える。
視界が揺れる。
膝が崩れそうになる。
それでもカナトは立っていた。
荒い呼吸。
滲む視界。
血の味。
それでも顔を上げる。
ギルフォードを見る。
男性を見る。
そして。
確信を持って言った。
「隊長」
ギルフォードが無言でカナトを見つめる。
カナトは震える息を吐いた。
「助ける方法が見えました」




