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第60話 蒼炎

 第三崩落地点には張り詰めた空気が漂っていた。


 日が傾き始めている。


 山々の稜線は赤く染まり、その影がゆっくりと谷を覆い始めていた。


 崩落した斜面には無数の岩と土砂が積み重なり、本来そこにあった地形を判別することすら難しくなっていた。


 現場では指示が次々と飛び交い、隊員達は息つく暇もなく持ち場を駆け回っていた。


「生存反応がさらに弱くなっています」


 救助隊員の報告が響く。


 その場の空気が一瞬で重くなった。


 ギルフォードは地図から視線を上げる。


「呼び掛けへの応答は」


「途切れ途切れです」


 短い返答。


 だが、それだけで十分だった。


 残された時間は多くない。


 誰も口には出さない。


 それでも全員が理解していた。


 土砂の向こうで、生存者は今も助けを待っている。


 そしてその命は少しずつ失われようとしている。


 風が吹いた。


 崩落地点の奥から流れてくる土の匂い。


 湿った土と砕けた木々の匂いが鼻を刺す。


 リゼアは崩落地点を見つめた。


 土砂の向こう側。


 姿は見えない。


 それでも、そこにいる。


 助けを待つ人が。


「たすけて……」


 微かな声が風に乗って届く。


 最初に聞いた時よりも弱い。


 今にも消えてしまいそうなほどに。


 リゼアは唇を噛んだ。


 胸の奥が締め付けられる。


 助けたい。


 その思いはもう言葉にするまでもなかった。


 気付けば足が前へ出ている。


 一歩、また一歩と自分でも止められないまま崩落地点へと近付いていた。


「おい」


 低い声が飛ぶ。


 振り返るとガルドが立っていた。


 腕を組み、鋭い視線を向けている。


「どこ行く気だ」


「……少し確認するだけよ」


「嘘つけ」


 即答だった。


 ガルドは大きく息を吐く。


「顔見りゃ分かる」


 リゼアは返事ができなかった。


「やめとけ」


「ギルフォード隊長が待てって言っただろ」


「分かってるわ」


「なら待て」


 その言葉に苛立ちはなかった。


 あるのは心配だけだった。


「助けたいのは俺だって同じだ」


 胸が痛む。


 ガルドも苦しいのだ。


「だからこそ待つんだよ」


 それ以上、ガルドは何も言わなかった。


 言えなかった。


 助けたいという気持ちが本物だと知っているから。


「ガルドさんの言う通りです」


 静かな声が割って入る。


 アイリスだった。


 落ち着いた足取りで二人の間へ歩いてくる。


「現在の地盤状態では危険です」


「隊長の判断が最も合理的です」


 感情ではない。


 事実だけを並べる。


 アイリスらしい言葉だった。


「リゼアさんらしくありません」


 リゼアは顔を上げる。


 アイリスは真っ直ぐ見返していた。


「冷静ではありません」


 責める声ではない。


 だからこそ刺さる。


 自分でも分かっているからだ。


 焦っている。


 冷静ではない。


 それでも。


「リゼア」


 今度はカナトだった。


 リゼアは振り返る。


 カナトは何か言おうとしていた。


 だが上手く言葉にならない。


 そんな表情だった。


 自分を止める言葉を必死に探している。


 けれど見付からない。


「……待ってくれ」


 ようやく出てきた言葉はそれだけだった。


 命令ではない。


 説得でもない。


 ただの願い。


 胸の奥が少しだけ痛む。


 カナトはいつもそうだ。


 押し付けず、否定せず、誰かを救おうとする。


 それでもーー。


「ごめん」


 小さく呟く。


 そして前を向いた。


 もう止まれなかった。


 杖を握りしめ、魔力を流す。


 身体に染み付いた動作。


 失敗する度に見直してきた工程。


 赤い炎が生まれる。


 いつも通りだった。


 炎が揺れ、リゼアの表情が強張る。


 何度も見てきた光景。


 ここから崩れ、形を失う。


 蒼へ届く前に赤へ戻る。


 訓練場でも。


 アリーナでも。


 夜が更けるまで杖を握り続けた日々でも。


 結果は同じだった。


 だが、今回は違った。


 リゼアは炎が崩れていないことに気付いた。


 揺れている、だが消えない。


 赤い炎の中心に、小さな蒼い光が生まれる。


 火種だった。


 それはゆっくりと広がっていく。


 赤を飲み込み。


 形を整え。


 色を変えていく。


 リゼアは息を呑んだ。


 目の前で燃えているのは紛れもなく蒼い炎だった。


 夕暮れの空よりも深く。


 宝石のように透き通った炎。


 熱量は確かに存在する。


 だが今までの炎のような荒々しさがない。


 全てが思い描いた通りに制御されている。


 理論通りに。


 完璧に。


 蒼の熱を含んだ風が頬を撫でた。


 杖を握る手が震える。


 恐怖ではない。


 歓喜だった。


 興奮だった。


 ーー蒼炎。


 ついに届いた。


 ずっと欲しかった力が、今、確かに自分の手の中にあった。


 これなら瓦礫や岩、土砂も全てを貫き間違いなく最短距離まで道が作れる。


 ガルドが目を見開く。


「おい……」


 アイリスも言葉を失う。


 カナトも息を呑んだ。


 誰もが驚きを隠せなかった。


 離れた場所でギルフォードが顔を上げた。


 蒼い光が視界へ映る。


 一瞬だけ目を見張った。


 だが次の瞬間。


 視線は蒼炎ではなく、その奥へ向いた。


 崩落地点のさらに奥。


 不安定な斜面。


 表情が変わる。


「っ、待て――」


 初めて焦りを含んだ声だった。


 だが。


 もう遅い。


 蒼炎が放たれる。


 ーー轟音。


 青い閃光が夕闇を切り裂くように山肌を駆け抜ける。


 周囲の空気が震える。


 熱を帯びた風が吹き抜けた。


 土砂を飲み込み、岩を砕き、塞がれていた進路を消し飛ばす。


 次の瞬間。


 土煙が晴れる。


 そこには救助隊が何時間も掛けて開こうとしていた道が真っ直ぐ伸びていた。


 生存者へ届く道。


 リゼアの瞳が大きく開く。


 「…できた」


 長い努力がようやく報われた気がした。


 切り開けた。


 これで間に合う、助けられる。


 その確信が胸を満たした。


 ーーだから。


 最初は誰も気付かなかった。


 ぱきり。


 小さな音だった。


 地面の奥深くで何かが割れる音。


 そして。


 地面が震えた。


 足元から伝わる不快な振動。


 嫌な予感が背筋を走る。


 リゼアの笑みが消えた。


 開いた進路のさらに奥。


 消し飛ばした場所ではない。


 別の斜面だった。


 巨大な亀裂が走る。


 岩盤が割れる。


 土砂が崩れる。


「――っ」


 息が止まる。


 理解が追い付かない。


 だが崩れている。


 山そのものが。


「離れろ!!」


 ギルフォードの怒号が響く。


 その直後だった。


 激しい音が響き渡り、山が崩れた。


 土砂が流れ落ちる。


 岩が転がる。


 悲鳴が上がる。


 開いたはずの進路が飲み込まれていく。


 確かに道は拓いたはずだった。


 間に合うと思った。


 助けられると信じた、その瞬間。


 山は、全てを否定するかのように崩れ落ちた。


 視界が土煙に覆われる。


 喉の奥へ土埃が入り込む。


 呼吸が詰まる。


 何も見えない。


 何も分からない。


 杖を握る指から力が抜けた。


 乾いた音を立てて地面へ落ちる。


 膝が崩れる。


 立っていられなかった。


 目の前で起きた光景を、脳が理解することを拒んでいた。


 土煙の向こうで誰かが叫んでいる。


 だが何も聞こえない。


 耳鳴りだけが続いている。


 視界の端で、蒼い炎の残光が揺れていた。


 つい先ほどまで。


 それは夢だった。


 努力の証だった。


 いつか辿り着きたい理想だった。


 だが今は違う。


 その蒼い光を見るたびに。


 崩れ落ちる山肌が脳裏に蘇る。


 流れ落ちる土砂。


 響く悲鳴。


 開いたはずの道が飲み込まれていく光景。


 喉の奥が震えた。


 呼吸がうまくできない。


 ただ、自分が取り返しのつかないことをした。


 その事実だけが、重く胸の奥へ沈んでいく。


 蒼い炎だけが、残酷なほど美しく揺れていた。


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