第59話 届かせたい想い
迂回ルートの確保は着実に進んでいた。
救助隊員たちは休むことなく動き続けている。
それでもリゼアには、その歩みがあまりにも遅く感じられた。
崩れた山肌が目の前に広がっている。
本来なら木々に覆われていたはずの斜面は無残に抉られ、剥き出しになった岩盤が夕暮れの光を鈍く反射していた。
巨大な岩が不安定な姿勢で斜面に引っ掛かり、その周囲には折れた木々や土砂が幾重にも積み重なっている。
まるで大地そのものが傷を負ったような光景だった。
誰も大声を出さない。
足音さえ自然と慎重になる。
この山がまだ終わっていないことを、ここにいる全員が理解しているからだった。
◇
「生存反応を再確認しました」
救助隊員の報告に、その場にいた全員が顔を上げる。
ギルフォードが振り返った。
「どうだ」
「弱くなっています」
短い返答だった。
だが、その一言だけで十分だった。
空気が変わる。
「意識レベルは不明です。ただ……長くは保たない可能性があります」
誰も言葉を返さなかった。
返せなかった。
分かってしまったからだ。
時間がない。
誰もがそれを理解した。
「迂回ルートの確保を急げ」
ギルフォードが指示を飛ばす。
「救助開始はその後だ」
冷静な声だった。
焦りはない。
だが迷いもない。
隊長として正しい判断。
誰も異論を挟まない。
この斜面に無理に近付けば二次崩落が起きる。
そうなれば助ける側まで巻き込まれる。
被害が広がるだけだ。
だから待たなければならない。
それが最善だった。
◇
胸の奥がざわつく。
視線の先には崩落地点。
土砂と岩の向こう側。
そこに誰かがいる。
姿は見えない。
年齢も性別も分からない。
怪我の程度も分からない。
それでも、その人が必死に生きようとしていることだけは伝わってきた。
二時間。
頭の中でその数字が何度も繰り返される。
迂回ルートの確保に必要な時間。
安全を確保するための時間。
必要な時間。
正しい時間。
それなのに、今は途方もなく長く感じられた。
その時ーー。
あの距離なら届くかもしれない。
自分の炎なら、瓦礫を焼き払い、道を切り開けるかもしれない。
そんな考えが、不意に胸をよぎった。
そして同時に、ある光景が脳裏をよぎった。
◇
アルビオン入隊試験。
空を埋め尽くす矢。
悲鳴。
混乱。
立ち止まる受験生達。
誰もが足を止めていた。
危険だったからだ。
正しい判断だったと思う。
無理に進めば怪我をする。
下手をすれば脱落する。
だから立ち止まる。
それが普通だった。
だが、自分は違った。
杖を握った。
炎を放った。
矢の雨を押し返した。
進むための道を切り開いた。
誰も動けなかった場所で。
誰も踏み出せなかった状況で。
自分は前へ進んだ。
◇
あの時だって危険だった。
無謀だったかもしれない。
それでも結果として道は開けた。
前へ進めた。
あの時も、危険だからと立ち止まれば何も変わらなかった。
ならば今回も――
そこまで考えた瞬間、リゼアは小さく首を振った。
違う。
試験と災害現場は違う。
そんなことは分かっている。
矢と土砂は違う。
試験と救助は違う。
分かっている。
分かっているはずなのに。
「た…すけて……」
また声が聞こえた。
今度はさらに弱かった。
まるで風へ溶けてしまいそうなほどに。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられる。
本当に待っていて大丈夫なのだろうか。
もし二時間も保たなかったら。
もし助けが間に合わなかったら。
その時、自分は後悔しないと言い切れるだろうか。
◇
気付けば足が動いていた。
ギルフォードの元へ向かう。
周囲の隊員達が視線を向ける。
だが気にならなかった。
今はそれどころではない。
「隊長」
ギルフォードが顔を上げる。
「なんだ」
「このままでは間に合わない可能性があります」
自分でも驚くほど声は冷静だった。
「私が先行します」
周囲の空気が変わる。
隊員達が顔を見合わせる。
「炎で障害物を除去します」
「ルート確保を早められます」
「救助開始までの時間を短縮できます」
感情論ではない。
少なくともリゼアはそう思っていた。
助けるための提案。
そのつもりだった。
だが。
「却下だ」
即答だった。
迷う素振りさえない。
その一言に、この場の責任を背負う者の覚悟が滲んでいた。
リゼアは言葉を失う。
それでも食い下がる。
「ですが――」
「却下だ」
再び同じ言葉。
迷いはない。
揺らぎもない。
「生存反応が弱くなっています」
「分かっている」
ギルフォードは即答した。
「なら――」
「リゼア」
低い声だった。
怒鳴るでもなく、威圧するでもなく。
ただ事実を告げる声。
「お前の炎は強い」
その言葉にリゼアは黙る。
「だからこそ駄目だ」
ギルフォードは崩落地点へ目を向ける。
「この斜面は不安定だ」
「お前の炎なら崩れる可能性がある」
「今は待て」
短い言葉だった。
だが反論できなかった。
隊長は正しい。
理屈も理解できる。
自分の炎がどれだけの威力を持つか、自分自身がよく知っている。
だから本来なら納得しなければならない。
それでもーー。
リゼアは静かに頭を下げた。
「……了解しました」
口ではそう答える。
だが胸の奥の焦燥だけは消えなかった。
◇
持ち場へ戻る。
レオンが指示を飛ばしている。
救助隊がロープを運んでいる。
隊員達が土砂を撤去している。
全員が助けるために動いている。
誰も怠けていない。
誰も諦めていない。
それなのに。
どうしても足りない気がした。
◇
空はいつの間にかさらに暗くなっていた。
厚い雲が山々を覆い、遠くで鈍い雷鳴が響く。
冷たい風が吹き抜ける。
時間だけが過ぎていく。
リゼアは崩落地点を見つめた。
助けを待つ誰か。
届かない距離。
そして、自分なら届くかもしれないという思い。
『今は待て』
隊長の言葉が頭をよぎる。
正しい。
分かっている。
理解している。
それでも。
リゼアはゆっくりと拳を握った。
助けを求める声だけが、いつまでも耳から離れなかった。




