第58話 魔眼が視たもの
第三崩落地点は異様な空気に包まれていた。
あまりにも静まり返っていて、その沈黙がかえって不気味だった。
同じ災害現場とは思えないほどに。
少し離れた救護所では負傷者の声が絶えず、搬送班が走り回り、治療を行う治癒師達の指示が飛び交っている。
だが、この場所だけは違った。
誰も大声を出さない。
足音さえ慎重になる。
まるで山そのものが息を潜めているようだった。
風が吹く。
斜面の上から砂がさらさらと流れ落ちる。
乾いた音。
小石が転がる音。
その一つ一つが妙に耳へ残る。
カナトは斜面を見上げた。
崩れた山肌が剥き出しになっている。
木々は根元から引き抜かれ、巨大な岩が途中で引っ掛かるように止まっていた。
本来そこにあるはずの均衡が壊れている。
そんな印象だった。
◇
生存者が発見されたのは、崩落地点のさらに奥だった。
土砂と岩に囲まれた場所。
運良く空間が残ったのだろう。
声は確認できている。
生きている。
だが辿り着けない。
それが問題だった。
ギルフォードが地図を広げる。
周囲には各班の隊員達が集まっていた。
誰もが真剣な表情で斜面を見つめている。
「迂回ルートを確保する」
低い声が響く。
「現在位置からの進入は危険だ」
誰も反論しない。
現場を見れば分かる。
無理に進めば二次崩落を招く。
それは救助ではなく自殺だ。
ましてここにはアルビオンだけではない。
地元救助隊。
住民。
搬送班。
多くの人間がいる。
一つの判断ミスが全体を巻き込む。
だからこそ慎重にならなければならない。
◇
「最短で二時間掛かります」
報告が上がる。
空気が少し重くなった。
二時間。
短くはない。
まして負傷者ならなおさらだ。
風が吹く。
山の上空には灰色の雲が広がり始めていた。
天候も良くない。
時間が経てば条件はさらに悪くなる。
誰も口にはしない。
だが全員が同じことを考えていた。
間に合うだろうか。
◇
その時だった。
「た……すけて……」
微かな声。
風に乗って届く。
誰もが顔を上げた。
聞き間違いではない。
生存者の声だった。
弱々しい。
今にも消えてしまいそうな声。
それでも確かに生きている。
助けを待っている。
その事実だけが現場の空気をさらに重くした。
住民の一人が拳を握る。
救助隊員が唇を噛む。
誰もが助けたいと思っている。
だからこそ焦りが生まれる。
◇
カナトは無意識に右眼へ触れた。
そして魔眼を開く。
世界が変わる。
輪郭が浮かび上がる。
視界の奥に隠れていた構造が見えてくる。
斜面。
岩盤。
木の根。
積み重なった土砂。
その全てが薄く透けて見えた。
「……っ」
思わず息を呑む。
想像以上だった。
斜面の内部は無数の亀裂で埋め尽くされていた。
蜘蛛の巣のように広がる亀裂。
辛うじて支え合っている岩盤。
崩れた地層。
一見安定して見える場所ですら危うい。
まるで積み木だった。
どこか一つを引き抜けば、均衡はあっさり崩れる。
目の前の斜面は、まさにそんな危うさの上に成り立っていた。
カナトの背筋に冷たいものが走る。
ギルフォードの判断は正しい。
ここへ無理に踏み込むのは危険だ。
魔眼がそう告げていた。
◇
視界を戻す。
胸の鼓動が少し速い。
その時だった。
少し離れた場所に立つリゼアの姿が目に入る。
彼女もまた崩落地点を見つめていた。
生存者がいる方向を。
じっと。
何かを考え込むように。
カナトは再び魔眼を開いた。
今度はリゼアへ向けて。
◇
言葉を失う。
見慣れた魔力ではなかった。
以前のリゼアの魔力は美しかった。
力強く。
真っ直ぐで。
無駄がない。
鍛え上げられた剣のような魔力。
それが彼女だった。
だが今は違う。
荒れている。
以前の澄んだ流れは消え失せ、濁流のような魔力が体内を暴れ回っていた。
魔力が脈打ち、膨れ上がる。
規則性がない。
まるで何かと戦っているようだった。
そして、その荒れ狂う魔力の奥底で――。
ほんの刹那、蒼い光が揺らめいた。
見間違えるはずがない。
カナトはその光を知っていた。
以前、二人で訓練した時に見た炎。
それに似ていた。
だが次の瞬間には消える。
赤い魔力へ飲み込まれるように。
何事もなかったかのように。
◇
(あれは、一体……)
何故あそこまで魔力の流れが変わっているのか。
分からない。
だが正常ではないのは分かる。
魔力そのものが悲鳴を上げているように見えた。
◇
「リゼア」
気付けば声を掛けていた。
反応が少し遅れる。
ほんの僅か。
だが以前の彼女ならあり得ない遅さだった。
リゼアが振り返る。
「あら、どうしたの?」
笑顔だった。
普段通りの。
少なくとも外から見れば。
だがカナトには違って見える。
魔眼が見せた光景が頭から離れない。
「いや……」
言葉が続かない。
危険だ。
休んでほしい。
そう言いたいのに、確かな根拠を示せない。
魔眼で見えたものを、そのまま口にして信じてもらえるとも思えなかった。
結局。
「気を付けて」
そんな言葉しか出なかった。
リゼアは少しだけ目を丸くする。
そして小さく笑った。
「ええ」
それだけだった。
◇
風が吹く。
斜面の上から小石が転がり落ちる。
さらり、と乾いた音。
誰も気付かないほど小さな音だった。
だがカナトには妙に大きく聞こえた。
リゼアの視線が生存者の方へ向く。
拳が僅かに握られる。
その横顔には焦りがあった。
助けたいという思い。
間に合わせたいという願い。
それ自体は間違っていない。
この場にいる誰もが同じ気持ちだった。
だからこそ、カナトは余計に不安になる。
魔眼は危険を告げていた。
斜面も。
リゼアも。
どちらも今まで見たことがない状態だった。
だが、それをどう伝えればいいのか分からない。
灰色の雲が空を覆う。
山を吹き抜ける風が少しずつ強くなる。
嵐の前の空気に似ていた。
重く。
息苦しく。
何かが起ころうとしている。
その予感だけが、山を吹き抜ける風よりも冷たく、カナトの胸に居座り続けていた。




