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第54話 届かない場所

 夜のアリーナは静まり返っていた。


 昼間は訓練生達の声で賑わう観客席にも人影はない。


 石造りの壁を撫でる夜風だけが静かに吹き抜けていく。


 その沈黙を破るように、赤い炎が夜を照らした。


 轟音。


 訓練用標的が爆ぜ、熱気が広がる。


 炎が消えれば、再び静寂だけが残った。


 リゼアは杖を握り直す。


 掌には薄く赤い跡が残り、指先には鈍い痛みが走っていた。


 それでも構わない。


 欲しいのは、こんな結果ではない。


 深く息を吸う。


 ゆっくりと魔力を練り上げる。


 頭の中では何度も術式を組み直してきた。


 火属性魔法の理論。


 魔力循環。


 圧縮工程。


 高位魔法の構築手順。


 文献は読み込み、研究資料にも目を通した。


 失敗する度に原因を洗い出し、何度も修正を重ねてきた。


 少なくとも理論の上では、間違っていないはずだった。


 ならば足りないのは知識ではない。


 リゼアは静かに杖を構えた。


 赤い炎が生まれる。


 その中心が揺らぐ。


 一瞬だけ。


 ほんの一瞬だけ蒼い光が顔を覗かせた。


 胸が高鳴る。


 だが次の瞬間には均衡が崩れ、炎はいつもの赤へ戻ってしまった。


「……また」


 誰に聞かせるでもない呟きが夜へ溶ける。



 遠くで鐘が鳴る。


 消灯時間を知らせる音だった。


 それでもリゼアは杖を下ろさない。


 魔力を練る。


 放つ。


 崩れる。


 また最初からやり直す。


 その繰り返しだった。


 肩は重く、腕には疲労が溜まっている。


 それでも止める理由にはならない。


 ふと、昔の記憶が脳裏をよぎった。


 幼い頃の訓練場。


 まだ小さな手で杖を握り締め、必死に魔法を放っていた自分。


『もっと上を目指しなさい』


『ヴォルト家の人間なのだから』


『期待しているぞ』


『お前ならできる』


 誰の言葉だったのかは曖昧だ。


 父だったか。


 母だったか。


 あるいは親族の誰かだったのかもしれない。


 ただ、その期待だけは今でも胸に焼き付いている。


 幼い頃は嬉しかった。


 認められることが誇らしくて、もっと努力しようと思えた。


 けれど今は違う。


 その声を思い出す度に、胸の奥が静かに締め付けられる。



 夜風が頬を撫でる。


 リゼアはゆっくりと目を閉じた。


 脳裏に浮かぶのは、橋の任務で見た光景だった。


 巨大な魔物を前にしても冷静だったレオン。


 戦場全体を見渡し、迷うことなく人を動かし、最善へ導いていたその姿。


 自分も魔法を放った。


 最善を尽くしたつもりだった。


 それでも届かなかった。


『クロード家に負けるな』


『レオンを越えなさい』


 いつからそんな言葉を向けられるようになったのか。


 覚えてはいない。


 だが今では、その声が頭の中から離れない。


 悔しい。


 認めたくない。


 それでも今の自分では届かないことだけは理解していた。



 翌日。


 講義を終えたリゼアは医療部門の図書室を訪れていた。


 窓から柔らかな陽射しが差し込み、本棚の影を長く床へ落としている。


 机には火属性魔法の専門書が積み上げられていた。


 ページを捲る。


 文字を追う。


 理解している内容ばかりだ。


 知識が不足しているわけではない。


 それでも、何か見落としているものがある気がしてならなかった。


 ふと手が止まる。


 同じページを三度も読み返していたことに気付いた。


 内容が頭へ入ってこない。


 視線だけが文字の上を滑っていく。


 窓の外では春風に揺れる木々が穏やかな音を立てていた。


 静かな空間だった。


 静かだからこそ、心の奥に沈めた声が鮮明になる。


『もっと上へ』


『もっと強く』


『ヴォルト家の名に恥じないように』


 リゼアは静かに本を閉じた。


 胸の奥がざわつく。


 このまま座っていることさえ落ち着かない。


 立ち上がる。


 向かう先は、また訓練場だった。



 夕暮れ。


 誰もいなくなったアリーナに、赤い炎だけが何度も咲いては散っていく。


 杖を握る。


 魔力を練る。


 放つ。


 届かない。


 もう一度。


 それでも届かない。


 止まれば置いていかれる。


 休めば追いつけなくなる。


 そんな焦燥だけが胸を支配していた。


 茜色の空を見上げる。


 夕焼けに染まった世界の中で、リゼアはもう一度だけ杖を構える。


 誰にも届かない場所へ手を伸ばすように。


 その瞳には、焦りとも執念ともつかない光が宿っていた。


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