第53話 届かない言葉
返却期限の近い本を抱え、カナトは医療部門の図書室へ向かっていた。
重い扉を開く。
紙とインクの匂いが鼻をくすぐる。
静かな空間だった。
誰かがページを捲る音だけが微かに響いている。
その空気がカナトは好きだった。
本を棚へ戻そうとして、ふと奥の席へ視線を向ける。
見覚えのある赤髪が目に入った。
リゼアだった。
◇
窓際の席に座り、何冊もの本を広げている。
火属性魔法の理論書。
高位魔法の構築手順をまとめた専門書。
魔力制御に関する研究資料。
机の上は本で埋め尽くされていた。
熱心なのはいつものことだ。
だが今日は少し様子が違う。
「リゼア」
声を掛ける。
反応がない。
視線は本へ落ちたままだ。
「リゼア?」
二度目でようやく顔が上がった。
「あ……カナト」
少し驚いたような声。
それだけで違和感を覚えた。
普段の彼女なら、一度呼べば必ず気付く。
「何してるの?」
「見れば分かるでしょ」
そう言って視線を本へ戻す。
「勉強よ」
窓から差し込む光が横顔を照らす。
その目元には、薄い隈が浮かんでいた。
「ちゃんと寝てる?」
ページを捲ろうとしていた手が止まる。
「寝てるわ」
返事は早かった。
「本当?」
「本当よ」
少しだけ強い口調。
それ以上聞いてほしくないという意思が伝わってくる。
カナトは口を閉じた。
図書室に静寂が戻る。
窓の外では春の風が木々を揺らしていた。
◇
夕方。
食堂は任務を終えた隊員達で賑わっていた。
金属の食器が触れ合う音。
あちこちから聞こえる笑い声。
そんな中で、カナトは一つ空いた席へ目を向ける。
リゼアの席だった。
「今日も来てないんですね」
向かいに座るレオンがスープを口へ運ぶ。
「多分、図書室か訓練場かな」
その答えに、カナトは少しだけ視線を落とした。
「レオンさん」
「うん?」
「リゼア、大丈夫なんでしょうか」
レオンはスプーンを置いた。
驚いた様子はない。
むしろ、その問いを待っていたようにも見えた。
「心配なんだ?」
「はい」
カナトは頷く。
「最近、らしくない気がして」
焦っているようにも見える。
無理をしているようにも見える。
けれど本人は何も話してくれない。
その距離感が、もどかしかった。
しばらく黙っていたレオンは、小さく息を吐く。
「難しいな」
穏やかな苦笑だった。
「理由、知ってるんですか?」
「何となくはね」
否定はしない。
だが、それ以上も語らない。
「でも、俺じゃ駄目なんだと思う」
「え?」
「こういうことは、誰かが答えを教えて終わる話じゃないから」
静かな声だった。
「本人が、自分で向き合わなきゃいけないこともある」
カナトには、その意味を完全には理解できなかった。
ただ、レオンにも簡単には踏み込めない問題なのだということだけは伝わってきた。
◇
その夜。
寮へ戻る途中、カナトはアリーナの前で足を止めた。
窓の向こうが赤く染まっている。
炎の光だった。
リゼアは、きっと今日も訓練している。
大丈夫かと聞いても、大丈夫と答えるだろう。
無理をするなと言っても、首を横に振るだけだ。
窓越しに揺れる炎を見つめながら、カナトは何も言えずに立ち尽くす。
同じ班の仲間のはずなのに。
窓一枚隔てただけで、まるで別の世界にいるようだった。
やがて静かに踵を返す。
夜風だけが、頬を優しく撫でていった。




