第40話 アルビオンの盾
アルビオンの朝は早い。
まだ日が昇り切る前だというのに、訓練場からは金属のぶつかる音が響いていた。
窓の外では整備班が荷車を動かし、資材を運んでいる。
廊下を行き交う隊員達の足取りにも迷いはない。
それぞれが自分の役割を持ち、それぞれの一日を始めている。
カナトはそんな光景を見ながら第九班の部屋へ向かっていた。
昨日までは候補生だった。
だが今日からは違う。
アルビオン所属の隊員。
正式な治癒師だ。
その事実が、少しだけ胸を高鳴らせる。
班室の扉を開く。
「おはよう」
既にレオンがいた。
窓際の席に座り、資料へ目を通している。
「おはようございます」
「早いね」
「落ち着かなくて」
「ああ、それは分かる」
レオンは小さく笑った。
机の上には数枚の書類が広げられている。
地図や報告書のようだった。
「何か任務資料ですか?」
「まだ正式な説明前だけどね」
レオンは紙を閉じる。
「どうやら北部河川区域らしい」
「河川区域?」
「橋の補修工事みたいだよ」
その時。
廊下から足音が聞こえた。
リゼアだった。
「おはようございます」
お互いに短い挨拶を交わす。
昨日より少しだけ自然になった空気。
まだぎこちなさは残る。
だが確実に班としての形ができ始めていた。
リゼアは席に着くと、レオンへ視線を向けた。
「橋の補修ですか」
「らしいね」
「護衛任務でしょうか」
「たぶん」
レオンは肩を竦める。
「詳細は隊長から聞くことになると思う」
「隊長……」
カナトはその言葉を繰り返した。
そういえば、まだ直属の上司には会っていない。
「どんな人なんですか?」
何気なく聞いたつもりだった。
だが。
レオンは少しだけ困ったように笑った。
リゼアも珍しく言葉を選ぶような沈黙を見せる。
「どう説明したものかな」
「……とにかく、強いという言葉が相応しい人ね」
先に答えたのはリゼアだった。
「強い?」
「ええ」
それだけだった。
だが、その一言には妙な重みがあった。
「リゼアがそう言うなら相当だね」
レオンが苦笑する。
「まあ、会えば分かるよ」
その時だった。
廊下の向こうから足音が聞こえた。
一定の速度。
迷いのない歩調。
規則正しく近付いてくる。
不思議なことに。
まだ姿も見えていないのに、部屋の空気が少し変わった気がした。
リゼアが無意識に背筋を伸ばす。
レオンも資料を閉じた。
足音が止まる。
班室の前だった。
コンコン。
短く扉が叩かれる。
返事を待たずに扉が開いた。
最初に見えたのは黒い軍靴だった。
続いて現れた男を見て、カナトは思わず息を呑む。
長身。
鍛え上げられた身体。
無駄のない立ち姿。
派手さはない。
むしろ地味と言ってもいい。
だが。
そこに立っているだけで目を引く。
灰色の瞳が部屋を見渡した。
ほんの一瞬。
それだけで空気が張り詰める。
カナトは無意識に背筋を伸ばしていた。
隣を見る。
リゼアは既に姿勢を正している。
レオンも立ち上がっていた。
「隊長」
レオンが言う。
男は短く頷いた。
そして三人へ視線を向ける。
「ギルフォード・レイヴンだ」
男は名乗る。
低い声だった。
大きくもない。
威圧するような口調でもない。
それなのに妙な重みがあった。
「本日より第九班を指揮する」
それだけ。
余計な言葉はない。
歓迎の挨拶も。
激励も。
自己紹介すら最低限だった。
だが、不思議と不快ではなかった。
必要なことだけを口にする人間なのだと分かる。
ギルフォードは三人を見る。
リゼア。
レオン。
そして。
カナト。
ほんの一瞬だけ。
視線が長く留まった気がした。
だが次の瞬間には消えている。
気のせいだったのかもしれない。
「十分後、作戦会議室へ来い」
それだけ告げる。
「初任務の説明を行う」
踵を返す。
そして何事もなかったように部屋を出て行った。
扉が閉まる。
静寂。
数秒後。
カナトはようやく息を吐いた。
「……凄い人でした」
「だろう?」
レオンが苦笑した。
リゼアも静かに頷く。
「アルビオンの盾」
ぽつりと呟く。
「え?」
「ギルフォード・レイヴン」
リゼアは窓の外を見る。
「現役最強クラスの隊員よ」
カナトは目を瞬かせた。
あの寡黙な男が。
「部下の生存率が異常に高いんだ」
レオンが続ける。
「どんな任務でも、連れて帰る」
「だから隊員達はそう呼ぶ」
アルビオンの盾。
その異名を。
カナトは胸の中で反芻した。
十分後。
自分達はその男と共に最初の任務へ向かうことになる。
まだカナトは知らない。
この男が、自分の運命に深く関わっていくことを。




